心でそう願いながら、切原は桜乃にロッカーの前に立つようにジェスチャーを行い、それに素直に従った彼女をロッカーと挟む場所に立つ。
 後姿の少女の腰を両腕で包むように持ち、ぐっと上へと持ち上げると、信じられない程に軽々と持ち上がった。
(うっわ…軽っ!!)
 しかも、握っている腰の感触が…
(細っ!! 何だよこの柔らかさ…っ)
「あ…何とか届きそうです…!」
 はしゃぐ声など、最早聞いていられない。
 ばくばくと激しく打ち出す心臓を必死に押さえながら、切原は気を紛らわせようと視界を上へと移動させ…
(おおわっ!!)
 マジいっ!!
 顔を上げると、丁度、桜乃のシャツと身体に空いた隙間を覗ける角度だった。
 少女の薄いシャツの隙間から見えたのは純白のキャミソール。
 その眩さが瞳に直接飛び込んできて、切原は慌てて頭と瞼を伏せた。
 伏せても、見たばかりの光景が瞼の裏に文字通り焼きついて、ちかちかと浮かんでは消え、を繰り返す。
(だ〜〜〜〜〜っ!! 消えろ消えろ消えろ〜〜〜!!…っても、ちょっとは覚えておきたいっつーか…うわ―――っ! 何考えてんだ俺〜〜〜〜っ!!)
 とにかく、脳がショートしそうな忙しさである。
 やんちゃではあってもまだまだ純な少年であったらしい切原は、固く目を閉じて震える手で必死に桜乃を支え続けた。
(やばいって…手が…止まらね…っ)
 震えているのは、無論、重みの所為ではなく心の動揺によるものだ。
 こんな姿を鬼の副部長に見られたら、きっと『たるんどる!』と一喝されてしまうのだろう…が!
 この時ばかりは、彼は心の中で反論した。
(いや! 俺だけじゃないっ! コレは絶対に真田副部長もおんなじようになるハズっ!!…てか、俺以上だと思うっ! 賭けてもいいっ!!)
 おそらく賭けにならないだろう事を思っていた彼に、上から声が掛かった。
「切原さん、取れました! 降ろしていいですよ」
「お…おう!」
 瞳を閉じたまま、酷く安堵しながら切原は少女をゆっくりと下へと降ろした。
 箱はいつの間にか取れていたのか…まるで重みの変化には気付かなかった。
(あ〜〜〜〜〜〜…ドキドキした〜〜)
 柔らかな感触から手を離し、背を伸ばした相手に箱を抱えた桜乃が笑顔で向き直った。
「有難うございます〜〜!」
「あ…あ、いや」
 純粋な笑顔が眩しすぎて、今の罪悪感に苛まれている自分は直視出来ない…
 ばれませんよーに!と願いつつ顔を背けている切原に、じっと桜乃が注目する。
「???」
 何か、相手の様子がおかしい…と考えていた少女が、はっと何かに気付くと、途端に見る見る青ざめていった。
 そして、いきなり無言になった桜乃の様子に気付いた切原がようやく彼女に注目すると、その時には相手は完全に硬直してしまっていた。
「…お、おい、竜崎?」
「すっ…すみませんっ…あの、私、気付かなくって…切原さん、そんなに顔を赤くして、私…」
(ばれた〜〜〜〜〜〜っ!?)
 俺と彼女の友情さえもここで打ち切り!?
「そんなに、重かったですかっ!?」
「…へ?」
 一瞬覚悟を決めた切原に聞こえたのは、意外な桜乃の一言だった…
「え…?」
「う、わわ…そんなに、私…っ、そのっ、太って…っ!?」
 まさかそこまで自分の体重が重かったとは!と、桜乃は震えだしそうな程ににおののいている。
 この年頃の女子にとって、体重は決して小さくない注目ポイントなのである。
「あ、いや! そうじゃない!! そうじゃなくてっ!! オメーの所為じゃなくって…オメーは軽いから、気にすんなっ!」
「で、でも…」
(だぁ〜〜〜〜〜〜!! もぉ〜〜〜〜〜〜〜っ!!)
 尚も不安そうに俯く桜乃に、切原が遂に懺悔を決意した。
「俺が照れただけっ!! オメーがあんまり細くて軽かったから…っ! 悪いっ、謝るっ!」
「え…っ…」
 きょとん…とこちらを向く桜乃に目を合わせられず、切原は彼女から半ば強引に箱を引き取った。
「お詫びに、コレ、コートまで運んでやっから! それで勘弁な!! 行くぞっ、竜崎!」
「え…は、はいっ!!」
 後半は勢いに圧されて『はい』としか言えなかった桜乃が、切原に付いて走り出す。
 桜乃は身軽な身でありながら、それでも切原のスピードについていくのがやっとであったが、その間、ずっと切原の背中を見つめていた。
(切原さん…)
 細くて軽い…
 確かに女性であれば、言われて嬉しい言葉ではあるが、こんなに心が浮き立つものだろうか…?
 それなら、今自分がこんなに嬉しいと思っているのは、何でだろう…?
 もしかして…もしかして…私は…
「…あの…」
 思い切って相手に呼びかけてみた桜乃だったが、ほんの僅かに時間切れだった。
「あれ? 切原?」
 その時、二人はもうコートに到着するところだった。
 桜乃が一人で来ると思っていた祖母の竜崎が、意外そうに切原を見つめ、相手は彼女の傍に箱を置いて姿勢を正す。
「え、と…ついでだったんで、持って来たッス」
「おやそうかい、ウチの孫が世話になったね」
「いや、別に、そんな…」
「?」
 詫びの気持ちで箱を運んだのは嘘ではなく、間違いなく本心からだ。
 しかし、殊勝な態度の裏で、実は男の心は恐怖に震えてもいた。
(もし、孫のシャツの中を見たなんてバレたら…竜崎先生どころか、副部長に…ひ…百回殺される…っ!!)
