おねだり抱っこ


 日米決戦前の選抜メンバー合宿
 そこにはテニスの才能と実力に恵まれている若者達が集い、互いに力を競い、高めあっていた。
 施設はコートからトレーニングルームまで非常に充実しており、指導も榊教師をはじめとする有能な人材で、能力向上にはうってつけの機会である。
 そこで選手達は、心置きなくテニスに打ち込めていたのだが、彼らがそうやって集中する為に欠かせない存在がもう一つあった。
 それはボランティアである。
 指導者がいかに優れていても三人しかいないのであれば、選手の環境を最良の状態に保つためには絶対的に人手が足りない。
 その人手の不足を補い、また、選手のメンタル面でのサポートも行うボランティアは、目立たないながらも、実は非常に重要な立場だった。
 特にその内の一人、竜崎桜乃は、まだまだ初心者の枠の中ではあるが、テニスについての知識があり、ほぼ全ての選手達と顔見知りであることから、ボランティアの中でも貴重な存在だった。
 しかも女性的な気配りと生来の優しさ、奥深さは、選手の気を乱すことなくサポートを行うにはうってつけのものであり、彼女の頑張りが合宿の質を少なからず上げている。
「真田さん、お水です、どうぞ」
「ん? ああ、すまない」
 その日も、桜乃はぱたぱたと全施設の中を忙しく走り回り、選手達に水を配っていた。
 無論仕事はそれだけではなく、他にもコートの整備の手伝いや、食事の準備、備品の調達などなど…数えていけばきりが無い。
「お前は本当によく働くな…感心なことだ」
「そ、そんな事ないですよ。言われたことをやるのだけで精一杯で…」
 その日もミネラルウォーターを受け取った真田が惜しみない賛辞を送ったが、これは別に彼だけの感想だけではなく、他の選手を代表しての発言と見てもいいだろう。
 しかしあくまでも桜乃は控えめに相手の言葉を受け取った。
「私も、皆さんの試合を見て、とても参考になりますから…」
「そうか…これからも宜しく頼むぞ」
「はい、頑張ります」
 真田の言葉に、こくっと頷いた時、何処か遠くから桜乃の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
『桜乃――――――っ!! ちょっとこっちにおいで――――――――っ!!』
 大体ここでは、桜乃が呼ばれる時には『竜崎』と呼ばれるのが通常である。
 それを敢えて『桜乃』と呼ぶ人物は当然限られており…
「…あれは、竜崎先生だな」
 真田が、顔を上げて声のした方角を眺めつつ呟き、桜乃もまたそれを否定しなかった。
 豪快な呼び方だ。
 向こうからもこちらからも互いの姿が見えない程に離れているにも関わらず、自分の声を相手が確実に聞いているという確信を持っている様な呼びかけだ。
 まぁ、確かに聞こえてはいるのだが…
「…相変わらず闊達な御仁だな」
「ううう……」
 真田の控えめな評価に、桜乃が恥ずかしげに俯いた。
 自分の事ではないのだが、やはり身内としてはやめてほしいというのが本音である。
「えと…呼ばれましたので失礼します」
「うむ、分かっている…聞こえていたからな」
「はぁ…」
 ぺこぺこと頭を下げて、桜乃はすっかり癖になってしまったダッシュで祖母の呼び声の方へと向かう。
 あちらには試合用のコートがあり、確か祖母は今の時間はチームごとの試合を監督していた筈。
 場所も状況も一致している。
 まず間違いないだろうと思って向かってみると、果たして…
「ああ、来たね桜乃、遅いよ!」
「これでもダッシュで来たの! 他の皆さんと一緒にしないで。それにあんまり大きな声で…」
「大きな声じゃないと聞こえないだろうに、何言ってるんだい」
「携帯があるじゃない」
「時間の無駄だよ。それより仕事があるんだ、手伝っとくれ」
「え…」
 大体いつもこんな感じなのだ。
 自分の訴えがあってもそれは殆ど向こうの考え方に阻まれ、不発に終わってしまう。
 しかも訴えの内容そのものが、死ぬ気で止めたい程に切羽詰ったものではなく、桜乃が内気な少女であることも災いし、大体は祖母の勝利で済んでしまうのだった。
 これで今までどれだけの願いが葬り去られてきたことか…
 女子で彼らほどのスタミナがない桜乃が祖母に訴えている姿を、周囲の選手達は楽しげに見守っている。
 喧嘩と呼ぶには程遠い、これも祖母と孫の一種のコミュニケーションなのだ。
「今からすぐに持って来てほしいものがあるんだよ」
「持ってくる物?」
「ああ、トレーニングルームのロッカーの上に新しいテニスボールが入った箱があった筈だ。それを持って来ておくれ」
「えーと…ああ…」
 思い出した桜乃もうんと頷いた。
 確かに思い出してみると、そんなダンボールがロッカーの上に置かれていた気がする…
「今使っているのは?」
