氷の帝王と春の姫(後編)


「何だかまた変な話になってきちゃった…まぁ、このぐらいの料理ならもう身体が覚えてるからいいけど…」
 厨房に来た桜乃は、こんな立派で豪勢な場所で作るには申し訳ないと思う程に庶民の味を作っていた。
 流石に家で家事を手伝っているだけあり、その行動はなかなか堂に入っている。
(うわぁ、包丁も凄く切れ味がいいなぁ…お鍋とかも全部見たことないぐらい立派なものだし…うう〜、お嫁さんになってこんなキッチン持てたら最高〜〜〜!!)
 女性としての最高の贅沢を言ってみたのだろうが、あくまで料理するのは自分であり、コックやお手伝いを雇うという思考にいかないのが根っから庶民である。
 何だかんだと一人で盛り上がりながら、他のコック達の邪魔にならないように気をつけつつ、桜乃はリクエストされた品々を仕上げていった。
 決して贅沢なものではないが、一般家庭の食卓の上に上るものとしては充分に立派な見栄えである。
「はい、出来上がり〜〜〜…皆さんで食べる分としては充分かな…」
「お客様」
 丁度そこに来た執事らしき老年の男に、桜乃はあっと振り向いて笑った。
「すみません、お料理出来ましたから、これ、跡部さん達のところに運びますね」
「いえ、運ぶのはこちらでさせて頂きます…お客様にはお召し物を用意してございますので、どうぞこちらへ…」
「…え?」
 今度は…またどんな変な話、ですか……?


 戸惑いながらも、桜乃は執事に連れられて、屋敷の一室へと通された。
 本当に、ここは何処かフランスの城の一画ではないのだろうか…そう考えてしまう程に煌びやかな部屋だった。
 おそらく婦人の客人の為の部屋なのだろうが、今は自分と自分についてきたメイド達しかいない。
「こちらに着替えて頂きます」
「これ…って…」
 真っ赤なドレス…肩がむき出しになり、背後も大きく開いた大胆なデザインだ。
 絹で作られたそれは艶々とした輝きを放ち、目立たないわけがない。
 無論、こんなドレスは絵本の中でしか見た事がなかった桜乃は、思わず卒倒しそうになってしまった。
「い、いえ……私、これでいいですから…この服で…」
 必死にこの場を逃れようとした桜乃だったが、既に跡部の策略は彼女の逃げ場を全て塞いでしまっていた。
「そういう訳には参りません。景吾様のお達しですので、着て頂かなければ、我々が景吾様に叱られてしまいます」
「そんなぁ…」
 本当は断りたいけど…それで他人にまで迷惑が掛かるなんて…
(うう…私なんかがこれ着たって、良い笑い者になるだけなのに…跡部さんの意地悪〜〜)
 まさかこの後で更なる謀略が待っているとも知らず、桜乃は、しくしくと心で泣きながら仕方なく己の身をメイド達に委ねた。
 カジュアル服を取り去り、ドレスを纏う脇で、別のメイド達は彼女のおさげを解いて櫛で髪をとかしていく。
 元々がストレートの髪なので梳く行為そのものは難しくなく、また、それなりに手入れもしていたので、艶も良かったのだが、メイド達が何より驚いたのは、髪を解いた後の桜乃のイメージの豹変振りだった。
 あまり目立たない地味な少女だと思っていたところが、真っ赤なドレスを纏い、黒髪を遊ばせると、まるで魔法が掛かった様に輝く存在感が露になったのだ。
 その姿は、軽く化粧を施され、ドレスに合わせて赤いカチューシャを付けられた後に更に艶やかになり、桜乃は地味などとはとんでもない、まるで何処かの王女の様に変身を遂げてしまった。
「流石は景吾様の御学友、何とお美しい」
 執事の言葉は本心からのものだったが、桜乃は当然、お世辞としか受け止めていない。
「ど、どうも…」
「これはすぐに景吾様をお呼びしなければ、さぞやお喜びになるでしょう…少々お待ちを」
「は…はい…?」
 何で彼をわざわざ呼ばないといけないのか…悩んでも結局思い浮かぶ案は一つもなく、桜乃は惚れ惚れとこちらを見つめてきているメイド達の視線がくすぐったくて、ゆらゆらと身体を揺らしながら若者の到着を待った。
 それから、数分が経過した頃、かつかつと廊下を歩く足音が聞こえ、部屋にあの氷の帝王が踏み込んできた。
「竜崎、服は着替え…」
 『着替えたか』という質問を投げかけようと思ったのだろうが…
「……」
「?」
 桜乃の姿を見た跡部が、びたっと身体を硬直させ、一緒に口も固めてしまった。
 ただ、彼の目だけがせわしなく動き、何度も桜乃の全身を見つめるだけ……
「……跡部…さん?」
「っ!」
 もしかして、自分の予想以上に滑稽な格好になっているのだろうかと、不安も露に桜乃が声を掛けた。
「すみません…やっぱり元の服に着替えましょうか?」
「い、や……今のままでいい」
「え…?」
 一方跡部は、予想もしていなかった事態に内心うろたえていた。
 嘘だ…自分の眼力ですら、気付かなかったんて…!
(何だコイツは…一体どうしてあの地味娘がここまで派手になるんだ!? とんでもないダイヤの原石じゃねぇか、しかも本人はまるで気付いてないみてぇだし…)
 正直、彼女を紹介した時点で多少の失笑を買う覚悟はしていたが…これはもしかしてもしかするかも…
「…竜崎」
「は、はい…?」
「すまねぇが、ちょっと付き合ってもらうぜ。お前は何も喋らなくていい、黙っていろ、いいな」
「…何をするんです?」
「それは来たら分かる…いいな、喋るなよ?」
「…は、い…」
 念を押され、少し圧されながらも桜乃はこくんと頷き、彼の後をぱたぱたとついていった…


