控えめLOVER
「はぁ…今月もいつの間にか苦しくなってるし…やっぱアイツらが原因なんだよなぁ」
愛用の財布の中身を確認して、一人の若者が力なく溜息をついた。
ここは立海大附属中学のとある校舎の一室。
具体的に言うと、三年生達の教室の一つである。
今は授業を終えたばかりの昼休みであり、彼は今から購買で昼食を買うべく予算確認をしていたところだったのだ。
若者の名前はジャッカル桑原。
父親が生粋のブラジル人で、母親が日本人の、所謂ハーフである。
一目で異国の血を引いていると分かる肌の色で、初対面の人間には引かれることもあるのだが、話してみたら中身はほぼ完璧に日本人だということが分かる。
性格は、ブラジル人の陽気さと日本人の几帳面さを受け継いだ様な、極めて善良な人間であり、その為に同級生からも人気が高い。
しかし彼にとっては、その善良な性格は、若干自身の首を絞めている原因ともなっていた。
何かと言うと…
「あー、ジャッカルー、一緒に購買行こうぜー」
(そら来たっ…)
教室のドアの外…廊下から自分の名を呼ぶ声に、ジャッカルがびく、と肩を揺らす。
振り返らなくても声だけで相手が分かるのは、向こうとの付き合いがそう短いものではなかった事と…或る意味、自分にとっての災厄の一つだったからだろう。
「…やっぱりお前か、丸井」
振り返って、相手が予想通りの人物であったことを確認して、ジャッカルは思い切り溜息をついたが、向こうは何ら悪びれる様子もなく、寧ろぶーっと不満げにガム風船を膨らませた。
「何だよいその言い方―、折角一緒に行こうって誘ってやったのに」
「…うん、誘うだけなら俺も喜んで乗るんだけどな」
でも、決してそれだけでは済まないから、こう、陰鬱な感情が消えてくれない。
「……今日は金輪際、奢らないからな」
「えー、しょうがねーなー…じゃあガム一個で」
「奢らねぇっつってんだ」
聞いている様で聞いていない相手の返答に、ジャッカルがいらっとした口調で厳しく返す。
そう、自分の所持金が消えていく最大の原因…それはこの相棒であり、且つ友人でもある若者に何かと食べ物を奢らされるからであった。
突っぱねればいいだろうという案もあるが、それで済むならこのハーフの若者の財政事情はとっくに円満に解決しているだろう。
どんなに断っても牽制しても、敵もさるもので必死に食いついては離さない…殆どスッポン並みのしぶとさなのだ。
こういう場合はどちらかが折れるまで意地の張り合いは続くのだが、過去に於いては例外なく、ジャッカルの方がぽっきりと心が折られていた。
それもどちからと言うと、「しょうがないな、そこまで腹が減っているなら」という妥協の意志からではなく、「払うからいい加減離れてくれ」という、或る意味厄払い料的意味合いに近い。
更に、相棒の丸井ブン太のみではなくもう一人、後輩の切原赤也というやんちゃ小僧も同じ手でたかってくる事が多々あり、そうなると所持金の減るスピードは更に倍率ドン。
殆ど着脱可能なおんぶおばけを二匹飼っている様なものだが、それだけ搾取されて尚、友達づきあいが続いているのだから、ジャッカルという若者の懐の広さは並ではない。
尤も、向こうが自分を単なる金づるとしか捉えていなかった場合には、ジャッカルもこういう好意的な態度は決してとらなかっただろう。
あくまでも、根本には信頼と友情があってこそ、彼も向こう二人の我侭を、仕方ないと思いつつも聞いてやっているのだ…年齢は同じでも明らかに精神的なそれはジャッカルの方が上だ。
しかし、流石に今月はいよいよ所持金がヤバイので、ジャッカルも今回は牽制に余念がない。
「いい加減、欲しかったら自分の小遣いで買え」
「だって俺ももうピンチだもん」
「少しは計画性ってものを…」
尤もな説得をしていた時、そこに二人の会話を遮る形でジャッカルに声が掛けられてきた。
「おーい、すまん桑原」
「?…あ、はい」
呼んだのは、廊下にいた一人の教師だった…どうやら彼のクラスの担任の様だ。
向こうは両手でプリントの束を重ねて抱えており、困った様子でジャッカルに頼んだ。
「悪いが、職員室までコレ運んでくれんか? 先生、ちょっと腰が辛くてなぁ」
「はいはいはい! 喜んで!!」
ラッキー!と内心小躍りしながら、ジャッカルはすぐにその教師の許へと歩いていった。
多少の労働でも、丸井の腹減った攻撃から逃れられるなら安いものだ。
「あー! きったねー! 逃げたなジャッカル!!」
「ふっ、何とでも言え。俺の財布の中身を守るためならパシリもする!」
「……おめー、プライドってもんはねーのかい」
