最悪の敵は最強の仲間


「おはよ〜」
「おはよー、ジャッカルお兄ちゃん!」
 桑原家の朝は、その日も爽やかに平和に訪れていた。
 リビングのテーブルの上にはずらっと並んだ見事な朝食。
 そして、笑顔の絶えない和やかな家族達。
 少なくとも、立海大附属中学三年生のジャッカル桑原の家庭環境は、派手な贅沢さえ望まなければ十分恵まれている。
 父親は最近無事に定職に就き、母親もしっかりそのサポートに回り、少なくとも一家が路頭に迷う心配はなくなった。
 自分も、学年一位など過度な才能を求められなければ、そこそこの平凡な学生としての責務は果たしているし、身体の方は『四つの肺を持つ男』と呼ばれる程に健康そのもの。
 そして何より妹である桜乃は、自分と異なり少々身体が弱い面はあるものの、今日も元気に優しい笑顔を見せていた。
 上を求めればきりはないが、この家族は全員、ごくごく普通の平凡な人間達で、それ故に『足るを知る』という事を知っている。
 だからこそ、ここまで円満に日々を過ごせているのだろう。
「おっ、今日も美味そうだな」
 早速テーブルの上のご馳走に兄が食指を動かすと、おさげがトレードマークである妹の桜乃はにこっと笑ってお玉を持ちながら一言。
「お兄ちゃんが顔を洗って来る頃にスープも出来るよ」
「そうか」
 ジャッカルは外見上明らかに他国の人間の血を引いているのだが、対して桜乃は紛れもない日本人の姿である。
 しかし、彼らは紛れもない兄妹である。
 血も母親の半分だけだが、しっかりと繋がっているのだ。
 今の彼らの父親はブラジル人であり、桜乃にとっては義父に当たるのだが、そんな瑣末なことなど関係ないとばかりに彼らは何のわだかまりもなく過ごしている。
 両親の愛情を分け隔てなく受けられた事こそが、彼ら兄妹二人ともが、温和且つ真っ直ぐに成長出来た理由だろう。
 全員が深い家族愛で繋がっているのは周知の事実であるが、特にジャッカルの妹に対しての愛情は非常に深いものだった。
 過去、幼少時には病弱であり、その所為か人一倍人懐こい性格に育ってしまった少女の、一番の遊び相手が兄であるジャッカルだった。
 自分と違い、あまり外にも出られない妹が何かと不憫で、ジャッカルは親代わりに彼女の面倒をよく見て可愛がった。
 多忙な両親にとっては理想の展開であり、結果、仲良し兄妹の出来上がり。
 最近兄と同じ学校に入学を果たしてからは、彼と一緒に登下校することが桜乃にとっての新たな楽しみになっている事からも、二人の仲睦まじさが窺い知れるというものである。
 そんな可愛い妹に言われて顔を洗いに洗面所に向かい、目的を果たしてジャッカルが再びリビングに戻って来た時には、相手の予言の通り、スープがしっかりと自分の席の前に加えられていた。
 一方、その食卓をコーディネートした立役者は、今度はお弁当の詰め作業を行っている。
 桜乃の分は非常に小さな弁当箱なのですぐに分かるのだが、今彼女が取り掛かっているのは、タッパー四段に渡ってのお弁当作り。
 この家族の中で弁当が必要なのは、現時点ではジャッカルと桜乃の二人だけの筈…
「…おい、流石にそれは多くないか?」
 幾ら俺でも…と声を掛けた相手に、桜乃は作業中の為に顔を動かさないまま答えた。
「ええと、二段分は襲われた時の囮にしてみました」
「すまんなぁ、お兄ちゃん、甲斐性無しで」
 そこで交わされる謎の会話…
 実は。
 ジャッカルは立海で平凡な三年生という肩書の他にもう一つ、男子テニス部レギュラーというそれを持っている。
 その肩書は、おいそれと手に出来るものではない。
 全国的にも王者と称えられているテニス強豪校である立海は、言うなれば全国トップレベルの選手でなければ部に入部することも叶わない。
 そしてそんな強豪達の中で実力を認められた者のみが、レギュラーの座を奪うことが出来るのだ。
 普段は温和で呑気なジャッカルだが、テニスに関してはガッツがずば抜けており、加えてその持ち前の素質を活かして、レギュラーとしての立場を得ているのである。
 しかし、それこそが彼にとっての一種の不幸であった事も確かな様で。
 温和で人畜無害なジャッカルはその性格が幸いしてか災いしてか、コートの外では何かと気苦労が多い部活動生活を送っている。
 別にいじめられている訳ではない。
 もし相手がいじめていると看做せば、彼はそれに対して黙っている様な意気地なしではない。
 ただ、いじめられている訳ではないにしろ、その人の良さと面倒見の良さの所為で、或る一部のレギュラー達から何かとちょっかいを出されてしまうのだ。
 例えば昼の弁当の中身をくすねられたり。
 全部丸ごと奪ったりしないところが向こうの良心なのだろうが、ちょっかいの種類はこれだけに留まらないのだ。
 親友であり、後輩でもある仲間達にいちいちそれぐらいで目くじらを立てる事もあるまいと考えているのか、それとも最早諦めの境地に達しているのか…妹の目からはどうやら後者の方に映っている様である。
「仲がいいのは分かってるけど、お兄ちゃんももう少し強く言ったらいいのに」
 くすくすと笑いながらそう言う桜乃も、勿論その兄の仲間達を恨んではいない。
 これはこれで兄がぶつぶつと言いながらも、実は結構楽しんでいるのだと分かっているからだ。
「うーん…言ってるつもりなんだがなぁ…まぁもう俺がどれだけ言ってもあいつらはあいつらだからな…」
 しかし、一見どうでもいいと言っている様だが、最近ジャッカルには彼らについてより深刻な悩みが生じているという事を、妹はまだ知らない。
 こればかりは、彼女に相談する訳にもいかない悩みなのだ。
「お兄ちゃん、慕われてるんだねー」
「そーかねぇ…」
 はぁ…と息を吐きながらジャッカルがそう答えた時、ぴんぽーんと玄関のチャイムが鳴った。
「あら、お客様…」
 こんなに朝早くから…と桜乃が顔を向けると同時に…

