比嘉の夏物語
「おう、知念、うきーみそーち(おはよう)」
「……うきーみそーち」
或る日の沖縄のとある海岸線…
金髪が美しい若者が、黒髪の同年代の男に朝の挨拶をしていた。
金髪の若者は、しかし紛れもない日本人であり、艶やかな髪は常日頃から入念に手入れをしている成果である。
彼は比嘉中の三年生、平古場凛という名前であり、男子テニス部のレギュラーを務めていた。
軟派な外見だが意志は強く、試合の時に見せる闘争心も特筆すべき点がある。
一方で、物静かな挨拶を返した男は知念寛という名であり、平古場と同じく比嘉の三年生、更に男子テニス部レギュラーで、彼のダブルスの相棒でもある。
非常に無口で冷静沈着な男であるが、普段、熱くなり易い相棒を抑えるブレーキの様な役目を果たすこともよくある。
しかし、実際は大人しいだけの性格とも言えないようで、土壇場では意外な一面を見せることを、最近の試合で披露したばかりだった。
「んー、かわらんぐとぅあちさん(相変わらず暑いな)。まぁ、雨もあんしーしちゅんやあらんし(そんなに好きじゃないし)、あんそーる練習日んかいや、うれー晴りとーんぬがでぇーいちやんやー(こういう練習日は、やっぱり晴れてるのが一番だな)」
「……」
無言ではあるが、知念は相手を無視したのではなく、こっくりと頷くことで答えとしたのである。
一般的な…割と普通の観点では、知念の性格は端的に言ったら『暗い』のかもしれないが、長年の付き合いである平古場や他のレギュラー達は気にしてはいない。
「…で、やーはきっさからぬーゆでぃういびん(お前はさっきから何を読んでいるんだ)?」
道すがら会った時から相手が歩きながら読んでいた文庫本に興味を示した平古場は、言いながらひょいと頭を動かしてその表題を覗き込んだのだが、その表情がすぐにうっと気まずいものに変わる。
「……やーはまたそんなどろどろぐちゃぐちゃしたモノを…」
「…背筋が冷えるとあびらりたぐとぅ(背筋が冷えると言われたから)、クーラー代わりに…」
「…なった?」
「……」
今度は、知念の首は横に振られる。
その答えも予想の範疇だとばかりに、平古場はやれやれと相手と同じく首を横に振った。
「やーのホラー耐久レベルじゃー、生半可なものはうちわ代わりにもならないし…どれ」
どうやら、知念が読んでいたのはどろどろぐちゃぐちゃしている愛憎モノではなく、単に生々しい表現がふんだんに盛り込まれているホラー小説らしい。
相手があまりに平気な顔をしているので、つい平古場もどんなものかと興味が湧いて、ひょこんと中身も覗きこんだ。
「……………」
時間にしたら十行も読んでいない内から、彼はがばっと視線を外し、背中を向けてがたがたと震え出す。
余程…物凄い表現のあったページらしい。
「……」
「その羨ましそうな目をやみれーっ(やめろ)!! 二度とやーのむっちょーん(持っている)本なんぞ読まんっ!!」
確かに涼しくなった、確かに。
体感温度が一気に十度ぐらいは下がった気がする…が、ついでに寿命も縮んでしまった気も激しくする。
こういう涼み方は健康上宜しくないし、羨ましがられても自慢にならない…つかシャレにもならない!