「ああもう誰かさん達に骨までしゃぶりつくされたからな」
ほっといてくれ、と返して、ジャッカルは早々に教師からプリントを受け取り、すたこらさっさと敵前逃亡した。
向こうは、レアな品物をゲットする為に早く購買には行きたい筈だ。
職員室に行ったり寄り道している暇はないだろう…と考えていたジャッカルの思惑通り、それから向こうが追いかけてくる気配はなかった。
「ああもう、先生様様だな…おっと、こっちから行くか」
ふと彼は途中で行き先を方向転換して、右に分かれていた廊下の方を選択した。
どちらからでも職員室には行けるのだが、こちらの道を使った方が多少は近道になる。
どの学校にも存在するであろう、在校生だからこそ知っている抜け道というやつだ。
(んー、こっちはちょっと日当たり悪くて暗いから、人の通りはそんなにないんだよな…ま、運ぶだけなら関係ないけど)
確かにジャッカルが心中で評した通り、先程まで彼が渡ってきた廊下と此処は、明らかに人の数が違う…と言うよりも、此処には自分しかいない。
日が射しにくい場所だけに、校舎という無機質な建物の効果も相まって、何か得体の知れないものが潜んでいる様な、そんな錯覚を抱くのかもしれない。
しかし、幾ら何でも今は昼間である。
ジャッカルも、『暗いな〜』とは思ったが特にそれ以上の感想は抱くこともなく、すたすたと足を先に運んでいった…ところで、
「…りょ?」
不意に、立ち止まった。
職員室まではまだ距離があったが、彼の視線の向こうに気になるものが見えたからだ。
「……竜崎?」
誰にも聞こえない程度の小声で呟く。
彼の視線は、廊下の先で立ち往生している、一人の女子生徒の後姿に注がれていた。
後姿だけでは、誰であるかは分からないのでは?という意見もあるだろうが、少なくとも竜崎と呼ばれた女子についてはその限りではなかった。
彼女には、他の女子にもなかなかない、ある特徴があったからだ。
(…やっぱりそうだな、あの長いおさげは)
目で相手の姿をじっと眺めてから、ジャッカルは間違いないと確信する。
彼女は…竜崎桜乃は、この立海に最近転校してきた一年生で自分の後輩に当たるが、非常に長い髪が特徴だった。
普段はおさげにしているがそれでも腰まで届く長さで、そうそう立海の全女子生徒の中でも、そこまでの長髪を誇る人物は彼女以外にいないのだ。
桜乃が立海に転校したのはとある縁に導かれてのものだ。
それは何を隠そう、自分達、立海男子テニス部レギュラーとの友好関係である。
当初は立海とライバルでもあるテニス強豪校である青学に入学していた彼女だが、そのテニスが縁で彼らと知り合い、親睦を深めていき、ある時思い切りもよくこの立海に転校してきたのだ。
『皆さんとテニスがしたい』
はきはきと、元気良くそう言って笑っていた彼女の姿は、今でもまざまざと思い出せる。
現在はマネージャーともなって自分達と更に親しくなっている彼女だが、小さな身体と素直な心はいまだに健在の様だ。
「…う」
桜乃が先に立っていると気付いたジャッカルが、一度止めた足をそのままに、落ち着きなくゆらゆらと上体を揺らす。
前に進もうか、どうしようか…明らかに迷っている。
(ど、どうしようか…挨拶するのはおかしくないだろ、先輩なんだし…うーん、でもなぁ…)
声を掛けるのも、何となく恥ずかしい気がするしなぁ…
とても先輩とは思えない、気弱な呟きがジャッカルの心の中で漏れる。
実は。
立海メンバー達が桜乃に対して妹の様な感情を抱いている中で、このジャッカルという若者は、彼女にそれ以上の感情を抱いていた。
所謂、恋、というやつだ。
普段から、只でさえキャラが濃いメンバー達の中で比較的常識人の立場であったジャッカルは、その性格故に心労が重なる日々を送っていた。
そんな彼は、桜乃に会い、彼女のさり気ない優しさや気遣いに大いに癒され、いつの間にか彼女の事を好きになっていたのだった。
決して心労の種が減ったという訳ではないが、彼女がこの立海に来てマネージャーという形で自分の傍にいる事が多くなってから、明らかに心は軽くなっている、とジャッカルは感じている。
実は彼自身、既に自分が桜乃に対して抱いている感情を恋慕というものであると認識してはいるのだが、ブラジル人の熱い血を引いていながらまだそれを相手に言い出せてはいない。
言いたいのは事実、しかし自分の心の中の『遠慮』がどうしても邪魔をしている。
(あーあ…俺も純度百パーセントのブラジル人だったら、もう少しは積極的になれたのかな…けどまぁ、勢い余って突っ込んで、粉々に玉砕するのが関の山かな…)
