目覚まし時計の罠
立海男子テニス部
歴史の長いこの名門テニス部には、近頃、早朝に一つの名物と称される光景が見られていた。
それは…
「たるんどるっ!!」
「ってぇぇっ!!」
朝一番から心地よく響く、鬼の副部長の怒声。
そして、快音を響かせる拳骨と、一人のメンバーの悲鳴である。
副部長は真田弦一郎、拳骨を受けているのは、二年生でありながら立海テニス部レギュラーである実力派の切原赤也であった。
二年生にしてレギュラーを張れるのであるから、当然人は彼を努力型の人間と看做すことが多い。
確かに彼は、テニスに対する情熱は並ならぬものを秘めてはいるのだが、それと同時に複数の欠点も持ち合わせていた。
その内の一つがこれ…とにかく睡眠に対する欲求が強いため、朝の練習の遅刻魔と化しているのである。
何度も注意はされているものの、一向に改まる様子はなく、陰では『赤也の頭が割れるのが先か、副部長の拳骨が砕かれるのが先か』などと囁かれている始末。
真田は病み上がりでもある部長の幸村に極力負担をかけさせまいと、切原に対する教育を一手に引き受けているのだが、それでもその幸村から見ても、切原の遅刻の習慣性は目に留まっているのだった。
「…困ったものだね、切原の寝惚け癖も…」
ベンチに座って朝の心地よい空気を吸い込み、優しく微笑む幸村の言葉に、参謀である柳も眉をひそめて同意する。
「ゲームをしての夜更かしによる遅刻のみであれば、まだ対処も出来るのだが…それの有無に関わらず彼の睡眠欲は留まるところを知らない…最早、天性の才能だな。あまり自慢は出来ないが」
「寝る子は育つって言うけど…だとしたら切原は将来、三メートル以上の長身になるね、きっと」
「それで済んだらまだ良い方だ…」
二人がそんな会話をしているところに、不機嫌な顔をした真田が歩いてきた。
「全くあいつは…」
「お疲れ、弦一郎。今日も切原は遅刻だったね」
「ああ。言っても言っても、全く改善しようという気概が認められん。確かにテニスの才能は認めるが、あんなにだらけた心では、今以上の向上は望めんぞ…」
腕を組みながらふうとため息をつき、真田はちらっとコートの切原を見遣った。
向こうはもう既に怒られた事実を忘れている様子で、せっせとトレーニングに勤しんでいる。
気持ちの切り替えの速さも、彼の能力の内の一つなのかもしれない。
「…遅刻はしているけど、テニスへのやる気がない訳じゃないから、それだけで全てを否定する必要はないけどね。確かに俺の目から見ても、切原の能力はレギュラーの座を得るには十分だし」
「しかし、他の部員に示しがつかないのも事実だ」
柳が、幸村の寛容な意見に対し苦言を呈する。
「今は弦一郎の鉄拳制裁があるから他の部員の不満は少ないが、それにも限界があるだろう。制裁を受けたら遅刻をしてもいいという強引な意見が今後出るとも限らん」
「まぁ、ね…でも俺は、遅刻していいと言われても、弦一郎の拳骨を受けるのは勘弁だなぁ」
「精市…」
「ごめんごめん、冗談だよ」
お前まで何を言うのだ、という表情の真田に、楽しそうに笑うと、幸村はうーんと首を傾げて考え込んだ。
「けど、確かに、何とかしないといけないね。彼はこれから三年になって、立海テニス部を背負って立つ人間になるのは確実なんだから…」
「…俺が立案した目覚まし時計も、結局、意味は為さなかったな」
「そうだな」
柳の言葉に真田が頷いたが、一人、幸村だけはえ?と顔を上げてきょとんとする。
「目覚まし時計…って、何かしたの?」
「ああ、精市はまだ入院していたからな」
知らなかったのか…と頷き、柳が詳細を説明する。
「あまりにも遅刻が目に余ったので、一度奴に目覚まし時計を送ったのだ。録音した音を流せるタイプの奴に弦一郎の一喝を入れて渡したのだが…」
「うわ、確かに効果はありそうだね」
普通の人間なら、あの一喝で眠気が退散することは請け合いだ。
しかし…
「三日も経てば、本人がいないのだからと安心して眠るようになったらしく…やむを得ず回収した」