「うっま〜〜〜〜〜〜! おいC〜〜〜!!」
「いけるな、これ…正直、こっちの方が飽きがこなくて良い感じだぜ?」
「激ヤバだな、跡部の分まで食っちまいそうだ」
「殺されますよ…」
 先に自分達のテーブルに届けられた桜乃の手料理を皆が食べていると、ステージの方が少しばかり賑やかになってきた。
「お?」
「いよいよ始まるんか…お嬢ちゃん、ショックで倒れんでほしいわ」
 忍足達が注目する中、ステージ中央にあの若き帝王の姿が現れ、マイクを手にすると、その場の全員に伝わるようにはっきりとした口調で話し始めた。
『この度は、かくも賑々しくお集まり頂き、有難うございます。父が不在により僭越ながら私が代わりに皆様に心より御礼申し上げます』
 いつもの俺様口調は暫し休み、跡部は実に流暢にホストとしての任をこなしてゆく。
『さて、この場にいる皆様には、私などの為に将来のパートナーをお探しになることにご砕身下さっている方々も多いと聞き及んでおります…真に、私などには過ぎた幸いでございます』
 彼の台詞を聞いたところで、パーティーに参加していた大人達の何割かの表情が僅かに変わったことを、忍足たちも感じていた。
 きっと、ステージの上に立ち、見下ろしている跡部本人はもっとはっきりと気が付いているだろう。
『しかし、残念ながら、私にはもう心に決めた人がおります』
 微かにざわついた空気の流れを感じながら、向日があれ?と首を傾げた。
「…随分と踏み込んだ言い方だな…恋人って話で済ませるんじゃなかったのか?」
「だよね〜〜〜、あんなコト言っちゃって、大丈夫なの? ホント…」
 友人達が心配しているのを他所に、跡部はマイクを持っているのとは反対の手で、背後を軽く振った。
『今日、この日、お集まり頂いた皆様にご紹介いたしましょう…彼女が私のパートナーです』
 皆のあからさまな興味の瞳の向けられたステージの奥から、跡部の差し出された手に誘われるように、ゆっくりと人影が現れる。
 それはゆっくり、ゆっくりと、まるで森の中で怯える野兎の様な慎重さをもって、跡部の傍に近寄っていったが、その姿がステージの照明を一身に浴びる場所に来たところで、『おお…』という感嘆の声があちらこちらで上がった。
『何と…何処の御令嬢だ…』
『あんな女性、見たことないぞ…?』
『取引先の誰かの血縁者か…?』
 様々な声が小さく飛び交う中…氷帝メンバー達は完全にぽかんと口を開いたまま、放心状態に陥ってしまっていた。

