「では、思い切り脇道に逸れて、したたかに街路樹に激突したぐらいに脱線してしまいましたが、改めて特訓を開始します」
「永四郎…それもう大惨事やし…」
「生存者おらんに…」
 想像するだに恐ろしい光景だ…と平古場と甲斐が憂鬱な表情で突っ込んだが、相手はこれ以上貴重な時間を無駄にしたくないと、完全無視を決め込んだ。
「取り敢えず当初の目的である素潜りですが、この先、五十メートル程度の処で行いましょう。今の時間なら潮流も穏やかなので、君達なら問題ない筈です」
『おう』
「組に分けて交代制で潜ります。先ずは田仁志君と甲斐君と知念君が行って下さい。時間は掛かって構いません。二往復、最深部にある貝なりを捕ってきたところで交代にしたいのですが、異論は?」
「つまり、二つ潜りきった証拠を揃えたらいいってことだろ? 異論なし」
「わん(俺)も」
「…分かった」
 三人が頷いたところで、木手はしっかり念を押す。
「因みに潜りきれずに浮上した場合は、ゴーヤーが待っていますから」
「…お構いなく」
 やっぱりそう来るか…と半ば諦めて三人が海へ出て、ある程度まで行った処で、ざばっと揃って中へと潜って行く様子を、桜乃は少し緊張の面持ちで見つめていた。
 最初に自分がここの海に落ちた時は、何がどうなっているのか分からない状態で、激しい力に押し流されていきそうだった。
 いきなり落ちてしまって心の準備が出来ていなかった事もあっただろうし、パニックになっていたこともあるだろう。
 それでも、あの時の恐怖は言葉では言い表せない。
 そんな蒼い罠が隠れている海に、難なく潜っていける若者達は、桜乃の目にはとても逞しく、眩いものに見えたのだ。
「……凄いですねぇ」
「は?」
「あんなに強い潮の流れの中で素潜りの練習なんて」
「…私達比嘉中のレギュラーなら、こんなものは出来て当然ですよ」
「そうなんですか?」
「ええ」
「わぁ…」
 ヤマトンチューはこれだから…と言いたかった木手だったが、相手の心からの尊敬の眼差しに、瞬時に毒気を抜かれてしまった。
 こほ…とその場凌ぎの咳を一つして視線を逸らし、本来の目的へと立ち返る。
「さて、私は何か間違いが無いように監視しなければいけません…貴女はカニとでも遊んでらっしゃい」
「そうしまーす」
 きゃ〜っと楽しそうに岩場に向かっていく少女に、木手は少しだけ疲れた様子で視線を送る。
 向こうに悪気はないし、邪魔するつもりもないのだろうが、どうにもテンポを激しく狂わされてしまう…
 そもそもここに彼女が来なければ、自分達も特訓に集中出来たし、向こうも今頃は他のもっと大勢の海水浴客で賑わう海で楽しい一時を過ごせただろう。
 そういう海には大体ライフセーバーも付いているのだし…
「……」
 そんな微笑ましい光景が一瞬思い浮かびはしたのだが、彼女のあの呑気な性格を考えると、次から次へと危ない光景も浮かんでくる。
 海水浴ではなくナンパ目的で来たり、盗撮したり、いかがわしい目的で来る客も確かにこの時期少なくはない。
 勿論これは沖縄に限った話ではなく、全国で言えることなのだろうが、土地勘皆無の彼女が優しい言葉に乗せられ騙されて、酷い目に遭う危険もあったかもしれない。
 ぽえぽえしているが、スタイルは悪くないし、水着姿も十分に……
 そこまで考えたところで内心慌てて思考を停止させた木手は、再度ちらりと岩場に向かう桜乃の姿を見て、こっそりと思った。
(………まぁ水着姿はどうでもいいとして、あんな場所より私達が傍にいた方が安全ではありますけどね)
 なかなか素直になれない部長である。
 そんな木手の心中は露知らず、桜乃は無邪気に岩場に登ると、カニが隠れていそうな穴を覗き込み、試しにそ〜っと右手を中へと差し入れようとした…が、
「こらこらっ!! 危ないって!」
「ほえ?」
 その右手をぎゅ、と掴まれ見上げると、しかめっ面の平古場と目が合った。
「あ? 平古場さん…」
「そんな手ぇ入れたら、カニに指挟まれるぞ。止めとけ」
「あう…じゃ、じゃあどうしたら…?」
 手を入れなければカニに接近は出来ないし、かといって、ずっと向こうが頭を出してくれるのを待っていても埒が明かない。
「カニを捕る場合はなー…えーと」
 桜乃に問われた平古場は、一旦その場に立ち上がると、彼らのスポーツバッグが置かれている木陰へと視線を向け、ちょい、と桜乃を指で招いた。
「ちょっとこっち来ちみぃ」
「? はい…」
 素直に彼について行った桜乃は、若者が置かれているバッグの内の一つを開けたところで、あら?と首を傾げた。
「…もしかして、それって田仁志さんのバッグじゃ…」
 そう思ったのは、別にバッグに彼の名前が書かれていたとかそういう訳ではなく、沢山のお菓子や食べ物がぎっちりと詰め込まれていたからだ。
「おー、内緒だぞ…んー」
 あっさりとそれを真実だと認めると、金髪の男は中から一つの袋を取り出した。
「おー! これがいいさー、よし」
 手にした袋の中には裂きイカが入っており、平古場は袋を破ってそれらの幾つかを手にすると、バッグに残りを戻して今度は自分のバッグを開きごそごそと漁る。
 しかしそれも長くはなく、彼は程なく自分のバッグも閉じて、改めて桜乃を岩場へと連れて行った。
「いいかー? カニを捕りたいなら、こうしてイカに紐を付けてだな…」
 自分のバッグのサイドポケットに入れていた、髪を括る為の細い紐をイカに結びつけ、平古場が即席のカニ釣り道具を桜乃に手渡した。
「これを穴に入れて敵が食いつくのを待つんさー」
「すごーい、すごーい!」
 目の前の若者がてきぱきと小技を披露したのを見て、桜乃がぱちぱちと手を叩いて大いにはしゃぐ。
「ほれ、やってみ」
「はぁい」
 そして桜乃は、平古場の的確なアドバイスを受けながら、楽しくカニ捕りに興じ始めた。
(平古場君…おばあちゃんっ子スキルが如何なく発揮されていますね)
 クールな外見に似合わず実は面倒見の良い一面を見せる部員を、木手は遠くから冷静に分析していたが、少女に怪我をさせない防衛手段にはうってつけだと判断し、海に潜った三人が戻るまで彼に子守を任せていた。


