チョコいらね


「そろそろ、バレンタインデーだな〜」
「嬉しそうだな、丸井」
 或る日の立海にて、放課後、丸井とジャッカルがのんびりとそんな雑談をしていた。
 世はすっかり冬の様相を呈しているが、この時期になると人の世はせわしなくなる。
 特に、女性達が賑やかに騒ぐこのイベントではあるが、男性も無関心という訳ではない。
 貰える数が男のステータスにもなるという話があるが、今話している丸井についてはステータスよりも貰える物体そのものが重要の様だ。
「だぁってさ、タダでチョコ食べられるんだぜぃ? サイッコーのイベントじゃんか、今年はどんなチョコが来るかな〜」
「…女子が聞いたら泣いて怒るぞ」
 向こうの気持ちは丸っきり無視ですかい、とジャッカルが呆れるが、相手は全く彼の冷たい視線に気付いていない。
「何だよぃ、ちゃんと受け取って食べるんだからいいじゃんか。食べ物粗末にしている訳じゃあるまいし」
「それはそうだが…気持ちの問題だぞ? 好きでもない奴から貰って、やたらとはしゃぐと変に勘違いされちまうし、もし本当に好きなヤツがいたら、ヤキモチ焼かれるかもしれないだろ? そういう所はちゃんと考えてだな…」
「別に考えなくても、そんなトラブル無かったぜぃ?」
「いや、それがこれからも続くって訳でもないし…」
 そんな二人の会話に割り込んできたのは、銀髪の詐欺師、仁王だった。
「まぁ、丸井についてはそんなに心配はいらんじゃろ。女の方もコイツの性格を分かってのことじゃろうし」
「うーむ…」
「そ、だから心配はいらねーよぃ」
「丸井…ある意味ヤバいんじゃぞ、それは」
「へ?」
 全く分かっていないらしい相手に仁王がため息をつきながら笑っていたところに、二年生のレギュラー、切原が通り過ぎた。
 普段はやんちゃな笑顔がトレードマークなのだが、今日はいやにご機嫌斜めらしく、むっと唇を引き結んでいる。
「ちーッス」
「…何だよぃ、赤也、恐い顔してさ」
「別に何でもないッスよ」
 何でもないと言いながら、その口調はしっかり不機嫌色に染まっている。
 すると、何も聞いていない仁王は、既に読めたとばかりにニヤリと笑った。
「ははん、さてはアレか? 去年の教訓を活かそうとしての作戦実行中とか? で、泥沼に嵌っとると」
「…仁王先輩にはカンケーないッス」
 言葉の温度が一気に冷えた…という事は図星か。
 相手の睨むような視線にも全く動じる気配を見せずに、仁王は相変わらず笑っている。
 本当に、この男を怯えさせるものがこの世にあるのなら、是非見てみたいものである。
「…教訓?」
「ん、教訓」
 何だい?と仁王を見る丸井に、相手はうんと頷いたが、切原は勝手にしろ、とばかりにさっさとその場を離れて行った。
「何かあったのか?」
「…一年の時に、アイツ、ウチの化物三人衆に試合を挑んでコテンパンにのされたろうが? そのガッツが結構女生徒達にウケてのう…去年は結構な数のチョコを貰ったんよ」
「?…別にいいんじゃないか?」
 何が教訓に繋がるんだ、というジャッカルの疑問に、仁王は肩を竦めて首を振った。
「問題はその後じゃったんよ…チョコの中に、その日告白をしたいという女性からのメッセージがあったんじゃが、赤也のヤツ、見とらんでの…見事にすっぽかし、かましよった」
「うわ〜〜」
「したら今度はそれを責められて、無理に交際を迫られての…結構難儀したらしい。加えて、ホワイトデーの出費も痛い思い出になったようじゃ」
「それはあるなぁ…」
 ふんふんと頷いて納得している二人に、仁王はじゃろ?と目配せする。
「そんなワケで、今年はチョコは要らんと女生徒に最初から断りを入れとるようなんじゃが…まだ諦めきれん奴らもおるし、そいつらから何事か言われたんじゃろ」
「つれぇな〜…男ってのはよぃ」
「こういう場合、先ず悪者になるのは男なんだよなぁ」
「人生の教訓ってヤツじゃよ」
 うん、とみんなが同意して頷いている時だった。
「あのう…」
 不意に、三人に呼びかける声があり、彼らはそちらへと同時に振り向いた。
「おっ」
「あ…」
「何じゃ、お前さんか」