テニスの試合の時の強気も何処へやら…である。
嫌われてはいないだろうが、そんなに取り立てて好かれている自信もないし…とちょっぴり卑屈になっていたジャッカルは、ふと、足を止めた状態のままで相手の異変に気付いた。
(…ありゃ、そう言えばさっきから動いてないぞ、あいつ)
自分も立ち止まったままなのに、一向に距離が離れたりしないのは、向こうも同じ様に立ち止まっていたからだが…やけにその時間が長い気がする。
しかも、何となくそわそわと落ち着きもないし、辺りの様子を伺っているし、そこからかろうじてちらりと覗く表情には憂慮さえも浮かんでいる様だ。
「…???」
どうしたのだろう、とジャッカルが訝しんでいるその時、少女は、確かに困っていた。
実はジャッカルからは死角で見えなかったが、彼女の少し先の廊下の踊り場に、一組の男女がいたのである。
(あ〜〜、困ったな〜〜、通れないよう〜〜)
ジャッカルと同じ様に、近道を通って職員室に行こうとしていた桜乃は、どうしようかと思いつつうろうろと所在なさげに身体を揺らしている。
普通の状態なら、そこを難なく通り抜けて殆ど無視する形で過ぎたら良かったのだが…
(こ…告白の現場に居合わせちゃうなんて……)
しかも、成就したらしく向こうは物凄いラブラブの雰囲気!
それはいい事なのだろうが、今下手にその空気の中に入ってしまったら、気まずい上に馬に蹴られかねない。
(ううっ、ここを抜けたらすぐなのに〜〜〜…いい加減、移動してくれないかなぁ)
困ったなぁ、弱ったなぁ…と思っていた桜乃の横に、ふと、すいと一つの影が現れた。
『…! 桑原先輩』
『よ、竜崎』
暫く遠巻きに見守っていた若者だったが、遂に痺れを切らしてしまったらしく、こっそりと桜乃の隣へと場所移動してきたのだ。
何となく声を出しにくい雰囲気だな、というのは読めたらしく、ジャッカルは軽く小声で挨拶しながら、桜乃に倣って前方の様子をこっそりと伺った。
そして、桜乃と同じ視界を確認したことで、彼も挙動不審になってしまった。
(うお!! こりゃ確かに、お邪魔出来る雰囲気じゃないな…)
「……」
確認した後で桜乃をもう一度見遣ると、彼女は相変わらずうろうろとうろたえながら、憂いの表情を浮かべている。
そんな彼女を見た時、ふとジャッカルは、或る一つの可能性を考えてしまった。
(まさか、竜崎…)
あっちの、男性のことが好きだったんじゃ…!!
一見ぶっ飛んだ予想だったが、それでも桜乃の様子を見ると、あながち的外れなものでもなかった。
やけにうろたえているし、他人ごとの筈なのに視線がせわしなく動いているし、何より愁眉の表情は、見方を変えたら目の前の事実に落ち込んでいる様にも見えなくもない。
ジャッカルが改めて向こうの出来たてほやほやのカップルを見ると、男性の方はそれなりにイケメンで誠実そうな顔立ちをしている…名前も知らない他人だが。
(こういう反応って…やっぱ、そうなのか…?)
ただの第三者で通行人なだけで、やっぱりここまで動揺はしない…よなぁ?
(……いかん、ちょっとほっとしてしまったが…やっぱ本人は辛い、よな)
自分なりに、完全に桜乃が失恋したばかりだと解釈してしまったジャッカルは、取り敢えずは慰めた方がいいだろうと相手の肩を叩いた。
「えーと、そのう…まぁ、何だ」
「?」
「…つ、次があるから、落ち込まずに元気を出せ、な?」
「はい?」
対する桜乃は、一体何を言っているのだろうとばかりに、ジャッカルをきょとんと見上げた。
別に彼女は失恋した訳でもないし、相手の男子を知りもしなかったのだ。
当然、最初は相手の言葉の真意に気付く筈もなかったのだが、それから数分後には労いの言葉の説明を受け、桜乃は大いにジャッカルに立腹してしまうことになったのである…
「失礼しちゃーう!!」
「すまんすまん!! ほんっとうに悪かった!」
あれから結局抜け道は諦めて、別の道へと戻って職員室へ行った後、桜乃はぷんっと頬を膨らませてジャッカルに抗議していた。
対するジャッカルはと言うと、先輩という立場であるにも関わらず、両手を合わせて少女に平謝り。
「いや…お前があんなに動揺していたから、俺はてっきり向こうの奴にホの字だったのかと」
「ど、動揺するに決まってるじゃないですか…あんなトコ見たら……じゃあ逆に、ああいう場面でも平気でいるのが私のイメージなんですか?」
「え…」
問われてみて、ジャッカルは改めて考え込んだ。
人の告白シーンを目前にして、眉一つ動かさずに淡々と、能面の様な顔でそれを眺める桜乃…?