 カニを五匹獲得したところで、平古場達は甲斐達と交代することになった。
「平古場さん、いってらっしゃーい、木手さんも頑張って〜!」
「おう」
「恥ずかしいから大声で叫ばないで下さい…」
 すっかりお兄ちゃん代わりになっていた平古場を送り出し、木手にも応援の声を掛けた後、桜乃は今度は戻って来た甲斐達に引き渡される事になった。
 流石に二回、結構な深さの処まで素潜りを行ってきた疲労感は三人にも現れていたが、それでもまだ足腰はしっかりしている。
「お帰りなさい、皆さん。お疲れ様でしたー」
「おーう」
「腹減った」
「……」
 どうやら三人の中にはゴーヤーの出迎えを受ける脱落者は一人もいない様だ。
 しっかり手に貝やら珊瑚の欠片やらを持ってきた彼らは、先ずは砂浜に着いたところでごろんと身体を投げ出し、思い思いに休息を取る。
 一人だけ、田仁志は早速バッグへと向かい、栄養補給をするつもりらしい。
「やーはカニは捕れたのか?」
「はい! 平古場さんが色々と教えて下さって、五匹も捕りましたよー。全部逃がしてあげましたけど」
「そっか」
 アイツも世話焼きだからなーとしっかりと仲間の性格を読んだ甲斐は、よかったなーと素直に喜んでやる。
 本土の人間には、若干、冷たい態度をとることもある彼らだが、桜乃に関しては彼女の旅行中にかなり敷居は低くなってきたらしい。
 まぁ勝負を仕掛ける相手でもないし、何よりこういうほのぼのした女子に対し、悪戯に強気に攻める必要もないだろう。
「皆さんはどうでした?」
「あー、相変わらずキツかった。けど、海の中は綺麗だからなー、見てるとそんなに辛くはないさ」
「甲斐さんは、海が大好きなんですね」
「ま、わんの親父の影響かもしれないんだけどなー」
「…知念さんも海、好きですか?」
「……」
 相変わらず無言だが、頷きはこっくりと返してくれる若者は、実はかなり律儀なのかもしれない。
「ですか…でも確かに凄く綺麗ですよねぇ、沖縄の海って…東京のそれとは全然違います」
「まぁな、けど、海は綺麗なだけじゃなくて、気を抜くと引きずり込まれるからな。さっきもやーは、怖い思いをしたばかりだろ?」
「そ、そうですね」
 確かに相手の指摘した通りだと桜乃は認め、それからじっと蒼が美しい海を波打ち際で見つめていた…のだが…
「……」
 どう見てもうずうずと身体を揺らしている少女の姿に、相手が何を考えているか、甲斐も知念もすぐに察してしまう。