「しまえ! もーしまえっ! その本! やーなら夜中に墓場にんじやてぃん(行ってでも)読めるだろうがー!」
無理やり読まされたのでないのなら、一応自己責任になる筈なのだが、あまりに本の内容が怖かったのと悔しかった所為か、平古場は派手に手を振り回して相手に要求した。
とんだ非難だが、知念は慣れているのか、特に文句を言う事もなく素直に文庫本をスポーツバッグの中にしまいこむ。
しかしながら内心では、こうして相手が向こうから自分の手持ちの本を読み、思い切り良く墓穴を掘るのは何度目だろうかと純粋に考えていた。
「あー、なーしむん(もういい)! 暑い時にはやっぱ海さ! 丁度今日もこれから練習兼ねた海水浴だしな」
気を取り直そうという様に、平古場はぶんぶんと自分の持っていたスポーツバッグを振り回す。
普段は彼らはテニス部員なのだからテニスバッグを持っているのが常なのだが、今日はそれではなく、学校の体育の授業等で使用するスポーツバッグだった。
実は、今日のテニス部レギュラーの練習はコートではなく、海で行われる予定だったのである。
海で泳いだり、潜ったりすることはかなりの運動負荷になり、全身運動であるテニスの体力作りにももってこいなのだ。
しかも、炎天下で脱水の危険に晒されるコートと異なり、涼をとれるということもあって一石二鳥。
夏休みにもテニスの上達に余念のない二人は、揃って指定された海岸へと向かって行った。
こういう天気の良い海水浴日和には、良く知られた観光スポットには家族連れや恋人、友人同士が連れ立って、海岸は非常に賑やかな光景になるのだが、彼らが行くのは地元民しか知らないような穴場だった。
自分達はあくまでも練習で海に行くのであり、観光で行くのではないことぐらいは、彼らも理解している。
それにあの気難しい部長が、あっさりと遊泳目的の場を指定する筈もないのだ。
「あーあ、今日は何やらされるんかなー…ただの遠泳や素潜りなら慣れたもんやっし」
「…砂場の連続ダッシュ縮地法バージョン…とか?」
「それはちょっと…」
勘弁してくれないかなー、アレ結構きついんだよなー、でもゴーヤーも嫌だなーと部長の前では言えないささやかな愚痴をぶつぶつ零しながら、平古場は知念と一緒に、目的の海岸線に歩いて行った。
「今日は、主に素潜りを行い、心肺機能の向上を図りますよ」
(ラッキー)
何事もなく海辺に到着した平古場達は、しっかりと水着に着替えてメンバー達と合流していた。
部長である木手永四郎の招集を受けて円陣を組む形で集まったレギュラー達も既にいつでも泳げる体勢に入っている。
「今日はよく晴れてるし、海の中もキレーに見えるさー」
「くまー(ここ)は地元の人間もあんしーわかやびらん(そう知らない)秘密の穴場やし、邪魔さりんしわもない(邪魔される心配もないな)。はねーかちな海水浴場も海ぬ家があいぐとぅ、うむっさんしが(賑やかな海水浴場も海の家があるから楽しいけど)」
平古場たちと同じメンバーの甲斐と田仁志が、楽しみだーという様子も露にそう言ったところで、ふとその内の甲斐が何かを思い出した様に言った。
「あんあびーねー(そーいやー)、昨日の竜崎も折角沖縄にちーういびんし(来ているんだし)、今頃は海かもなー」
「あー、あんあびーねーやさな(そう言えばそうだな)」
うんうんと平古場はそれに賛同して頷く。
彼らが口にした竜崎、という人物は、青学の竜崎桜乃という中学一年の少女である。
元々学校が異なる相手だが、彼女の祖母が青学の男子テニス部の顧問であったという事が縁となり、また、丁度夏休みを利用して沖縄に遊びに来ていた桜乃が、つい先日持ち前の迷子スキルを如何なく発動し、知念に助けられたという経緯があった。
助けた後、自分達で彼女が宿泊予定だったホテルへと送り届け、今日に至るのだが、おそらく今頃は有名な海水浴場にでも行って楽しんでいることだろう。
「……」
そんな仲間達の言葉を聞きながら、寡黙な知念は視線をじっとそこから離れた岩場に向けていた。
自分達しかいないと思っていたその場所に、一人の海水浴客が見えたのだ。
白の水着を着た女性…昨日のおさげの少女である。
しかし今日は海水浴に合わせてか、髪が後ろにお団子状にまとめられた姿だった。
「……」
知念が寡黙である事は誰もが知っている事なので、周囲の若者達は相手が注視しているものにも気付かず話を続けている。
「ま、アイツは呑気やくとぅ(呑気だから)、いーじゅんやか、海んすばであしどーんイメージやいびん(泳ぐよりも海辺で遊んでいるイメージだな)」
「あー、確かに…で、また迷子になてぃ何処ともしれない海に来てたりしてさー」
「……」
平古場と甲斐の話が弾んでいる間も、知念の視界の先では少女が実に危なっかしい動きでちょこちょこと岩場を海に向かって歩いて行く。