そんなの、絶対に彼女じゃない!!
寧ろ、彼女の皮を被ったエイリアンだったりミュータントだったりして……
「……」
自分の想像に五秒と耐えられず、ジャッカルはふいっと視線を横に逸らして謝罪した。
「すまん…ソッチのが怖い…」
「どーゆー想像をしたんですか」
それもまた失礼ですよ、とちくりと言った後で、桜乃はもう、と眉をひそめる。
「知りもしない人を好きになる訳ないじゃないですか……大体、私は…」
「…お前は?」
何だろう?と純粋に思った若者が聞き返したが、相手ははた、と口を手で塞いで黙り込んだ。
何となく気まずい表情だったが、頬が赤くなった気がする。
「…何だ?」
「な、何でもないです!…それより」
話題を変えるべく、少女はきっと相手を真っ向から見据えつつびしっと人差し指で相手を指した。
「乙女にそーゆー濡れ衣着せたんですから、ちゃんと責任取って下さいね?」
「責任…?」
どんな形で取ればいいんだろう…と至極真面目に考えたところで、はっと我に返った男は先に少女に謝った。
「えーと、すまん、今月はもう苦しいんで慰謝料なら来月以降に…」
「何となく予想はついてましたけど、お金は別にいいです」
普段から同じ仲間達にたかられまくっているのは桜乃も見ていたので、今更な話の様だ。
一度断り、桜乃はうーんと頬に手を当てて考え込むと、横を向いてぽつりと呟いた。
「…やっぱり、ここまで鈍感なら…」
「は?」
よく聞こえなかった男が聞き返したが、桜乃はぶんぶんと首を振って返事を拒否し、代わりに自分の要求を提示した。
「ちょっと、コーディネートを手伝って頂きます」
「…? コーディネート?」
「そうです。今度の日曜、午前中の部活が終わった後で、私のその日のスタイルについてアドバイスして下さい」
「…はい?」
思わずジャッカルは聞き返したが、どうやら間違いではないらしい。
しかしそれでも納得出来ず、彼は素直に疑問を述べた。
「そ、そんなの別に俺に聞かなくてもいいだろう。女の私服の好みなんて女じゃないと分からんし、男に聞いても絶対にずれがあるぞ?」
「それを知りたいんです。女の目じゃ分からない男性の好みを教えて欲しいんですよ。折角のデートなら、男の人が喜ぶ様な服を着たいじゃないですか」
「……………」
尤もな意見…だったと思うが、残念ながら思考回路がついていかない。
今、この子、何と言った?…確か、間違いじゃなければ…
「…デ、デート?」
「はい」
確認に、相手はあっさりと頷いた。
「その日のデートに備えて、男の人の視点から、服を選んで欲しいんです…桑原先輩に」
「…」
嫌だ!という自分の叫びが、心の中で響いた。
嫌だ、誰が好き好んで、お前が他の男といちゃつく時の服を、俺が選ばなきゃいけないんだ…その男の為に!!
何で俺が…!! 何で…!!
「……」
何度も繰り返す叫びを同じく心の中で聞いている内に、ジャッカルは動かしようのない事実に気付いて一気に頭を冷やした。
(何でって……先輩でしかねぇもんな、俺は)
そうだった…自分は彼女の恋人でもその候補でもない、只の先輩だ。
その先輩風情が、相手のデートに口出し出来る謂れはない。
彼女に勝手な想像をして、責を咎められている以上、自分にはそれを拒否する事は出来ないじゃないか。
(……だよなぁ)
考えれば考えるほどに、納得するしかなくなっていく。
正直、桜乃の誰かとのデートは邪魔してやりたいとすら思ったが、それは彼女の幸せには絶対に繋がらず、そして自らを辱めることにもなるだろう。
男なら、気持ちを押し隠してでも好きな女性の為に尽力する事が正しい…少なくとも自分にとってはそうだ。
「……分かったよ」
まだ吹っ切れた訳ではないが、ジャッカルは取り敢えず受諾の返事を返した。
「けど、俺の好みが男性の総意だと思ってもらったら困るぞ。あくまでも参考程度だからな」
「はい! それで十分です」
「…ん」
じゃあ、日曜にな、と確認して、ジャッカルと桜乃は職員室前でその日は別れたのだった。
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