若返りの妙薬


「…ありゃ、胃薬切れてる」
 その日、学校から帰宅後、立海のテニス部レギュラーであるジャッカルは、家の薬箱を漁って目的の薬がない事に気がついた。
「んー、もう少し残りがあると思ってたのにな…別に使える奴は…と」
 がさごそごそ…と薬箱の中を漁っては、瓶や紙箱に入っている様々な薬を取り出してテーブルの上に並べていくが、一向に目的の薬効のあるものは姿を表す気配がない。
「やーれやれ、買いに行かないといけないのか? ん、これ、使用期限が切れてるな」
 ふと見た遮光性のある小瓶のラベルにプリントされていた年月日が、大幅に過ぎている。
「ん? これってブラジルのか…ウチじゃあ桜乃が読めないから向こうのは入れるなって言ってたのに、ったく親父の奴…」
 ぶつぶつと文句を言っているジャッカルの台詞の中に出てきた桜乃というのは、彼の実妹である。
 とは言っても彼女はジャッカルの様なハーフではなく、生粋の日本人。
 二人の母親が同じで父親が異なるという、いわば異父兄妹になる。
 色々とややこしい家族環境だが、彼らの家庭内はそんな事は関係なくすこぶる平和であり、ジャッカルと桜乃の兄妹仲も非常に良い。
 特に、ジャッカルにとって桜乃は優しくも芯が強い自慢の妹。
 部活の相棒や後輩によって、日々溜まりまくるストレスで疲れた心身を癒してくれる、何よりの良薬なのだった。
 そんな可愛い妹に、得体の知れない物を飲ませる訳にはいかない。
 取り敢えず期限切れのものはこれだけの様だ、と確認していた若者に、別の部屋から自分を呼ぶ声が聞こえた…母親のものだ。
「ん? 何だろう」
 その時は、すぐにまた戻って来るつもりで、ジャッカルは何気なくとん、とその瓶をテーブルの上に置いたまま、彼女の呼ぶ部屋の方に行ってしまった。
 それが誤りだった。
 その後、彼は母親から急な買い物を頼まれて夕方からの外出を余儀なくされ、頼まれた物品の方へ意識が向けられてしまった所為で、薬瓶の事をすっかり失念したまま出かけてしまったのである。
 そして、テーブル上に放置されていた薬瓶は、後は廃棄されるだけの存在の筈だったのだが…
「はぁ…何だか今日は調子悪いなぁ…」
 とんとんとん…と自分の部屋から出てきたその妹は、リビングに来たところで、テーブル上の物体に気がついた。
「…ん?」
 何だろう、あれ…お兄ちゃん愛用の胃薬じゃないみたいだけど……
 ぼーっとする頭でテーブルに近づいて瓶を取って目の前に掲げてみる。
「…う、ポルトガル語…お父さんのかぁ」
 ブラジル人である父親なら読めるのだろうが、残念ながら自分にはちんぷんかんぷん。
 かと言って効能を聞こうにも、父親はまだ仕事から帰って来てないし…
「…」
 身体がだるいままにそれを見つめていた桜乃は、ラベルのイラストに気がついた。
 人のイラストが両足で大の字に立ち、両腕をぐっとガッツポーズで掲げている。
 いかにも『元気出ます!』とアピールしている様な絵柄だった。
(栄養補給剤かな…でも丁度良かった、何だかだるいし、これ少し貰おう)
 そしてジャッカルに続いて、桜乃もここで過ちを犯してしまった。
 疲労感の所為か、その薬の消費期限を確かめることなく、汲んで来た水でその中身の錠剤を規定数服用してしまったのだ。
 そして、丁度その数で瓶は空っぽになり、桜乃は空瓶を所定のゴミ箱に入れると、夕食の作成を手伝うべく、キッチンへと向かっていったのである。


