いきなり名乗る前から言い当てられ、本人がぎょっとしている間に、続けて彼女は他の男達にも目を向けた。
「そちらは、甲斐さん、平古場さん…まぁ、田仁志さんも…そして」
 最後に、一番傍で自分を見下ろしている知念を見上げ、彼女はにこ、と笑う。
「知念さん…知念さんが助けて下さったんですね、有難うございました」
「…」
 無言は相変わらずだったが、びく、と身体を強張らせつつ僅かに後ろへ退いた事が彼の動揺振りを如実に示していた。
 しかし、動揺したのは知念のみに非ず、他の全員もどよっとその場でどよめき、慌て出す。
「ええっ!? 何? 何で俺のコト…」
 平古場がまじまじと桜乃を見つめるが、やはり記憶にはないと再確認する隣で、甲斐は彼女に迫りながら思わず問い質していた。
「初対面だろ!?」
「ううんと…少なくとも私はお会いしてますけど……皆さんはご存じないと思います。でも丁度、沖縄に来ている間に皆さんにも会いたかったから良かった…」
「それって…?」
 どういうことだ、と田仁志が尋ねる前に、木手が鋭い視線を相手にぶつけた。
 自分達は彼女を知らないのに、彼女は自分達を知っている…?
 では、何処で彼女は自分達の事を知ったのか…顔だけでなく名前まで…
「重要なことを聞いていませんでしたね……貴女は何者です」
「いえ、別に怪しい者じゃ…」
「怪しい人間は必ずそう言うんです」
「ええーっ!?…じゃあ私、不審人物なんですか?」
「永四郎! 永四郎っ!」
 そりゃあんまりだろ!と甲斐が後ろでわたわたと声を掛けるが、木手の厳しい視線は一向に揺るがない。
「そもそも、こんな所に来るまで自分が迷子だと分からないという言い分からして怪しいでしょう」
「本当ですってば〜〜」
「…俺が連れて来た…いなぐ(彼女)は悪くない」
「…知念?」
 まるで彼女を庇うように知念が口を挟み、珍しそうに平古場が相手を伺う。
 それを切っ掛けに、桜乃の弁解の機会が与えられた。
「あの…本当に怪しい者じゃなくて、私は東京の青学の生徒です。竜崎…桜乃といいます」

『っ!!!』

 瞬間、ざぁっと周囲の空気の温度が一気に急降下した。
 木手は僅かに瞳を見開くのみに留まったが、他のメンバー達は完全に硬直してしまっている。
 青学の…竜崎って、まさか…!!
「り…竜崎? もしかして、あのテニス部顧問の…竜崎…?」
 動揺も隠せず、自分を指差して確認してきた平古場に、あっさりと桜乃は頷いた。
「はぁ、竜崎スミレの孫です。大会では皆さんの試合、拝見してましたから」
「……」
 そうか…だから自分達にとっては初対面の彼女が、こちらのことを知っていたのか。
 或る程度の事情はそれで解決はしたものの、それでも男達の心は穏やかではいられなかった。
 その理由は、あの日…大会で青学と戦った時の自分達に由来する。
 ああいう戦い方は本意でなかった…が、今更それを言い訳に出来るとも思っていない。
 あの日、確かに自分達は、彼女の身内を戦略の為に傷つけようとしたのだ…その場にいたのなら、この子がそれを知らない筈もないだろう。
 と言う事は、彼女が俺達に会いたかったという理由は…
「…成る程」
 桜乃と見つめ合う木手が何かに納得した様に頷いたところで、まるで見えない誰かに追われている様に平古場が割り入ってくる。
「あ、あれは俺が…! 永四郎は別に何も…っ」
「黙りなさいよ、平古場君。キャプテンは俺ですよ、彼女が言いたい事なら、俺が聞きます」
「う…」
 厳しい一言に引き下がらざるをえなかった平古場だけでなく、甲斐達も全員が不安げな表情で二人を見守った。
「では、俺達に会いたかった理由を伺いましょうか」
「はい」
 断罪者と向き合う罪人の様に部長が先を促し、それに応える形で桜乃は頷いた。
「おばあちゃんは、恨んでいない、と」
「……え?」
「私にも、恨むなと…皆さんがまだあの時の事を気にかけているのなら、もうそんな事は止めて、前を向けと…私はその伝言を預かってきました」