「順応性高いね、ほんっとうに」
策が上手くいかなかったことを悔やんでいるのか、ふるふると肩を震わせる柳に、幸村もまた渋い顔をする。
自分にとって切原は可愛い後輩の一人なのは確かなのだが、親友たちがここまで苦労しているのを見ていると流石にそうとばかりも言っていられない。
しかも何より、今の部長は紛れも無く自分自身なのだし……
「…切原を間違いなく起こすやり方…か」
ちょっと…考えた方がいいかなぁ…
放課後には、本格的なテニスの部活動が始められる立海では、その日も何ら変わる事もなく、部員達が練習に励んでいた。
「よし、じゃあ組に分かれてそれぞれ、打ち合い、ボール拾い、壁打ち…各練習に分かれて。来週には、またレベル選抜をやるからね」
「はいっ!!」
非レギュラー部員に本日の指示を出した後、幸村がレギュラー達の様子を眺めていた時、その場に一人の来客が訪れた。
「お邪魔します」
「ん? ああ、竜崎さん、よく来たね」
「こんにちは、幸村さん」
ベンチに座った幸村が、背後を振り返って一人の少女と笑顔で挨拶を交わす。
腰まである長いおさげをした、青学の制服を着た少女…竜崎桜乃だ。
見た目はちょっと奥手で気弱そうな印象を受け、実際もそうなのだが、ここぞという時には意外な頑張りを見せる子である。
生来の優しさもあって、夏に立海のレギュラーメンバーと知り合って以来、彼らとは非常に良い先輩後輩の間柄にあり、たまにこうして練習を見学に訪れるのだ。
「お邪魔じゃないですか?」
「うん、指示はもう出しているからね、見学に来たの?」
「はい」
「いいよ、しっかり見て、自分の力にするようにね」
遊びに来たという不純な動機であれば、如何に知己とは言え、幸村はコートに入る事を許さない。
しかし彼女自身もテニスをたしなみ、自分なりに努力を惜しまず向上心を持っている為、多少の助力をすることは良しとしていた。
時々自分に向けての質問も、まだ基本的なところが殆どだが、些細な事でも軽視していない真剣さが伺えた。
「青学のみんなは元気かい?」
「はい、皆さん、相変わらずですよ。毎日とても賑やかです」
「ふふ、ウチと同じだね」
隣同士ベンチに座って談笑していると、そこにたたーっと走ってくる人物が一人…
「お、竜崎だ」
「あ、こんにちは、切原さん」
あの立海の問題児、切原赤也だった。
くせっ毛を揺らしながらその場に来ると、切原は竜崎の前で彼女を上から見下ろした。
「相変わらずちっせぇなぁ…ちゃんと食べてるか?」
「むっ、食べてますよ…後で後悔する程…」
ぷーっと頬を膨らませて反論する相手に、切原はあはは、と声を上げて笑うと、ちらっと幸村へと視線を移して今度はそちらへ向き直った。
「えーと…幸村部長」
「ん、何だい…?」
「一応、アップ終わって、下の奴らの相手も終わったんスけど…えーと、次、何するんでしたっけ」
「あれ? 切原は今度は柳生との試合だっただろう?」
すんなり返された言葉に、切原はオーバーに反応して何度も頷く。
「あ、ああ! そう、そうだったッス。すみません、ちょっと、ど忘れして…!」
「いや…別に俺に聞かなくても、弦一郎も教えてくれると思うよ」
「…幸村部長なら、拳骨は飛んできませんから」
「それは君の普段の行い次第だよ、切原」
くすくすと笑う幸村は、居心地が悪そうに視線を逸らして身体を揺らせる後輩を見上げた後、ちらと竜崎へと視線を移した。
「…そうだね、竜崎さん」
少しの沈黙の後、呼びかける。
「はい?」
「切原と一緒に向こうのコートに行って、練習試合を見学してみたら? 俺が言うのも憚られるけど、彼らの試合はとてもレベルが高い。見ていて損はないよ」
部長の提案に、竜崎はえ?と首を傾げた後、そろっと切原へも顔を向けた。
「…あの、お邪魔じゃないですか? 切原さん」
「え? あ、いや! 全然、全然邪魔じゃねーって! じゃあ、一緒に来いよ竜崎」
