部活動終了後…
竜崎も帰った後に、切原は幸村に部室で呼び出されていた。
「何スか? 部長」
「うん、切原…これを君にあげようと思って」
差し出されたのは、見覚えのある目覚まし時計。
「う…」
過去の記憶が甦った切原は、嫌そうな顔をしながら相手に物申す。
「ソレ、三日で慣れたッスよ」
「そうみたいだね、蓮二が泣いてたよ…そういう訳で中身を入れ替えておいたから、明日からはこれを使ってみてくれ」
中身を入れ替えた…という事は、真田以外の誰かの怒声が入っているという事か?
「…まさか、部長が怒鳴ってたりするんスか?」
「何だかそういう言い方をされると、怒鳴ってほしいみたいに聞こえるんだけど…切原ってそういう趣味?」
「違うッス!!」
激しく首を振って否定した切原は、促されるままに時計を受け取った。
何が入っているかは知らないが、多分、自分には誰の怒声でも効果は薄いと思うのだが…
「ん〜〜〜」
悩んでいる後輩に、部長はああ、と頷きながら付け加えた。
「まぁ、やってみて結局効果が無い場合には、俺も無理をさせる気はない。君が明日から一ヶ月間、何事もなく朝練に参加したら良し、もし一度でも遅刻したら、その時は中身が気に入らなかったものとして、遠隔操作で全て消去するから安心して」
はっと振り向くと、柳が何かのボタンを手にしているのが見えた。
おそらくあれが働く何らかの仕掛けが、時計に施されているのだろう…
「何でそこまで高等な技術をそんなモノに使うんスか…」
「君が遅刻しないでくれたら、しなくて良かった作業だけど」
「…すんません」
「いや、これで遅刻が少しでも改善されたらいいね」
あくまでも幸村の笑顔は優しく、結局切原は目覚まし時計を再び自宅に持ち帰り、枕元に置いて眠ることになったのであるが……
翌日の早朝…
ぴぴ、ぴぴ、ぴぴ…
「んあ〜〜〜〜」
流れ出したのは、例の目覚まし時計のアラームだった。
暫くアラームが鳴って、それで止められなかった場合に、問題の録音機能が働く仕掛けになっているのだ。
しかしアラームでは殆ど用を為さず、切原は暖かな布団の中で寝息を漏らしながら、おぼろげに意識を現実へと覚醒させるに留まっていた。
(あ〜〜…確か、今日から違うメッセージが流れるってことだったよな…まぁいいか、遅刻したら消されるって部長言ってたけど、そんなメッセージ残されたってメーワク…)
ぴぴ、ぴぴ、ぴ…
アラーム音の制限時間が切れ、録音されたメッセージへと仕掛けが切り替わる。
『切原さん、起きて下さい。遅刻しちゃいますよ?』
「ふえ……え…?」
無視、無視…と完全に居直りを決め込み、枕を抱えて背を向けていた切原の耳に、聞きなれた声…
怒声ではなく、優しく耳をくすぐるような、起こすにはまるで覇気に欠けた声…
それでも、十分だった。
「どえええええええっ!!!???」
がばっと跳ね起き、枕を抱え込んだ切原が、時計に向かって身体を構える。
その彼に向かって、時計は更に録音メッセージを流し続けていた。
『早く起きて下さいね。…え、と…デート、遅刻しちゃいますよ?』
「でっ……!!」
時計に向かって、まるで熊にでも会った一般人の様に構えていた切原の顔が一気に紅潮する。
いや、俺、今日お前とデートする予定なんて…無かった、よな、無かった…うん。
ぐるんぐるんと頭が回るような感覚を覚えながらも、メッセージは更に続く。
『…待っていますから…来て、下さいね。切原さん』
少しはにかんだ口調の少女の声は、笑顔を浮かべて言ったのだろうということが容易に想像出来るものだった。
結局最後までメッセージを聞き終えた切原は、静寂が戻った自室で暫く呆然と枕を抱えていた…が、その彼の脳裏に、昨日の部長の一言が甦った。
『もし一度でも遅刻したら、その時は中身が気に入らなかったものとして、遠隔操作で全て消去するから安心して』
「うわぁぁぁっ!! ヤベェ――――――ッ!!!」
枕を放り出し、切原が一気に寝床から飛び出した。
着替えて鞄を抱えて部屋から飛び出すまで、正に電光石火の早業だ。
「あれ? 赤也、今日は随分早いのね」
