知らない優しさ
今日も今日とて、平和な部活日和…
立海の二年生エース切原赤也は、放課後、コートで先輩達との打ち合いを終え、今は自主トレに入っていた。一度打ち合いを行い、そこで得られた反省点を、自身の身体と心で見直すのが目的である。
しかし、テニスは好きであるが、日頃から休み癖がついている彼にとっては、自主トレ時間は絶好の休憩時間でもある。
「へっへー…ちょっと力抜いて壁打ちでもやってる振りして休むか…」
そういうやましい気持ちを察するから、あの副部長が自分の所に来るという事実を、彼はいつになったら認識するのだろうか…少なくとも、今は可能性は限りなくゼロに近そうだ。
「えーっと…何処かに抜け道が…」
ないかなーっと切原は辺りを探ってみる。
実際の抜け道ではなく、この場合は人目につかないでこの場所を離れられる道のことを言っている。
「…ありゃ?」
そんな彼だからこそ気づけたのかもしれない。
切原は、人目につかないコート向こうの植木の陰に、人影が蠢くのを見つけた。
(何だありゃ)
気になったら、やはりそちらを見たくなるのが人の情。
切原の猫の様な大きな瞳が、きょろっとそちらの方向へフォーカスを合わせ、彼はさして苦労もせずに、その人影の主を確認した。
一人ではない…三人だ。
二人は男性、一人は女性…男達には見覚えがある、自分と同じテニス部員の三年生。
女性の方は…と確認したところで切原は、ありゃーと瞳を更に大きく見開いた。
「何だぁ? 青学のあの子じゃん」
確か、あのおさげの子は、青学の越前リョーマによくくっついてた女の子だよなぁ…と切原は記憶を呼び起こしてみる。
確か竜崎先生の孫だったから…竜崎でいいんだよな?
(何やってんだ…って、あんま楽しそうな事じゃないな、ありゃ)
コート二つ以上は離れた距離でありながら、切原の目は彼らの表情すらも確実に読み取っていた。
実ににやけた、同じ男としても到底好ましいと思えない表情で、困っている女の子に絡んでいる…自分にとっては先輩であるあの二人は、彼女にナンパか嫌がらせでもしているのだろう。
「見えてますよ、お二人さんっと…」
ぽーん…ぽーん…
手にしたボールを数回地面に叩きつけ、ぱしっと手に戻すと、切原の表情がおちゃらけたそれから一転、厳しいものに変わる。
そのままひゅっとボールを上に投げ…
「あ―――っ!! ミスッた、すんませんっ!!」
そう言いながら、思い切りラケットをボールに向けて振りかぶった。
力を受けたボールは真っ直ぐ木陰に向かって直進し、一人の先輩の後頭部に直撃。
「いってーっ!!」
そのままボールは角度を変えて木にぶつかり、もう一人の男性の同じく頭に直進。
「でっ!!」
偉業を成し遂げた後、満足したようにボールは地面へ力を失い落下した。
「え…・っ」
一人、ボールの魔の手から逃れた少女が何事かと辺りを見回していると、そこにくせっ毛の少年がにこにこと笑いながら走りよってきた。
「いやいや、すんませ〜ん! ちょーっと手が滑ってボールがあらぬ方向へ!! 大丈夫っスかセンパーイ」
「切原、てめえ!!」
「何しやがんだ、いきなりっ!!」
当然と言うべきなのだろうが…先輩二人は共に痛む頭を擦りながら後輩に向かって声を荒げた。
しかし、そんな二人にも切原は怯む様子もなく、のうのうと言い返した。
「だーからすんませんって言ってるじゃないっスか。悪いとは思っているんすよー? せーっかくのナンパチャンス潰しちゃって〜」
にやにやと笑う後輩は、明らかに自分達の悪行を見ていた、と言わんばかりの申し開きをしてみせる。
確かに、相手が指摘した通りなのだが、二人はそれでも後輩に良い様にされた事が気に入らないのか、今度は少女ではなく、切原に絡み始めた。
「てめぇ、二年生でレギュラーになってるからって、いい気になってんじゃねぇぞ!」