いきなりの部長の提案に驚いたのか切原は少し慌てた素振りを見せたが、それはすぐに歓迎ムードに変わり、竜崎に同行するように促した。
その様子を、幸村は微笑ましく見つめている。
「わ、じゃあ見学させてもらいます。行って来ます、幸村さん」
「うん、行っておいで」
にこ、と笑って二人を送り出した後、彼は口元に手を当て、暫く熟考した。
「…やっぱりそうかな」
急にここに走ってきてからの切原の態度は、明らかに不自然だった。
別に自分の所に来なくても、真田に尋ねなくても、周囲の誰かに聞けばおのずとこれからの予定を知ることは出来た筈…
なのに、彼は敢えて自分のいるこの場所に来て、わざわざ質問した。
それに、彼の竜崎に対する態度は、普段、他の女子に対して向けるものとはまるで違う…
とても気にしていながら、それを面と向かって言えない、行動に移せないもどかしさが感じられる。
それは何故か…
もし、彼が…竜崎に対して好意を寄せているのだとしたら、全てに説明がつく。
ここに来たのももしかしたら、自分と彼女の仲を疑っていたからだろうか…
「…ふぅん」
一人、納得して頷いていたところに、次の練習メニューを相談するべく参謀の柳が歩いてきた。
「精市? どうした?」
「ああ、蓮二、うん、何でもない…」
ふるるっと首を横に振った親友に、柳は手にしていたノートを掲げてみせた。
「そうか?…すまんが、次回のメニューの変更点を少し確認したくてな…」
「ああ、いいよ…と、その前に、蓮二」
本題に入る前に、幸村は柳に一つの質問をした。
「君が切原にあげた目覚まし時計…回収してたんだよね。今ここにある?」
「ああ…ロッカーの中に置いてあるが?」
「ちょっと、貸してくれない? それと、出来ればそれに細工したいんだけど…」
そう言うと、続きは、柳の耳元に口を寄せ、ぼそぼそぼそ…と何かを囁く。
「…うむ、出来ないことはない。そんなに凝った仕掛けでもないからな」
結果、柳にそういう返答を返された幸村は、にこっと嬉しそうに微笑んだ。
「そうか…じゃあ、是非頼みたいんだ。折角、今日、彼女が来てくれているんだから」
「? 何の話だ?」
「いいからいいから」
それから幸村は、もう一度にこりと笑った。
「じゃあ…作戦開始だね」
切原と柳生の練習試合は、いつになく熱の入ったものになっていた。
「ほう、赤也、今日は随分と本気になっとる…」
「何かあったのかな?」
傍で見ていたレギュラー陣達も見守る中、竜崎も、その試合のレベルの高さに息をするのも忘れ、じっと展開を見守っている。
「凄いなぁ…やっぱり皆さん、凄く強い…」
見学のつもりなのに、つい見蕩れてしまいそうになり、桜乃は自分の気を引き締める。
そんな少女の様子を、仁王は面白そうに見つめていた。
(…何で赤也があそこまでなるんか、まるで分かっとらんようじゃの…)
どうやら彼も幸村と同じ見解だったらしいが、面白いから黙っとこ、と決めていたところで、柳がコート脇に走ってきた。
「竜崎?」
「あ、はい…何ですか? 柳さん」
「すまないが、今、竜崎先生からお前に電話が入った。ちょっと部室へ来てくれないか?」
「おばあちゃんから? 何だろう…?」
確かに自分が今ここにいることは言っておいたから、かかってくることはおかしくはないのだが…
「それ程に大事ではないとおもうが…来てくれるか?」
「はい、行きます」
当然そう答えた桜乃は、コートから一時離れて、部室へと向かっていった。
「…?」
試合の途中で彼女が部室に向かうのを見た切原が、す、と構えの姿勢を解いてその後姿を見送る。
「…竜崎?」
「おう、何か、青学の竜崎先生から電話らしい。気にせんで続けたらええよ、赤也」
そう言われはしたものの、切原はちぇっと舌打ちをしてラケットを背中に回し、実に気の無い言葉を漏らした。
「…何か、一気にやる気なくなったッス…」
「柳生、レーザー打ってやれ」
「言われなくてもそうします」
不届きな後輩に、先輩達が怒りの一撃を浴びせていた時、部室に呼ばれた桜乃はそこで幸村に会っていた。