「洗面所借りる〜〜〜っ!!」
家族の言葉にも耳を貸さず、切原は洗面所に飛び込んで大慌てで身支度を整えると、雷の様に外へと飛び出した…
立海テニスコート
「今日は…ふむ、全員揃ったか」
真田が点呼を取っている時、レギュラー陣の中にはいつも空白の場所だったところに、しっかりと切原の姿が認められていた。
全力疾走で来たのは明らかで、顔は真っ赤になり、ぜーはーぜーはーと肩で大きく息をして、恨みがましそうに幸村の方を見ている。
「うむ、赤也も今日は遅刻せずに来たか。本来ならばこれが当然なのだが…まぁ、少しでも自覚が出てきたのは喜ばしいことだ」
「はい…」
何となく元気がない…というか、心の奥底に何かを溜め込んだ様な返事をした切原に、他のメンバーが怪訝そうな視線を向けたが、ただ一人、幸村だけはふふっと楽しそうな笑顔を浮かべていた。
それから朝練が始まった後で、切原は早速部長の許に直談判に向かっていた。
「部長っ!! 何スかあのメッセージ!!」
「やぁ、ちゃんと来たね、切原。気に入ってくれたみたいで嬉しいよ」
「そうじゃなくて!! あのメッセージの内容は何なんですかって聞いてんですっ!!」
「え…じゃあ…」
きょとん、とした後、幸村はばさ…と手にしていた書類の束を捲りながら首を傾げる。
「…新婚編の方が良かった?」
「中学生にナニさらす気ですかアンタ――――――――ッ!!」
「冗談だよ」
向こうの怒りをさらりとかわしながら、幸村はくすくすと笑うばかりだった。
「でも、君には弦一郎の一喝よりもコッチが効くかと思ってね…事実、今日はしっかり間に合っていたじゃないか。そんなに気になるなら、やっぱりこっちで引き取ろうか? あの時計」
ぐっ……
言葉に詰まった切原の頭の中で、天秤が揺れている。
遅刻し時計を手放すか、一ヶ月我慢して早起きして乗り切るか…
遅刻の道を敢えて選んだら、自分の睡眠時間は多少は延びるが、副部長の拳骨を受け、かつあの時計のメッセージは消滅。
早起きの道を選んだ場合は、睡眠不足になる可能性は高いが副部長の拳骨はなく、メッセージも残る。
睡眠は昼間でも取ろうと思えば取れる、副部長の拳骨もある程度はもう慣れた。
しかし、あのメッセージは…手放すには惜しすぎる!!
「……継続でっ…」
「頑張ってね」
くぅっと悔し涙を浮かべながら、切原が決断を下し、部長はにこやかにその決定を受諾した。
その様子を参謀の柳が遠くで見守っていたが、やはりその表情は冴えなかった。
(やはり、予想通りの結果に終わったか…しかし、いつまで続くだろうか)
その夜…
「アンタさ…何てコトしてくれたんだよ…」
部活から帰った後、誰にも聞かれない様に自室に篭り、切原は携帯電話の向こうの人物に恨めしそうに愚痴をこぼしていた。
「一ヶ月、遅刻出来なくなっちまったじゃねーかっ!!」
『え、いや…だって、遅刻しちゃダメなんでしょ…?』
向こうからおどおどとした口調で答えたのは、あの少女だった。
『切原さんがあんまり遅刻するから、協力してほしいって幸村さんが…』
「だから、台詞が問題だってんだよ! 下手な副部長の一喝よりよっぽど心臓に悪いっての!」
『ご、ごめんなさい〜…ドッキリ作戦みたいな感じにしたら、切原さんも驚くだろうって…』
確かに驚いたよ…
内心そう呟きながら、切原ははぁ〜っとため息をついた。
違う、電話したのは、別に彼女に怒りたいからじゃなくて…
「まぁ、アンタが俺のコト心配してくれたのは分かってるって…そりゃあ…感謝してるよ…けどなぁ、アレはないぜ?」
『え…?』
「その…時計でデートに遅れるとかって言われてもさ…結局、俺、行くのデートじゃなくて朝練じゃんか…何か、ヘコむ…」
『は、はぁ…』
「頑張っても、ずーっとお預け食らい続けるってコトだろ? それ知りながら起きないといけないのは、結構ツライもんがあるぜ?」
『う…じゃ、じゃあ、やっぱり時計のメッセージ、消してもらいますか?』
少女の遠慮がちな提案に、切原はきっぱりとノーを突きつけた。
そんなコト、されてたまるか!