何を考えて無言を守っているのか分からない知念の隣で、他の二人の話は更に小さな盛り上がりを見せていた。
「ってゆーか、ひさ滑らせて海んかい落ちてんぶりーんんやあらんがやー(足を滑らせて海に落ちて溺れるんじゃねーの)?」
「で、ライフセーバーにたしきらりてぃ、うまからくいが始まいねー(ライフセーバーに助けられてそこから恋が始まると)…ははは、ないない」
「……」
そうしている間に岩場の先端まで来ていた少女は、じーっと海を覗き込んでいたが、急に足場の窪みか何かに嵌ったのか、いきなりバランスを崩してざっぱんと海に転落してしまった。
「!……」
更に沈黙を続けた知念も、それには流石に大きな瞳を更に見開き顔色が青くなっていたが、そんな彼に気付かず木手が全員に注意を促す。
「お喋りは慎みなさいよ。ここの海流は急ですからね、泳ぎに自信がある私達でも、油断したら溺れる可能性も十分にあります。一般人ならかなり危険でしょうね」
直後、知念、海に向かって猛ダッシュ。
「えええーっ!?」
「知念!? ちゃーさびたが(どうした)ーっ!?」
仲間達が叫ぶのも聞かずに彼は躊躇いなく海へと飛び込み、そのまま潜って目的の場所に急いだ。
そして、再び彼が海辺に戻って来た時、彼の脇にはくた〜っと脱力した水着姿の桜乃が抱えられていたのだった。
「りゅ〜う〜ざ〜き〜さ〜〜ん!! 貴女という人は〜〜〜〜〜〜っ!!!」
「ええええん、すみません〜〜〜〜〜〜っ!! また迷子になっちゃって〜〜〜!!」
救助が素早かったのが功を奏し、幸い桜乃は水を飲んだりすることもなく、少し後には十分元気に回復していた。
但し、それでよかったよかったと単純に終わったという訳でもなく、彼女には後になって木手のきついお説教が待っていたのだが…
「貴女、もしかして私達の特訓を邪魔する為の青学の刺客じゃないでしょうね…」
「そそそそ…そんな格好いいコト私には出来ません〜〜」
どうやら何かのドラマと勘違いしているらしいが、まぁ、そういうすっ呆けた返答を返すところからも、疑惑がとんだ筋違いということがよく分かる。
「…で、何処に行くつもりだったんですか、今度は」
「うう…〇●海岸に…」
彼女が泊まっていたホテル、目的の海岸、そしてこの場所…それらの位置関係を考えてみると…
「…貴女、地図を逆さに読むの止めなさいよ」
「ま、また逆でしたか…」
がーん、とショックを受けている少女を遠巻きに眺めていた他のメンバー達は、思い切り特訓の出鼻を挫かれた疲労感もあり、少し疲れた表情で頭を突き合わせている。
「たった一泊二日の中で二回も死にかけるって…」
「うちなー(沖縄)って、そこまでサバイバルな土地だったか…?」
「いやいや、彼女だけやっし…きっと」
「……」
田仁志や平古場、甲斐が眉をひそめながらぼそぼそと話している脇では、海に一足先に潜ることになった知念が全身を濡らした状態で無言で佇んでいたが、叱られている桜乃の様子が気になるのか、時々ちらちらと彼女達の方へと視線を送っている。
しかしどうやら、最悪の罰であるゴーヤ責めは勘弁してもらえたのか、それから彼女は木手に連れられてメンバー達の方へと向かってきた。
「よー、竜崎。まぁなんつーか…お久し振り」
平古場も、どう挨拶したもんかと悩んでからのこの台詞。
「生きて会えて嬉しいさー」
「やーも、もっと食わないとな」
「……」
「お騒がせしてスミマセン…」
その他の若者達もそれぞれの挨拶をしたところで、木手が彼女を傍に連れたまま宣言した。
「まぁ、来た以上は仕方ないでしょう。別に門外不出の特訓という訳でもありませんし、彼女には危なくない様に、海岸でカニとでも戯れていて頂きます」
「永四郎…実はまだ怒ってるだろ」
「カニって…」
折角海に来てそれはないだろうと平古場と甲斐がフォローしたのだが、向こうは眼鏡を押し上げながら逆に聞き返した。
「何か不都合が?」
「だって、海に来て泳がせないだなんて…」
「ちょっと可哀相さ、なぁ、りゅうざ…」
甲斐と平古場が相手に同意を求めてそちらを見遣ったが、桜乃は最早心ここに在らずといった様子で、カニの棲家である岩場にキラキラと目を輝かせている。
「…行きたいんだな?」
「…カニ捕りたいんだな?」
二人の問いに、桜乃はこっくりと実に素直に頷いた。
本人がこの調子なら、確かに彼女に対しそれ程に酷な罰とも言えないかもしれない。
「ここの潮の流れの速さは先程溺れた時に十分分かってもらえた様ですので、本人も異論はないそうですよ。波打ち際で遊ぶぐらいはいいでしょう」
「ふーん、ならいいんじゃないか」
どうでもいいやーとばかりに田仁志が同意を示し、知念もこの処遇には特に異論はないらしく、安心した様子で桜乃を眺め、じっと無言を守っていた。
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