 ジャッカルがテーブルに問題のブツがないと気付いたのは、買い物から帰ってからそのまま夕食になだれ込み、食後の一時を楽しんでいた時だった。
 そう言えば、あの瓶は…!と思ったものの、肝心の物が忽然と姿を消している。
「おーい、桜乃―」
「はーい」
 兄に呼ばれた桜乃は、丁度洗い物が終わったところでぱたぱたとリビングへと戻って来た。
「なぁに? ジャッカルお兄ちゃん」
 自分を呼んだ兄は、何かを探している様子できょろきょろと辺りを見回していた。
「ここにさ、茶色の瓶、置いてなかったか?」
「あ、うん。あったよ?」
「あれまだ中身残ってたろ? 何処やった?」
「ん? 飲んじゃった」
「なにーっ!?」
 妹の返事に思わずジャッカルが大声を上げ、相手は何か大事だったのだろうかと更にびっくり。
「ご、ごめんなさいっ! もしかして、飲んじゃいけないものだったの?」
「い、いや、飲んじゃいけないと言うか…アレ、消費期限切れてたんだぞ」
「え…」
「捨てようと置いてたんだが、うっかり席を外して、そのまま忘れてたんだ…しまったなぁ」
 ぽりぽりと頭を掻いている兄の前で、驚きから気を取り直した桜乃は、なーんだとほっと肩を落とす。
「そういう事なら心配ないわ。薬の消費期限が多少切れていたって、そう毒にはならないと思うし…」
 確かに、かなりの年数を放置されていたものならともかく、中身が一気に毒性のある物体になる可能性は極めて低い。
 せいぜい薬効が切れて効能がなくなるというぐらいだと思うが…
「で、お前は何でそれを飲もうと?」
「んー…ちょっと風邪っぽい感じがして、栄養剤かと思ったから…」
「なにっ、風邪!?」
 妹の告白に、途端にジャッカルは大慌て。
「それを早く言え! 家の事はもういいから、お前は早めに寝とけ! ちゃんとあったかい布団で休んで水分摂って、えーと……焼いたネギ首に巻くんだっけか?」
「お兄ちゃん、時々日本人より日本人らしいよね…」
 何だか、ハーフの人にそういう事言われるのってシュールな光景…と思いつつも、結局その妹は兄の熱意に押され、早めに布団に潜り込む事になったのである。


 翌朝…
「んん…よっと…」
 早朝、目覚まし時計がベルを鳴らす五分前に、ジャッカルはいつもの様に目を覚ました。
「ふわぁ……ん、今日も快晴か」
 脇のブラインドをかしゃりと指先で押して外を見遣り、天気を確認すると、彼はよいしょとベッド上に起き上がった。
 両親が働いているこの家では、子供たちも最低限彼らの負担を少なくする為に自律の精神を求められている。
 彼の所属する男子テニス部でも似たような規律があるが、それはジャッカルにとっては当然の事であり、達成するのに苦労した記憶はない。
 とは言え、料理などの家事は主に妹の桜乃が担当しているので、ジャッカルは専ら家事の中でも力仕事が担当だった。
「さて、朝練に遅れると真田の奴がうるさいからなぁ…」
 準備を始めるか…とベッドから離れた時だった。

『きゃあああああああああっ!』

「っ!? 桜乃っ!?」
 今の声は間違いなく自分の妹のもの!
 何事か起こったかと、ジャッカルは慌てて自分の部屋から飛び出し、そのまま隣の妹の部屋に飛び込んだ。
「桜乃!? 何があっ…!!」
 その時、間違いなく彼は純粋に妹の身を案じていたのだが……
「きゃ〜〜〜〜〜っ!! お兄ちゃんのエッチーッ!」

 ぽこーんっ!!