『何だありゃ―――――――――――っ!!!!』

「かっ…かわE―――――――…」
「りゅう…ざき…? アレが…?」
 芥川と日吉が虚ろな声でそう言っている隣では、向日が彼女の全身を眺め、素直な感想を漏らす。
「腰、細っ!! 足、長っ!! 顔、美形っ!! 満点じゃん…」
「アカン…俺、心をコントロールでけへんわ…どないしたんや…」
「…忍足がイカれたぞ、鳳」
「いや…それは悪くないと思いますよ…確かに、その…綺麗、ですから」
 彼らの視線の先、桜乃は、真っ赤に映えるドレスを纏い、跡部の傍に寄り添うように立つと、伏目がちに俯き、色白の頬を微かに赤く染めていた。
 まさに、氷の帝王の傍に傅き、新たな季節の訪れを告げる、春の乙女そのものだ。
『…残念ながら、彼女はとある深窓の御令嬢で、名などを一切明かさぬようにきつくお達しを受けておりますので、ここでのお披露目はこの姿のみで失礼させて頂きます…どうぞ、御理解下さい。私は彼女をパートナーとし、今後も皆様に御鞭撻を賜りながら跡部コーポレーションを更に発展させていく所存です』
 宣言という名目で向こうのお節介を封じた跡部は、ふ…と振り返って改めて桜乃を見た。
 彼の動きを受けて、彼女は一度は彼と目を合わせたが、それは羞恥ですぐに外され、手を組んだまま深く俯く。
 その動作の一つ一つが初々しく、跡部はまた必要以上の時間、彼女を見つめてしまったが、何とか気を取り直して桜乃の手を取った。
「…っ!」
『では失礼致します…彼女が疲れてしまった様ですので…』
 いつもの不敵な笑みを浮かべながら、跡部は手を取ったまま桜乃を連れてステージの裏へと移動した…ところで、
 ぺたん…
「!?…おい?」
 急に引いていた手が重くなり、振り返ると、桜乃の腰が抜けて彼女はそのまま床へ座り込んでしまっていた。
「どうした?」
「…び…びっくりしちゃって……パ、パートナーって…何ですか…」
「……ああ」
 説明したら絶対にステージに上がってくれないと思い伏せていたのだから、驚くのも当然だ…腰を抜かすのは予想外だったが。
「…奴らの娘を紹介される機会がやたらと多かったんでな、先にそういう女がいると知らせておけば当面は誤魔化せるだろうが。メイド達だったら何処かで足がつくかもしれねぇが、お前だったらまず大丈夫だろうからな…髪型も違うし、他校の女だ」
「そ、そうですか…何事かと思いましたが…そういう訳だったんですね…」
「…まぁ、な……まだ立てないか?」
「あ、だ、大丈夫…です、よ…っしょ…」
 跡部の手に縋りながら立ち上がろうとしているが、どうにも危なっかしい…
「……チッ」
 軽く舌打ちをすると、跡部は手を伸ばして彼女をひょいっと前に抱えて抱き上げてしまった。
「ひゃ…っ! あ、跡部さん!?」
「ったく…手のかかる女だぜ」
「す、すみません…」
 憎まれ口を叩きながら桜乃を見下ろすと、相手は心底申し訳なさそうにしゅんと項垂れ、指を軽く噛んでいた。
 そのさりげない色っぽい仕草が、跡部の視神経を間近から直撃し、心臓の動きを速めてしまう。
(な…んだ、コイツ…本当に…)
 初めて…生まれて初めての体験に、跡部は動揺しつつもそれを決して表に出すことはなく、桜乃をそのまま運び続ける。
「…そうしょげてんじゃねぇ…良い女は多少男の手を焼かせるぐらいが丁度いいんだ。覚えとけ」
「…跡部…さん…」
 不器用ながらもほんの少しの優しさを見せた男に、ちょっと躊躇いながらも桜乃はふわ、と笑顔を浮かべた。
 今、この姿での笑顔が、どれだけ相手に衝撃を与えるのか知りもせず。
「有難う…ございます…」
「…礼を言われる程のことじゃねぇ…悪いが部屋に着いたらすぐに着替えろ、そのままで戻られたら色々と詮索されて面倒になりそうだ」
「は、はい、私もそっちの方が…うう、良かったぁ…やっと元の姿に戻れる…」
「…お前、もう少し自信持ってもいいんじゃねぇか?」
「え?」
「…いや、何でもねぇよ」



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