『さっくーのちゃーん!! ガッコーいこーっ!!』

 至極元気極まりない呼び声がここまで響いてきて、思わずジャッカルは手にしていたスープ皿に顔面を突っ込みそうになった。
「あら、元気な声…」
 何を思うでもなく桜乃がそう評している間に、何とかスープで洗顔せずに済んだジャッカルが物凄い勢いで玄関へと走り、ばんっ!としたたかにドアを押し開いた。
「人ん家の前で、人の妹を気安く呼ぶな――――――――っ!!!」
「あ、ジャッカルだ」
「先輩もついでに一緒に行きましょ、学校」
 そこに立っていたのは、同じレギュラーメンバーであり、ジャッカルの悩みの種でもある三年生の丸井と二年生の切原…
 そして更に後ろには、ぞろっと他のレギュラー達も控えていた。
 何でもない事の様に見えるが、実は校内でもかなりのイケメン軍団と名高い彼らなので、全員が揃うのは結構な見物なのである。
「………」
 その顔ぶれを見て、ジャッカルが暫く黙し…副部長に向かって一言。
「お礼参り?」
「何故俺を見て言う」
 『一番、それらしい見た目だからです』とは勿論言える筈もなく、ジャッカルがえーとと言葉を濁している間に、そこに桜乃が様子を見にやってきた。
「まぁ…皆さん、お早うございます」
「あ、お早う、桜乃ちゃん」
 少女に朗らかに答えたのは、立海テニス部の頂点に立つ部長である幸村精市。
 物腰は非常に柔らかく礼儀正しい若者だが、部員の指導の厳しさやテニスコートに立った時の強さは半端ではない。
 それでも彼らから慕われているのは、その温和な人柄に拠るものだろう。
「ごめんね、朝から騒がせてしまって…みんな偶然通学路で会ったから、この際ジャッカルも誘おうと思って…良かったら桜乃ちゃんも一緒に行かない?」
「わぁ、いいんですか?」
 嬉しそうに微笑み、すぐに支度しますねーと桜乃が引っ込んだ後で、ジャッカルが幸村にずいっと迫った。
「…さっきバカ丸出しで呼んでいたのは俺じゃなくて『さっくーのちゃーん』だったようだが…?」
「呼んだのは俺じゃないよ、それは当人のバカ達に聞いて」

『はーい、天才的なバカでーす』

 はっはっは!とせせら笑う丸井達の様子から、ふざけているのは明らかだ。
(こんな奴らが俺の可愛い妹の『先輩』だなんて…っ!!)
 そう嘆きながらも、不憫な兄は結局妹を連れて、部員全員で学校に向かわざるをえなくなったのであった…


「だってさー、しょーがねーじゃん。おさげちゃん可愛いし素直だし、年上としちゃー構いたくもなるよい」
「お前、確か弟が二人いたよな…?」
「野郎は別」
 けろっとした顔で断言する相棒に、歩きながらジャッカルは過去を少しだけ後悔していた。
(…こんなコトなら、いっそ桜乃を妹だなんてカミングアウトするんじゃなかった…いや、そもそも立海に入れない方が良かったんじゃ…)

『私、お兄ちゃんと一緒の学校に行きたいのー』

 自分を慕ってくれる妹のそういう嬉しい言葉についつい乗ってしまって、それを家族会議で了承してしまった自分だった。
 そして現在どうなっているかと言うと…背後の通り。
「学校は楽しいかの」
「はい!」
「もし何か困ったことがあったら、いつでも私達に相談して下さいね」
「有難うございます、柳生先輩」
「…………」
 いつの間にか、妹を取り囲んで精力的に構いまくる新しいお兄ちゃん達が約七名、出来上がってしまっていた。
 確かに彼らの言う通り、自分の目の届かなかったところで桜乃に構ってやったり助けてくれたりしていることには感謝している。
 桜乃も彼らのことは先輩でもあり、兄の自分の友人、仲間という事で間違いなく尊敬しているし、それは自分にとっても嬉しいことである。
 しかし!
 それでも一つだけ彼らに物申したいことがある、それは……
「あ、お早う竜崎さん」
「あ、おはよー、松本君」
 同じ通学路を通っていた一人の同級生らしき男子生徒が桜乃に声を掛け、彼女がにこりと非常に良い笑顔で彼に挨拶を返した瞬間…

 ぎらっ…!!