「どあっ!!」
 彼の顔面に飛んできたのはペンギンのぬいぐるみだった。
 直撃はしたものの、流石に素材が素材なので痛さは殆ど感じず、ジャッカルはすぐにそこから立ち直る。
 但し、妹から罵倒された心の痛みは若干残ってしまったが…
「あつつ…あのな桜乃、大声で叫ばれたら誰だってノックなしで中に…ん?」
 改めて少女の部屋の中のベッドへと目を遣ると…見慣れない、しかし見慣れた記憶のある子供がちょこんと座っていた。
 着ているのはだぶだぶのパジャマだが…それそのものは自分の妹のものだ。
 それを着ている幼い少女はまだ小学生に上がるか上がらないかという見た目で、明らかに挙動不審の様子。
「…誰だ、アンタ……桜乃は?」
「……私」
「はい!?」
 すぐばれるようなウソを言うな!と言おうとしたジャッカルだったが、その前に彼は自分の視覚の記憶を掘り起こし、確かに目の前の子が妹の過去の姿に酷似している事実に気付いた。
「…ええ!?」
 ウソだろ、だってこれは夢じゃなくて現実なんだぞ!?
 現実の中で、妹が幼少化するなんて、漫画みたいな話ある訳が…!
 しかし、再度ベッド上を見ると、不安げな面持ちの子供が、こちらをじっと見上げてきていた。
「……本当に、桜乃なのか?」
「うん」
 こくんと頷く仕草は何気ない自然なそれだったが、ジャッカルはそこから桜乃の微妙な仕草の癖を感じ取り、確かに相手が妹の変わり果てた姿だという事を確信した。
「な、何でそんな格好に…!!」
「分からない…起きたらこうなっちゃってたの…」
「起きたら…って、昨日はお前、風邪っぽいから早く寝てたじゃないか、俺達と同じ夕食も摂って、別に変なものは…」
 摂らなかった筈…と言いかけたところで、ぴたっとその口が止まる。
 待て、待て、待て…確か昨日…こいつ、その風邪を気にして、何か飲んでたよな?
 確かそれって…
 そして一秒にも満たない時間で、その問題のアイテムを思い出した若者は、あーっ!と叫びながら部屋を飛び出し、ブツがある筈のゴミ箱へと向かった。
 中身を漁り、あの茶色の小瓶を取り出し、再び桜乃の部屋に戻る姿を、先に起きていた両親達が不思議そうに眺めている中、ジャッカルは改めて妹と一緒に小瓶の確認作業を行った。
 とは言え、桜乃はポルトガル語は殆ど読めないので、解読作業はジャッカルの役目。
「えーと、えーと…確かに栄養剤みたいな事はちらっと書いていたんだが、どれどれ…」
 妹が覗き込む脇で、ジャッカルが声に出して薬の内容について読み上げる。
「『本商品は、疲労回復・滋養強壮目的の薬剤です。ブラジルの様々な効能のある薬草を秘伝の配合で調整しており、貴方の身体を若々しく甦らせ…』」
 途中まで読んでいたジャッカルだったが、これまでもかなり腹に据えかねていたものがあり、遂に我慢の限界でばーんっ!!と薬瓶を放り投げる。
「本当に若返らせるんじゃねぇ―――っ!!! つか、若々しすぎるっつーのっ!!」
 日常生活に支障が出る程の効能なんか持たせるな!と烈火の如く怒った兄だったが、意外と本人の桜乃は冷静だった。
「…消費期限が切れていたから、やっぱり何か変質してたのかしら…」
「お前、随分と落ち着いてんだな…」
「逆に年とってたら、こんなものじゃ済まなかったけどね」
(女って…)
 現実的と言うか、現金と言うか…とジャッカルはそれからも悩んでいたが、いつまでも部屋の中で悶々としている訳にもいかなかった。
 色々と考えたが、やはり父親の国の薬が元凶としか考えられない以上、もしやしたら似たような症例を知っているかも…と考えた二人は、それから両親に真実を打ち明けて相談してみた。
 両親も、最初は桜乃の姿を見て大いに驚いていたのだが…落ち着いた父親曰く。
『そんな話は聞いた事はないが、薬が切れたら元に戻るんじゃないか』
 それに対し兄のジャッカル。
『戻らなかったら?』
『その時はその時』
『……』
 更に桜乃のこれからについて…
『けど、桜乃もこんな姿だと学校に行く訳にもいかないだろ? どうするんだよ』
 兄の懸念に、父親と母親もう〜んと首を捻る。
『自分達も仕事に出るから、一人にするのも怖いし……そうだな』