(泳ぎたいんだな…)

 一度は怖さを思い知らされたが、この美しく輝く海はそれで諦められる様な生半可な誘惑ではない。
 それを誇りに思っているからこそ、甲斐達は少女の気持ちを気安く諌める事はしなかった。
「やー、泳ぎたいんじゃないか?」
「そ、そんな事はっ…! えー、あると言えばそうなのかもしれませんけど、まぁそう言われたら否定をし辛くなると言いますか、そのう…」
「言えよ、もう素直に…」
 げんなりとした甲斐が呆れた口調でそう答えると同時に、徐に知念がすっくと立ち上がり、桜乃の腕を掴んで引き上げる。
「はい…?」
「…行くぞ」
「え…」
「……俺達が言う処で一緒に泳いだら、問題ない」
 つまり、潮の流れが緩やかな場所で、自分達が付いていてやるから安心して泳げ、という意味だろう。
(おっ…)
 前回といい今回といい、桜乃を繰り返し救った無口な若者の気遣いに、甲斐が面白そうに相手を見遣る。
 今までその外見や無口な性格から、女性とは殆ど縁が無かった相手だが、桜乃はどうやら彼にとっては付き合い易い異性と判断されたらしい。
「…裕次郎?」
「はいはい、行きますよ」
 行かないのか?と問い掛ける様な相手の呼びかけに、特に断る理由もなかった若者は、苦笑しながらついて行った。
 そして彼らは、男達にとっては水遊び程度ではあるが、ちゃんと泳げる程度の水深の場所で沖縄の海を満喫し始めたのだ。
「きゃ〜〜、気持ちいいですねー」
「あまり沖には行くな。いなぐぬ(女の)力じゃ、戻るのが難しい」
「はい、知念さん」
 軽く立ち泳ぎをしながらそういう会話を交わしていたところで、甲斐がちょっとからかう様に笑って言った。
「まー、女性の身体は脂肪が多いから、その分浮き易いかもなー」
「あーっ! セクハラですね、甲斐さんっ!」
「だって本当のコトやし?」
 にっと笑う若者に、むーっとむくれていた桜乃は、は、と何かを思いついた様な顔をすると、ぷくんと海の中へ潜って行った。
「…ありゃ?」
 どうしたんだろう、と考えていたところで、丁度そこに二度の素潜りを終えた木手と平古場が加わってきた。
 どうやら戻ろうとしたところで、三人のいる場所を確認したらしい。
「何をしているんですか? あなた達」
「…あれ? 竜崎は?」
「あ、いや、それが…」
 言いかけた甲斐の後ろから、不意に、誰かがとんとんと肩を叩いた。
「ん?」
 何も考えず、ふいっと振り向いたその若者の視界に飛び込んできたのは、びっしょりと濡れた長い黒髪を、顔面に垂らして迫ってくる女性の姿だった。
「どうわああああっ!! ザ、ザンか〜〜〜っ!!??」
 ぎゃ〜〜〜〜っ!!と激しく狼狽して怯えまくってしまった甲斐だったが、勿論それは幽霊でも妖怪でもなく…
「仕返しですよーだ」
 お団子の髪を止めていた髪留めを外した、桜乃だった。
(……貞子?)
(今、『くーるー、きっとくるー』って歌詞が流れたぞ、素で…)
 合流したばかりの木手と平古場も、ついそんな事を考えてしまったが、甲斐はそれどころではなく、まだ動揺した心を抑えきれないでいた。
「…ぷっ」
 滅多に見ない仲間のうろたえ振りに、やがて平古場が大声で笑い出す。
「はははははっ!! 何してるんさー、裕次郎!?」
「う、うるさいー! 竜崎ーっ、覚えてろよ、やーっ!!」
 親友達に醜態を見られ、真っ赤になった甲斐だったが、対する少女はまだ顔の前に髪を垂らしたままあかんべぇをしてみせた。
「女の子にセクハラするからそーなるんですーっ」
「……」
 そんな、ちょっとホラーちっくな桜乃の姿を見ていた知念は相変わらず無言だったが…