 賭けてもいい!、と、またも賭けにならない考えを胸の奥で呟いてみる。
 本人である孫に懺悔をしていても、こればっかりは言えない!
(ワザとじゃなかったし……まぁ、内緒にしとくに越したことはねーよな)
「もうすぐアップが終わるところだったんだ、間に合って良かったよ。ほれ、桜乃も礼を言わんか」
「は、はい」
 促される形で、桜乃は改めて切原と向き合う。
 この場所では、もう聞こうと思っていたことは聞けない。
「あ、有難うございました、助かりました…」
「お、おう…」
 ぺこっとお辞儀をしながらの相手の礼に、寧ろバツが悪そうに視線を逸らして男は手を上げる。
「じゃあ、俺、戻るわ。失礼するッス、竜崎先生」
「ああ…ん? ちょっと待っとくれ切原。トレーニングルームに戻るなら、ついでにアレも持って行ってくれないかね」
「は?」
 竜崎が示したのは、傍の金網に立てかけられていた脚立だった。
(あ〜〜! あれ!!)
 あれがあったら、難なく備品も取れたのに!!と今更悔しそうに脚立とにらめっこする桜乃と並んで、切原もげんなりとした。
「アレ…が、何でココにあるんスか?」
「変かねぇ? 真田が金網の上にボールをぶつけて破っちまったから修繕が必要だったんだよ」
(原因は副部長ッスか!!)
 絶対にいつかテニスでブチ倒す時に倍返ししてやる!!と心に誓いながら、切原は仕方なくそれを脇に抱えた。
「いーッスよ。どうせ持ってくだけっしょ、お安い御用です」
「あ、あの…」
「ん?」
 呼びかけられて振り向くと、桜乃が、脚立に同じく手をかけていた。
「り、竜崎?」
「私も、お手伝いします…」
「え!…べ、別にいいって」
「お願いします、半分、持たせて下さい」
 脚立を持った手を軽く引いても、少女が手放す気配はない。
「う……わ、分かったよ…けど、無理はすんなよ」
「はい」
 押し切られる形で、切原は桜乃と脚立を挟んで並び、歩き出した。
「重くねぇか?」
「大丈夫です…切原さん、力強いんですね」
「おう…まぁな」
「……」
「……」
「…切原さん」
「あ?」
 沈黙の重さに押され、思い切って、桜乃はコートで聞けなかった事を相手に尋ねてみた。
「あの…どうして…こんなに親切に、してくれるんですか…?」
「っ…そ、りゃあ…」
 切原がどもる。
「…それは」
 それは…俺がお前を…
(それを…言ってもいいのか?)
「……」
 返事を待つ少女の瞳に、心を焦らせながら若者は大いに悩んでいた…が…
「あ、す、すみません…あの、やっぱり…答えは、いいです」
 答える前に、桜乃が質問自体を無いものとした。
「?」
 こうなると、答えるか否かは別として、彼女の行為そのものが非常に気になる。
「何だよ? 聞いたのはアンタだぜ?」
 ちょっと不本意な相手の態度に苛立った切原に対し、桜乃は申し訳なさそうに俯いた。
「いいんです…切原さんが優しいから手伝ってくれたこと、分かってたのに…疑う様な事言って、ごめんなさい」
「!……アンタ…」
 何で謝るんだよ…アンタが俺に優しいって言ってくれたのは、嬉しかったんだぜ…
 謝る必要なんか、無いんだ…
 アンタがそんなだから、俺……だから、俺さ…
「……竜崎」
 ぴたっと歩みを止めると、男は少女にもそれを求めて、二人が止まった時点で向き直った。
「…切原さん?」
「……気になるんだ」
「え?」
「…アンタが気になるんだ、スゴく…上手く言えねぇけど、何か、ほっとけねぇんだよ」
「っ!!」
 言ってしまったら、もう続けるしかない。
 どうやら自分は、行動を起こしてしまえば結構肝が座るタイプだ。
「だからさ、俺…これからもアンタの近くにいたい…め、迷惑か?」
 最後の遠慮がちな相手の言葉に、桜乃の顔がはっと上げられる。
「そんな! 迷惑だなんて……そんな…私」
 即答を返しながらも徐々にその言葉は小さくなり、最後には消え入るようなそれになって、彼女は真っ赤になった頬を手で覆った。
 ああ…やっぱり私…そうだったんだ…
 この人に言われて…初めて気付いた…
「…嬉しいです……ありが、とう…切原さん」
「!…そ、そっか、良かった、んじゃさ…」
 その場で脚立をがしゃりと地面に落とし、切原は桜乃を抱き寄せた。
「あ…」
 柔らかな…小さな身体が、自分の胸の中に素直に抱かれる姿を見て、若者の背筋に衝撃が走る。
「アンタも、俺の傍にいるようにしろよ…な?」
「…はい」
「…へへ」
 どうにかなってしまいそうな程に嬉しくて、ぎゅ、と腕に力を込めて更に強く抱き締める。
 この合宿中、距離を縮める何かがあればいいと思っていたけれど…こうして抱き締めることが出来るなんて思わなかった。
「サンキュ…」
 距離が縮まり一度触れてしまったら、今度は離すのが惜しくなり、それから切原は照れる少女をずっと腕の中に抱き締めたままだった……






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