 無遠慮に飛んでくる、十四の厳しく冷たい視線…
 正体は、テニス部のジャッカルを除いたレギュラー達のガン飛ばしであった。
(ひえええ!!!)
 一年生の身空でそれだけの洗礼を受けたら、身が竦まない筈も無い。
「じ、じゃあ、俺急ぐからここでっ!」
「? うん、じゃあね」
 何も知らない桜乃は、素直に彼の言葉を信じて手を振りながら別れた後、ん〜?と不思議そうに首を傾げていた。
「…おかしいなぁ、松本君、今日日直だったっけ…」
『うをまえら〜〜〜〜〜〜っ!!!』
 一方、妹の友人をものの見事に追い払われた兄は、それを実行してくれた仲間達に陰で物凄い剣幕で迫っていたが、向こう七人は何処吹く風、それどころか…
「今の奴、何っすか? 超馴れ馴れしい〜」
「同級生だな…同じクラスの名簿に載っている。名前は…」
「はん、平々凡々な奴じゃのう〜……つまらん、軽く露払いしとくか」
 柳のマル秘ノートを覗き込みながら更に危うい事をのたまってくれている彼らに、ジャッカルは更に大声で怒鳴りたてた。
「そういう余計な事はするなっつってんだろうが! 俺は桜乃にごく普通の学生生活を送らせてやりたいんだーっ!!」
 そう、これがジャッカルの、桜乃にも言えない一つの悩み…他レギュラーの桜乃への過剰な可愛がりっぷりだった。
 桜乃が中学生になった時、ジャッカルは多少寂しくはあったが、彼女が健全な中学生活を送ることが出来るように心から願い、また、その為に尽力する事を自分自身に誓っていた。
 それは勉学であったり、スポーツであったり…そして恋愛であったり、誰でも経験するような青春を送らせてやりたいと願っていたのだ。
 幸い同じレギュラーであり仲間でもある男達も、ジャッカルの妹が入学するらしいという話を聞いた時、全面的に協力すると言ってくれて、心強いと思ったものだ。
 ところが入学式当日、彼女をいよいよ彼らに引き合わせた時…
『ええと、ジャッカルお兄ちゃんのお友達の方々ですね? 私、妹の桜乃と言います。ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いします!』

『………よろしく』

 今思えば、あの時の妙な沈黙で気付くべきだった……桜乃の子犬素質に脳をダイレクトアタックされた仲間達が、過剰な庇護欲を発露させてしまったコトに。
 あれ以降、彼らは実の兄である自分が引くぐらい、桜乃を猫可愛がり始めた。
 守ってくれるのは有り難いのだが、その対象の範囲があまりにも広すぎる。
 どのぐらい広いのかと言うと、いかがわしい奴らばかりではなく、桜乃のごく普通に付き合っている友人の『男性』達までもが被害に遭っている。
 そう、つまり教師などを除いたほぼ全ての男性達が。
 彼らの人数が一人二人ならまだ自分が頑張れば何とかなるが、七人総出でこられたら流石にお手上げなのだ。
 しかも、レギュラー達の質の高さも大いに問題だった。
 現在のテニス部レギュラーは、属している自分が言うのも憚られるが、校内女子に全員まとめてイケメン認定を食らってしまっている程にレベルが高い。
 非公認ファンクラブの数も一つや二つでは済まず、バレンタインともなると校内が大騒ぎになる一番の元凶。
 そんな彼らとまともに張り合える様な男などそうそういない…と言うか、少なくとも立海内では皆無!
 そしてそんなハイクオリティーな男達が七人も傍で目を光らせているという事実が知られたら、桜乃の恋愛運など余裕で奈落…いや、地獄の底に堕ちてしまうだろう。
 兄としてそれは防ぎたいところだが、かと言って『奴らと会ったらいけません』なんて事を言う事も出来ないし…
「おさげちゃんは危なっかしいからさぁ、ちゃんと俺達の傍にいなきゃダメだぞい」
「えぇ…? そ、そんなにダメダメですか? 私」
「ダメという訳じゃないけど…か弱い女の子だからね。ちゃんと大事にしてあげたいだけだよ。この間の三学年合同オリエンテーションの時にも言っただろう?」
「あの時は、色々と有難うございました…でも皆さんにそこまで良くして頂けるなんて」
 おまけに、向こうから聞こえてくる彼らの会話から、間違いなく桜乃は彼らの事を心底信頼している様だし…
(…既に地獄の門は開かれているのだろうか……)
 複雑な胸中のまま、ジャッカルは学校へと向かって行った。



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