 で……
「へぇ、大変だったね…でも、小さくなっても可愛いじゃないか、桜乃ちゃん」
「わー、俺にもよく見せてー!」
「本当に身体だけ小さくなっているんですね…」
 その日、桜乃は兄のジャッカルに押し付けられる形で、立海の学び舎に同行し、朝練にて早速レギュラー達に囲まれていた。
(いつか出て行ってやる!! あんな家っ!!)
 ふるふると震えている兄の気持ちを他所に、メンバー達は相変わらず桜乃を可愛がっている。
 桜乃とジャッカルの血の繋がりが半分であるという複雑な家庭の事情は、レギュラー達も知るところだったが、それはレギュラー達の二人との付き合い方には何ら影響を及ぼすものではなかった。
 寧ろ、丸井や切原に至っては、何でジャッカルにあんな可愛い出来た妹がっ!という多少のやっかみの気持ちもあるらしいが、それがジャッカルを悩ませる行動の理由になっているのかは謎。
「…で、学校の方には親戚の子供であると言い訳をつける訳か」
 真田の何とも言い辛い表情での一言に、ジャッカルがぴらっと一枚の紙を差し出した。
「ウチの親がそういう訳で宜しくって依頼状まで書いてくれたから、疑われる事はナッシング」
「お前も微妙な立場だな…しかし、実に奇妙な変化だ…」
「くれぐれも他言は無用でな。お前らにはいずれバレるだろうから先に言ったんだが、これ以上の騒動はゴメンだ」
 桜乃の頭を撫でながらそう言った柳にジャッカルが釘を刺し、参謀が無論だと頷いた脇では、仁王がこしょこしょと優しく桜乃の顎の下を猫にやるように撫でている。
「よしよし、いい子じゃな」
「はう…くすぐったいです、仁王先輩…」
「こらこらこらこら――――――――っ!!!」
 詐欺師に早速、初々しくも愛らしい仕草を引き出されていた妹を、慌てて兄が取り返す。
 自分の妹が、普段から他のレギュラー達から並ならぬ親愛の情を受けている事実を知っているだけに、彼の心情は穏やかではいられないらしい。
「ただのスキンシップじゃろうが」
「下顎撫でるスキンシップなんて、何処の奇習だ!!」
 許しませんっ!!とばかりに仁王に迫って糾弾するジャッカルに、対する仁王はほーうと涼やかな視線を向けながら、ぴっと相手の背後を指し示す。
「じゃああれは?」
「?」
 ふと、言われるままに後ろを振り返ると今度は…
「わー、本当に可愛い!! 身体も凄く軽くて、お人形さんみたいじゃん!」
「きゃー」
「あ、次は俺が高い高いするッス!」
 丸井が桜乃の小さな身体を抱き上げてぎゅーっときつく抱っこしており、隣には切原が順番を待ち構えていた。
 ぶちっ…!!
「コンビ解消だ―――――――っ!! テニス部なんて辞めてやる〜〜〜〜っ!!」
 自分の不幸に関してはかなり許容量が広い男でも、可愛い妹が関わればその限りではないらしく、その場はたちまち大パニック。
「はうう…お兄ちゃん」
 その場の騒動からぽつねん…と取り残された桜乃が、おろおろと兄の暴走を見つめていたが、不意にその彼女の両脇に後ろから手が伸ばされ、ひょいっと軽々と抱きかかえられていた。
「…幸村先輩?」
「君も災難だったね、桜乃ちゃん。早く薬が切れて元に戻れたらいいね」
 そのまま、椅子に座っていた部長の膝の上にちょこんと座る形になり、桜乃は困った様子で相手を見上げた。
「あのあの…お兄ちゃん、テニス部辞めるって…」
「大丈夫、今は君のコトで色々と頭が一杯でテンパっているんだよ。そのぐらいは俺もちゃんと理解しているから…」
 だから、あの台詞をそのまま真に受けて退部を認めたりはしないよ、と言ってくれた出来た部長に、ほっと少女が胸を撫で下ろす。
「有難うございます…ジャッカルお兄ちゃんって…」
 ぽつり、と桜乃が兄の聞こえていない処で本音を漏らした。
「心配性で苦労性で、何かと不幸を背負いがちで、その原因がテニス部にあるのも事実なんですけど、それでもお兄ちゃん本人はここにいるのがとても気に入っているみたいですから…」
「うん知ってる」
「…………」
 にこやかに即答した部長の隣で、それもどうなんだと微妙な表情を副部長が浮かべていたが、それ以上何かを口にする事もなかった。
「……ところで」
 まだ続いているジャッカル達の騒動を遠巻きに眺めながら、参謀が冷静に部長を見る。
「…お前が妹御をそういう形で抱えていたら、それもあいつの怒りに火を注ぐ事になると思うのだが…?」
「いや、いつ気がつくかなと思って」
 ちゃっかりと桜乃を抱っこしたままの幸村を眺めながら、柳生は静かに眼鏡を押し上げた。
「…もうすぐ桑原君の胃に穴が開きますね」
「見舞いの品を考えといたがええかのう」
 そんな軽口を叩きながら、仁王は面白そうに苦労性の兄の様子を眺めていた。



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