「いーや、これは部長から売られた喧嘩みたいなモンだからな、しっかり買ってやるよ…けどな、アンタにもそれなりの責任は取ってもらうぜ?」
『責任? え、と…どうしたら、いいんですか?』
「……」
問われたところで、男は少しだけ躊躇い…そして息を吸って思い切りよく言った。
「今度、俺とデートすること!」
『ええっ!?』
当然、向こうからは驚いた声が響いてきたが、切原は構わず言葉を続ける。
「何だよ、元はと言えばお前が言い出したコトじゃんか…それとも、俺とじゃ嫌か?」
まさか他の誰かがいて、俺にあんな台詞を言ったのか…!?
そう考えただけで苛々した感情が沸き上がる。
『……』
続く沈黙に、自然と携帯を握り締める手に力がこもった。
何だよ…何で何も言わねぇんだ…!
『あのう…』
ようやく、桜乃から返事が返ってくる。
『あの…私なんかで…いいんですか?』
「…え?」
自分から切り出したことであるにも関わらず、一瞬若者は返事を返すことが出来なかった。
『だって…切原さん、立海ですごくもててるし…私なんかで、そのう…』
「はぁ?…そ、んなの関係ねーだろ…俺は…アンタとデートしてぇんだよ」
『…』
ぼそりと言った本音の向こう、少女がきっと赤面したのだろう沈黙が流れた。
「…ってコトで、今度、デートしてもらうからな!」
『はっ…はい!』
「よし…んじゃいいや」
照れ臭さに、約束をしっかり取り付けた後、切原はそこそこの挨拶をしてから電話を切ってしまった。
これ以上相手と繋がっていたら、何か、頭がおかしくなってしまいそうだった。
「はぁ……」
ため息を再びついて、枕もとの時計を眺める。
一ヶ月…長いようで短い期間だ。
「…まぁいいや。アイツがデートしてくれるなら」
そう言って、テニス部きっての遅刻常習者は早寝早起きをするべく、早々に床に就いた……
それから一ヶ月…人の一念とは恐ろしいもので、切原は誰もが疑っていた一ヶ月の無遅刻の偉業を無事に成し遂げていた。
「やれば出来るじゃないか」
にこにこと切原を褒める幸村の隣では、真田が何故か沈んだ表情を浮かべていた。
「…どうしたの、弦一郎」
「…この一年あまりの俺の指導は何だったのかと…急に不毛で…」
(全くだな…)
真田の気持ちを察して、柳が深く何度も頷き、それから有能な部長へと視線を向けた。
「しかし、一ヶ月を過ぎたらまた元に戻るのでは…」
「うん、そう思って竜崎さんに今度は直接モ−ニングコールを頼んでおいた。一回遅刻したら一週間のサービス停止。一生ナシにしたら多分、切原キレるから」
「……」
何処までも恐ろしい奴…
そう思いながら、柳は何も知らない二年生エースへと目を向けた。
幸せなのか不幸せなのか、よく分からないが…まあ本人にもそれなりに利があるのなら、決して不幸だけではなかろう…
「どうしたの? 蓮二」
問いかけてきた立海テニス部で一番恐ろしい男に、柳はちょっと沈黙し、首を横に振った。
「いや…いい天気だと思って」
「そうだね」
今日も立海テニス部は平和である……
了
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