「こっちが何やってようと俺達の勝手だろうが、レギュラー様はレギュラー様の練習でもやってりゃいいんだよ! けど、下手に赤目になって事故でも起こしたら、レギュラーの地位なんて吹っ飛ぶだろうぜ」
ぴく…
僅かに切原のラケットを持つ腕が反応し、彼の瞳が鋭くなった。
その威圧感は、二年生とか三年生とかいう小さな枠組みなど簡単に飛び越えて、前の二人…いや、少女含めた三人を竦ませる。
「へえ…・そうっスか」
にや…と笑った切原だが、全然目は笑っていない…それどころか、目だけを見ると二人を睨みつけていさえする。
「その二年生にレギュラー奪われてる三年生が、偉そうな口きくのも如何かと思いますがねぇ…ウチはほら、実力主義でしょ? 喧嘩じゃなくて、もし俺に言いたいことあんなら、是非どうぞコートへ」
ぴしっとラケットで向こうのコートを指したあと、ゆっくりとそれを肩に乗せ、切原は夜叉の顔を更に歪めた。
「…腕とか脚、壊れても知らないッスけどね…」
「う…」
「……」
二人の部員は、凄まれて言葉を失った。
普段は同じ立海テニス部員であるから、切原の本気を受けることは滅多にない、いや、試合中に彼を本気にさせて、あの殺人サーブを受けられる非レギュラーなどいやしない。
しかし、その彼がコート上ではなくてもこちらを本気で潰そうと思った時…相手は非レギュラーかそうでないかなど、関係はないのだ。
「やめて下さい!」
三人の男達の緊張を解いたのは、意外にもそこに立ち竦んでいた少女だった。
まだ恐怖の感情は失われていないものの、必死に二人と一人の間に割って入って、切原に身体を向けた。
「切原さん、ダメです。そんなことしたら…」
「竜崎…?」
何かを言おうとしている桜乃に、切原は首を傾げて困った表情を浮かべたが、すぐに目を閉じて仕方ないと肩を竦めた。
彼女に言われなくても分かっている。
もし先輩を本当にコートに押し上げて試合をして、怪我でもさせたら切原は何らかのペナルティを課せられる可能性が高い。
実際、切原は倒し甲斐のない人間如きを本気で潰そうと思っていた訳ではない、その証拠に彼の瞳は赤い血の色を帯びてはいない、しかし彼女は彼のはったりを本気と捉えているだろう。
(確かにこれ以上ゴタゴタさせたら今度は俺が副部長に張り倒されるしな〜)
それも御免だ、と思った切原は、はぁとため息をついて頷いた。
「ちぇ、アンタがそう言うなら引くしかねぇよな…悪いね、ウチの先輩方、躾が悪くてさ」
「何だと!?」
「女に言われてのこのこ引き下がるクセに!」
まだ向こうは何か言っているが、切原はもう相手を完全に無視して桜乃に身体を向けていた。
「しかしお久しぶり、元気してたか? 何しに来たんだ?」
「は、はい…女子テニスの練習試合の打ち合わせにおばあちゃんと」
「そっか」
にっと笑った切原は、あ、と思い出した様に、桜乃に提案した。
「暇ならちょっとウチの練習、見てけよ」
「え…?」
「あの夏祭り以来、部長も副部長もアンタのコトえらく気に入っちゃってさ、折角来たんだから会ってけって。喜ぶから、絶対」
何気ない一言だったが、それを聞いた先輩二人の表情が凍りつき、色さえ失ってゆく。
何だって…!?
あの二人のお気に入り…この子、そんな立場の子だったのか!?
二人の様子の変貌に、内心切原はケケケと笑いつつ、更に桜乃に勧める。
「まあ、先輩二人が失礼したお詫びもあるしよ。ここまで来て会ってかねぇのも逆に失礼だろ?」
「あ、はぁ…」
確かに考えてみたらそれも正論である。
実際は、邪魔にならないように遠くで見学出来たらそれで良かったのだが…
「よっしゃ決まり! んじゃ、俺が案内してやるぜ。丁度、サボリの良い口実になるしな…」
「え?」
「いやいやこっちの話、んじゃ、先輩方、しつれ〜い」
青いままになってしまった二人を残し、切原は桜乃を連れて、コート脇をのんびり歩き出した。
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