『桜乃、あの子達を恨むんじゃないよ』
『でもおばあちゃん、テニスをあんな事に使うなんて…! どう見たって、わざとだったのに…』
 青学と比嘉中の戦いが終わった後、応援席にいた桜乃はすぐに祖母の許へと赴き、彼らの行った行為について相手に訴えた。
 素人同然の自分にも分かるぐらい、あの攻撃はあからさまだった。
 何事もなかったのは何よりだが、万が一の事が起こりえたかもしれないと思うと素直に良かったとも言えず、桜乃は納得いかないという表情を浮かべていたが、対する祖母はあっさりと不問に処する決定を下したのだった。
『確かに彼らがやった事は正しい事じゃないよ、けどね、アタシは、あの子達の気持ちも分かるんだ』
『おばあちゃん…?』
『本気でこちらを狙った訳じゃないことぐらいは分かるよ、それが何より彼らの真意を表している…ただただ行きたかったんだろう、上に。けど、気持ちはアタシ達と同じでも、ああいうやり方はやっぱり正しくはないのさ。アタシ達が比嘉を止めたのは寧ろ彼らにとっても良かった。青学と戦った今回の件で、それが分かってくれたなら別に言う事はないよ』
『……』
『だからね桜乃、お前もあの子達を恨むのは止めなさい。禍根を残すこと程、馬鹿馬鹿しい事はない。恨まずに、真っ直ぐな目で見ておやり…そうしたら、きっと彼らの本当の姿が見えてくるだろうさ』
『……』
 老いて尚、猛々しくも慈愛を秘めた目を持つ祖母を見つめ、桜乃はそれ以上、言葉を継ぐ事は出来なかった……


「今頃はホテルですかね、竜崎さんは」
「ん? ああ、まぁ予定ではね」
 一方、東京では、早速来年へと向けて青学の男子テニス部では竜崎スミレの監督の許、部員達が練習を始めていた。
 引退が間近に迫った身とは言え、相変わらずテニス部で細やかな部員への気遣いを見せている大石は、監督に彼女の孫の予定について尋ねていた。
「ま、商店街のくじ引きで旅行が当たったはいいけど、あたしはどうせ部活の指導があるからねぇ。まぁ彼女も随分熱心に応援をしてくれていたから、ささやかなごほうびってトコさね」
「…沖縄と言えば、彼らがいますね」
 『彼ら』が何者を示すかすぐに察したスミレは、少しだけ苦味を含めた笑みを浮かべた。
「ああ…時間があれば桜乃も彼らの学校を覗きに行くかもしれないねぇ。もしかしたら、今頃ばったり偶然に会っているかもしれないが…」
「まさか、初日は早めにホテルに行って休むって言ってましたよ?」
 大石の言葉に、スミレは孫の困った性癖を思い出しながら渋い顔をした。
「どうだかねぇ…あの子はどうした訳だか無意識の内にやたらと縁の深い人間のいる方へ足を向ける。そして困ったコトには、とにかく方向音痴で、ひたすら方向音痴で、とことん方向音痴なんだよ」
(いくら孫でも、そんなにめたくそに言わなくても……)