「あら? 幸村さん?」
「ごめんね、竜崎さん、電話っていうのは嘘なんだ」
「え…?」
「ちょっと、どうしても君に内密にお願いしたいことがあって」
電話を口実に彼女を部室へ呼び寄せた部長は、桜乃に座るように促した後、手にしていた一つの置時計を前に出してきた。
「…目覚まし時計、ですか?」
「うん、自分の声とかを録音出来るタイプなんだ」
「ああ、聞いたことあります。で、怒ってもらうんですよね、その台詞を言う人に」
でも、そんな起き方、却ってストレス溜まらないかな…と続けた少女に、幸村はふふふと面白そうに笑った。
少し前、切原に対して柳達が行った策も、同じ様なものだったからだ。
しかし、今度のは違う。
「で、ね…竜崎さんにも一言、協力してもらえないかと思って…」
「え!? じゃあ、これ、私が知っている誰かにあげるんですか?」
「うん、切原に」
「切原さん…?」
桜乃も切原が睡眠をこよなく愛している実態は認識していたらしく、その事実そのものにはあまり驚くような素振りはなかった。
「あー…確かに、よく眠っていますよね…でも、私、切原さんに怒るなんて出来ませんよ…」
自分は切原より年下だし、テニス教えてもらっている恩もあるし、とてもそんな相手を叱るなど出来ない…と辞退しようとした少女に、幸村は首を振ってそれを否定した。
「いや、怒ってもらう訳じゃないんだ」
「…? はい?」
「ちょっと…」
桜乃に耳を貸すようにジェスチャーをした彼は、それに素直に従った少女に、こそこそっと何かを囁く…と、見る見るうちに彼女の頬が真っ赤に染まっていった。
「えええっ!?」
「ダメ?」
「い、いえっ…その、ダメって言うか……そんな台詞は…」
かぁーっと更に赤くなった桜乃は、視線を落とし、頬に手を当ててやたらと恥ずかしがっている。
「ちょっとしたドッキリのつもりなんだ。俺達の中では、君が一番適任だし」
(適任というより、少なくとも俺は、赤也に死んでもそんな台詞は言いたくない)
後ろで控えていた柳が、明らかに困った表情でそんな二人のやり取りを見守っている。
既に柳は、幸村が画策している内容を知っている様子だ。
「とにかく目的は、切原を遅刻させないように、早起きさせることなんだ。君の声で言ってくれたら、少なくとも彼が驚いてくれることは間違いない」
「そ、れは…そうですけどぉ」
「……実は」
まだ返答を渋っている相手に、ふ、と幸村の表情が暗いものに変わった。
「…このままだと、切原のレギュラー参加についても考えざるをえないんだ」
「…え?」
「遅刻を繰り返す人間には上を任せてはおけない。もし切原が悔い改めないというのなら、部長として、俺も決断しないといけない」
「そんな…!」
(上手いな、精市…)
柳だけは知っている。
その全てが嘘ではないのだろうが、殆どは竜崎の決意を引き出す為の方便であることを。
しかし、立海テニス部の益になることであれば、と敢えて発言は控えていた。
「君本人に迷惑はかけないようにするから…どうかな?」
「う…」
桜乃の頭の中で、どうしよう、という台詞が幾度も巡る。
恥ずかしいのは確かだが、もし今後、切原が遅刻を続けるとなれば、彼のテニス部での立場が悪くなってしまうかもしれない…
今回は、言葉だけだし…ただ驚かすだけが目的なら…
「…は、い…分かりました。私が役に立てるなら…」
結局、頷いて了承した桜乃に、幸村は安心したように笑顔を見せた。
「良かった…じゃあ、さっき言った様に宜しくね。やり方を教えたら、俺達は外に出ているから」
「はい…」
桜乃を部室に残して外に出た後、柳が幸村を呼び止めた。
「精市…本当にやるつもりか?」
「うん。切原なら、多分反応してくれると思うよ」
「それは確かにそうなのだが…」
少々、切原が哀れだな、という一言は、優秀な参謀は胸に留めておいた。
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