「別のトレーニングで大量に必要になりそうだからね、試合用のモノが不足しそうなんだよ。今はアップをしているから、その間に持って来てほしいんだ」
「そっか…うん、分かった。すぐ持ってくるね」
 アップしているのなら、試合ももうすぐ始まる筈だ、なら急いで持って来ないと!
 桜乃はすぐにコートから離れ、施設の中へと走っていった。
(今日は何だか忙しいなぁ…)
 結構走っている、と考えながら、ぱたぱたと小走りにトレーニングルームに向かう。
 特に誰にも出会うことなく目的の部屋に到着した少女は、そこにいた先客に気が付いた。
「あら? 切原さん…ちょっとお邪魔しますね」
「ん? ああ、竜崎か」
 トレーニングルームの中で黙々とベンチプレスを行っていた若者が、彼女の入室に気付いて手を止め、バーベルを置いた。
「どうした?」
 起き上がりながら尋ねる切原の全身には無数の汗の玉が浮かんでおり、動くたびに床へと流れ落ちてゆく。
 バーベルの重さもさることながら、それに加えて彼の所属する立海大附属中学の男子テニス部は常に十キロのウェイトを身につけることを課されており、それらからも彼の身体能力の高さが伺えた。
「あ、どうぞ続けて下さい。ちょっと備品を取りに来たんです」
「へぇ」
 そうは言われたものの、一度トレーニングを中止したのを良い機会に、彼は傍に置かれていたミネラルウォーターに手を伸ばした。
 そしてそれを飲みながら、何とはなしに相手の様子を伺う。
(…相変わらず頑張ってんなぁ……)
 真田と同じ感想を心の中で呟きながら、切原は桜乃から目を離さない。
「……」
 いつも朗らかに頑張る相手の姿は、見ている自分にも元気を与えてくれる。
 そんな彼女が気になりだしたのはいつからだっただろう?
 夏に彼女を知り、気が付けば視線で姿を追いかけるようになってしまっていた。
 正直、今回の合宿に桜乃がボランティアで参加してくれると聞いた時には、嬉しさで内心喝采を上げたものだ。
(…っても、全然良い雰囲気なんて縁がねーけどな)
 あはは〜…と自虐気味に心で苦い笑みを浮かべてみる。
 まぁ、一番警戒しているあの青学の生意気一年ルーキーは、今はテニスばっかりで桜乃に目を向ける素振りは無いが…
(けど…折角の合宿だし、ちょっとはこう、距離を縮める何かがあったって…)
 そうやって彼が一休みしている間に、桜乃はてってってとロッカーに寄って上の箱を眺めた。
 一個しかないのなら、あれで間違いない筈だ…しかし
「んっ…えいっ…!」
 ぴょんぴょんと跳ねて箱に手を伸ばすが、ロッカーがかなり高さがあり、更には箱も奥へと追いやられている為、小柄な彼女ではとても届かない。
「う〜〜…」
「取れねぇの?」
 そこに、ひょこっと切原が桜乃の隣に立ち、代わりに自分が手を伸ばす。
「どれ…っと…」
 切原は明らかに桜乃より長身であるのだが、その彼の指にも残念ながら箱が触れることはなかった。
「くっそ〜〜! もうちっとなんだけどな!!」
「あ、何処かに脚立があるかも…!」
 咄嗟に思いついた桜乃がトレーニングルームを見回し、脚立が無いことを確認してから廊下へと出たが、すぐに残念そうな表情で戻ってくる。
「ダメです〜〜、何処かに持っていかれちゃってる…!」
「急ぐのか?」
「今から試合で使うらしいんです!」
 アップが終わるまでに届けなければ!と逸っている桜乃は、とにかく備品を届けることで頭が一杯の様子だったが、ふと、何かを思いついた様に切原に縋った。
「切原さん! お願いがっ」
「へっ…?」
「あの、あれっ…」
 急いでいる所為か、言葉で上手く説明出来ない彼女は箱を指差しながら、ぽかんとしている切原に実に分かりやすい一言を言った。
「抱っこ!!」

 ぐわんっ!!

 単語一つに、カナヅチで後頭部を思い切り殴られた様な衝撃を受け、切原はもう少しでその場ですっ転ぶところだった。
「っ……っえ…と…」
 何か…よく分からないけど…ものっすごく可愛いんですけど、コイツッ!!
 頭を押さえつつも、顔が紅潮していくのを自覚した切原は、何とか気を取り直そうと思って口を開く。
「あ、あのなぁ竜崎…」
 そんな健全な男子の心中は知る由も無く、桜乃はとにかく試合が始まる時間に圧されて焦ったまま、ぴょんぴょんとジャンプを繰り返しながら切原に懇願を繰り返した。
「抱っこ抱っこ――――!」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
 だ・か・ら! 可愛いっつーのっ!!
 折角元に戻った顔色が、また赤くなっていってしまう。
「だーっ! 分かった分かった! してやる、してやるからっ!!」
 だから、これ以上俺の心拍数を上げるのはやめてくれっ!!



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