「そこまで方向音痴じゃないもん!」
「わ」
 場所は再び沖縄・比嘉中
 ようやく体調が戻って来た桜乃は、平古場たちと一緒にベンチに座ってコートで行われている練習を眺めていたのだが、そこでいきなり彼女は声を上げて隣の平古場を驚かせていた。
「な、何かぁ? いきなり大声出して」
「はっ…す、すみません、何故か急に主張したくなって…」
「ふーん…けど、結構酷いぞ、やーの方向音痴。知念が拾ってなかったら、下手すりゃ干物だ」
「い、以後気をつけます…お世話掛けました」
 平古場とは反対側の桜乃の隣に座っていた知念に向かって彼女が頭を下げたが、相手は無言のまま、ただ少女を見つめているばかりだった。
「…珍しいやぁ、初対面で知念を恐がらん女なんて…知念も、やーのこと気に入ったみたいやし」
「そ、そですか? でも、助けて下さった方を恐がることはないですよ。それに知念さん、凄く真っ直ぐな目をしてますし…いい人ですよ」
「…」
 のほほんとした笑顔で面と向かって言われた知念は、暫く無言のまま微動だにしなかったが、徐に桜乃の頭に手を伸ばすと、がしがしがし、と力を込めて撫で回した。
「わぷぷぷ…っ」
 そしてやるだけやって満足したのか、ベンチから離れてコートに向かってしまった後、今度は彼と擦れ違う形で甲斐と木手がその場に来た。
「よー、知念、どした?」
「何やら、赤くなっていた様でしたが」
「え?」
 きょとんとする桜乃に代わり、平古場がひらひらと掌を振って察した様に説明した。
「…拾った奴に初めて懐かれたから、照れたんだろ」
「…ああ」
 成る程、と木手は頷いた。
 確かに、知念は犬やら猫やら小さな生き物を拾ってきては面倒を見るという心優しい一面があるのだが、その容貌の所為もあるのか、あまり懐かれた試しがない。
 いや、嫌われているという訳ではないのだろうが、どうにも相手が警戒を解きにくいらしいのだ。
 それでもそれが日常のこととなってしまった知念は、別に気にしている素振りもなかったのだが、そんな彼がいきなり懐かれてしまったら、それは驚くだろうし動揺もするかもしれない。
「冷静な知念君でもそうですか…確かにこう言っては何ですが、面白い人ですね貴女は…流石、あの竜崎監督のお孫さんというところですか」
「あー…おばあちゃんは確かに色々とスゴイですけど、私はそんな大した人間じゃないですよ」
 そう言うが、例え祖母から言われたとしても、そうそう怨恨の念を捨てるなど出来る事ではない。
 しかし、この目の前の少女は、確かにもうそんな感情とは無縁の場所で自分達と対峙している。
 自分達も武道家のはしくれ…一般人の感情を悟るのは簡単だからこそ、この子の真意を知る事も出来、それ故に自分達も柵(しがらみ)から抜け出すことが出来たのだ。
「…感謝はしていますよ。あの人は確かに良いお祖母様であり、監督です」
 珍しく相手を賞賛した木手に嬉しそうに微笑んだ桜乃は、ところで、と気が付いた様に辺りを見回した。
「…こちらの部の監督さんは今日はいないんですか? 生徒さんばかりですけど…」
「ええ…私も詳しくは知りませんが、学校の都合で今は出てきていません。下らない噂はありますが、まぁ、練習スケジュールは私が組んでいますし…もう、ああいうやり方をさせるつもりもありませんけれどね」
「けど、結局俺らがいなくなったら、アイツがまた同じ事を後輩にさせないかが心配さー」
 甲斐の言葉に続いて、平古場は実に不思議だ、という顔をして首を傾げた。
「それにまだここに出てこないのも不気味やっしー…」
「……」
 彼らの台詞を大人しく聞いていた桜乃は、そこで間が空いたところでさらりと言った。
「やっぱりシベリアに行ったんですか?」

 ちゅどんっ!!!

 いきなりの爆弾発言に、その場にいた全員がぶっ飛ぶ。
「な、な、な…っ!!!」
 あれだけの鉄面皮を誇る木手ですら、この狼狽振り…しかしこれには理由がある。
「シ…シベリアって…やー、何か知ってんのか!?」
 甲斐が、食いつきの良い魚の様に、桜乃に向かってずいっと顔を寄せる。
 実は、あの監督が比嘉から消えた時に、『シベリアか何処かに飛ばされたらしい』という冗談の様な噂が流れたのだ。
 無論現実的にはあり得ない話で、他の生徒の間では、全国大会で満足のいく成績を残せなかったから落ち込んでいるんだろうという事になったのだが、レギュラー達だけはそんな事はある筈もないと知っていた。
 シベリアだの、という話はまぁ荒唐無稽だとしても、他に理由がある筈だ、と思っていたところに、いきなりこの少女のこの発言。
「え…? えーと…」