 ぽっ…

と、微かに頬を紅潮させてしまった。
(ええっ!?)
(『ぽっ』…てナニ!? 『ぽっ』って!!)
(照れるトコ違うんじゃ!?)
 何処がどうツボを突いたのか分からない!と、全員が混乱する中で、どうやら更に桜乃を気に入ったらしい男は、きょとんとする少女をじっと見つめていた。


「いやー、面白いモン見たさー」
「しつこいっての、凛!」
 それからも特訓の傍らで桜乃にかまってやりながら、比嘉のメンバー達は夕刻を迎えていた。
 特訓の時間が終わり、彼らが解散すると同時に、桜乃にもまた宿泊しているホテルへ戻る時が訪れる。
「今日はご迷惑を掛けてすみませんでした。でも、とても楽しかったです。有難うございます、皆さん」
「まぁ、沖縄のイメージを誤解される訳にはいきませんからね」
(…素直に自分達も楽しかったと言えばいいのに)
 そう思った田仁志が口に出して言わないのは、口に食べ物が入っていたのと、口に出せば後でゴーヤー責めが待っていると分かっていたからだ。
 比嘉のメンバーは、ここなら迷いようがないというホテルの近場まで桜乃を送り届け、その場で別れを告げる。
「じゃあな、竜崎。気をつけて…て言うか、気合入れて帰れよ」
「やー、今度からは一人で旅行は止めた方がいいぞ」
「……元気で」
 メンバー達がそう言葉を投げかけて、最後に木手が白のビニル袋を桜乃に差し出した。
「これを。お土産です」
「わ…何ですか?」
「それは開けてからのお楽しみということで…では、私達はここで失礼しますよ」
「あ…はい。皆さんも、どうかお元気で…」
 結局、中身については言及せずに、比嘉のメンバーは去っていった。
 名残惜しい気もするが、いつまでも引き止める訳にもいかないので、桜乃は最大限の感謝の気持ちを込めて一礼し、彼らを見えなくなるまで見送った。
 一人きりになると今更ながらに心寂しくなり、自分が彼らに精神的にも大きく頼っていた事を自覚する。
(迷惑ばかり掛けてしまったけど、比嘉の皆さんに会えて本当に良かった…我侭かもしれないけど、またいつか会いたいな……そう言えば、何だったんだろ、これ…)
 見送りが終わってから桜乃がそのビニル袋を覗き込んでみると、すぐに少女の顔が驚きと、喜びに彩られる。
「わぁ…!」
 そこには、色鮮やかな貝や珊瑚の欠片が入っていた。
 彼らが今日の素潜りで証として拾い上げてきた、海の宝だ。
 ビニル袋にそっけなく放り込まれた形だが、どんな土産物屋でも、こんなに綺麗でこんなに嬉しいお土産は置いていないだろう。
「……うふふ」
 勿論、家族や友人達にもお土産は買っていくつもりだが、これは自分の独り占めにしてしまおう…と、桜乃はこっそりとささやかな企みを心に誓う。

 その企みの通り、沖縄から無事に戻った後…桜乃の部屋の机上には、綺麗に並べられた海の芸術達が在ったのである……





*ザン…沖縄に伝わる妖怪。上半身は人間、下半身は魚の姿なのだそうです。人魚のイメージに一番近いみたいですね。


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