 再び回想…
 祖母が、比嘉中の生徒を恨むな、と自分に伝えたその意志はよく分かった。
 狙われたのは彼女だ、その本人が己の意志でそう言うのであれば、身内の自分であっても出しゃばることは出来ない…
 しかし、そこは引き下がっても、桜乃にはまだ不安が残されていた。
『でもおばあちゃん…結局、比嘉の人達は負けてしまって…帰ったら、あの監督さん、酷い事をしないかな…あの人達はやりたくないって思っていても、あの人がいたらまた…』
 同じことがまた、繰り返されてしまうかもしれない…
『ああ…あのふざけた監督だね』
 孫の憂いに、祖母もまた同じ様に一瞬、沈んだ顔を見せたがそれはすぐに不敵な笑みに変わった。
『さて、それじゃあ面白くない』
『え…?』
『確かにアタシはあの子達を恨むつもりは毛頭無いが…前途有る若者達にあんな愚行をさせた奴にまで情をかけるつもりはないからね。放っておいても最早老害にしかならないのなら、ちょっとシベリアにでも行ってのんびりしてもらおうじゃないか…丁度頭を冷やすにはうってつけだろうしね』
『???…しべりあ?』


「で、てっきり旅行にでも、と…」
 のほん、と説明する桜乃とは対照的に、他の男達は例外なく顔色が優れない。
 もしそれが本当なら…
(あ、あの監督、何者!?)
(まさか、本当に…飛ばされた!?)
(しかし、一向に私達に報告がないというのも、それが事実なら納得出来ることではあります)
 ひそひそひそ、と話し込む彼らの背中を、桜乃は不思議そうに眺めていたが、そこで自分の携帯を取り出した。
「気になるなら、おばあちゃんに確認しましょうか?」
「いや! いい!」
「聞かないでいいから!」
「お気遣いなく…」
 世の中、知らない方が幸せなこともある…と全員一致。
 そして、全ては再び闇の中に閉じられることになったのである……


 夕刻…
「あそこにあるのが、目的のホテル」
「…本当に逆に来てたんですね、私…」
 その後、桜乃は比嘉のメンバーに連れられて、無事にホテルが見える場所まで案内されていた。
「まぁ、これから行動する時には慌てずに落ち着くことですね」
「ハイ…お騒がせしました〜」
 ぺこ、と謝る桜乃に、平古場は顔を覗きこみながら笑う。
「まー、今日はゆっくり休めばいいやっしー、おばーに宜しくな」
「はい」
「…じゃあな」
「本当に有難うございました、知念さん」
 拾った子猫を手放す様な寂しさがあるのか、また知念は桜乃の頭をわしわしと撫でて、それから皆は彼女と別れた。
「…よく分からない奴だったなー」
「本当にあの監督の孫やがら(なのか)?」
「人は見かけによらないさー」
 田仁志と甲斐と平古場がは〜っとため息をついたところで、不意に甲斐が木手へと振り向いてにっと笑った。
「でも、結局部活の間中、コートにいるのを許すなんて、永四郎もあの子には随分と甘かったよなー…タイプ?」
「そういう質問に答えるつもりはありません」
(気に入ったんだな)
(違ったら即行切り捨ててるもんな)
 無言でそういう事を思っている仲間の心中などとっくにお見通しなのか、木手が冷ややかな視線で彼らに釘を刺す。
「貴方達が何を考えているか大体読めますが…相手は東京の人ですよ。理由もないのにそうそう会える筈もないでしょう。下らない事を言っていると、ゴーヤーが出てきますよ」
「う、ゴーヤーだけは勘弁…」
 そんな彼らが話しこんでいる脇では、一人、知念が沈黙を守りつつ、自分の手に握られていたメモ帳を眺めていた。
 そこにいつの間にか記されていたのは、桜乃の携帯電話番号とメールアドレス。
 別に彼がそれをねだった訳ではなく、単に桜乃が「東京に来ることがあったら」と教えてくれたものだったのだが…因みに自分の分も教えている、但し、携帯を持っていないので自宅のものだ。
(…まぁ、いいか)
 別に今教えなくても…と、知念は日和見な意見に落ち着き、何も言わなかった。
 そこから、彼らと桜乃の奇妙な繋がりが生まれる事になるのだが、それはまだ誰も知らない…






濫觴(らんしょう)・・・物事の起こり、始まり、出会い


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