「〜〜〜〜ったく、何だよ」
 ムカムカとした不快感を隠そうともせず、切原は仁王達から離れた後も、ぶつぶつと一人愚痴を零していた。
 理由は、まさに先程仁王に指摘された事そのままだ。
 自分は確かに、二月に入ってから女子達にチョコを貰わない宣言をしていた。
 殆どの女子はえ〜っと言いながらも何とか納得してくれたのだが、そうでない女子も一部いた。
 今日も、部活に参加する前に散々問い詰められた。
 何故なのか、とか、誰か恋人がいるのか、とか、自分達が嫌いなのか、とか…散々!
(どーせどんな答えでも納得なんてしてくれないクセに…)
 去年のコトは悪かった、確かに俺が悪かった。
 テニスの練習に夢中になって、疲れて、『読んでくれ』と頼まれていたメッセージなんか目も通さなかった自分が悪かった。
 しかし、幾らなんでもそれを理由に迫るのは、反則ってもんじゃないのか?
(あ…思い出してきたら、何かまた腹が立ってきた…)
 イラッとした気分を抱えつつ、切原は自分の愛用のテニスラケットを握った。
 それが少しでも自分の気持ちを落ち着かせてくれるようにと。
(何だよ、『逃げてる』って…俺は逃げてるんじゃなくて、トラブルを避けてるだけだっつーの!)
 ここに来る前に投げつけられた言葉が、切原の怒りに火をつけた。
 一睨みで相手を退かせてここに来たが、また明日には色々と言われるに違いない。
(幸村部長は、もう少し大人になって相手をしないと駄目だよって言ってたけど…ぜんっぜん分からねーっての…あーもう、女子には当分近づきたくない…)
「あのう…」
 不意に後ろから呼びかけられ、切原はそれが女性の声だと判断した瞬間、かっと怒りを再燃させた。
 まだ性懲りもなく追っかけて来たのか!?
「あのなぁ! 何度も言ったろ? 俺はバレンタインのチョコなんかいらねぇって…!」
 振り向きざまに大声で怒鳴り…
「え…」
「……」
 相手を見た切原は途端に口を閉ざして無言になった。
「あの……」
(ウソ…だろ)
 自分の全身から血の気が引いていくような感覚がする。
 後ろから声を掛けてきたのは、しつこい追っかけ達ではなかった。
 竜崎桜乃…
 立海のレギュラーメンバーと仲が良い青学の一年生で、切原にとってはそれ以上の存在であった。
「り…竜崎…?」
 聞こえちまったか…?
 強張った切原の表情に気付いたのか気付いていないのか、それは分からなかった。
 しかし、切原のある種の暴言を聞いた彼女が、微かに表情を強張らせたのは確かだった。
「あ…すみません…今度のバレンタインでチョコの好みを皆さんに聞いていたんですけど…」
 かろうじてにこりと笑った少女は、ぱたぱたと手を振りながら切原に言った。
「じゃあ、切原さんはチョコ、要りませんね…お邪魔しました…」
「う……」
 どもる切原の目の前で、桜乃はぺこっと一礼して、そのまま彼から離れて行った。
 切原は…追うことも出来ずにその場に佇むのみ…
 どうやら彼は、蔑ろにしていたバレンタインの神様から、手痛い神罰を受けてしまったようだ。
「…あ〜〜あ」
 それを遠くから眺めていた丸井が、『やっちまったよぃ…』と言いたげな目で切原を見ていた。
「…仁王先生、あの状況は?」
「敵だと思って突っ込んでいったら見事に自軍で、弁明の機会も与えられず反逆者の烙印を押されて銃殺刑…ってトコかのう…ってか、馬鹿じゃろアイツ」
 よりにもよって、一番言うてはならん相手に言いよった…とジャッカルに話を向けられた銀髪の男はため息をつく。
 いらついているのは分かるが、せめて相手を確認せんと…と思ってみても、もう遅い。
 不出来な後輩の所為で、あの少女の心に小さな傷を作ってしまったかもしれないのだ。
 夏からの付き合いで、あの子が切原に特別な想いを抱き、また切原も彼女を憎からず想っていることなど、詐欺師の自分にはお見通しだった。
 バレンタインという、互いの距離を一気に縮められる格好のイベントを、自分自身で潰してしまった後輩には、最早ため息しか出てこないというものだ。
「なぁ…赤也のヤツ、大丈夫か?」
「下手に弄れば爆発するが、ほっとけば勝手に落ち込んでいくじゃろ…少し反省させとけ」
「俺、しばらくアイツとは試合しないようにしよう…」
 いきなり暴発されたらとばっちり食らうし…と丸井はあくまで日和見な意見に終始していた。


 バレンタイン当日
 男子テニス部部室の中は、既に男達の戦利品で溢れかえっていた。
「流石に置き場に困るな…」
「多少はここに残しておくにしても、半分は自宅に持ち帰ってもらった方が有り難いが」
 真田と柳がそんな会話をしている中、ある事実に気付く。
「む…そう言えば、赤也の分が見当たらないな」
「そうだな」
 チョコを入れた箱や袋にそれぞれの名前が記されているのだが、何処にも切原の名を記したものがない。
「別の場所に置いているのか、あか…」
 言いかけた真田が、思わず口を閉ざす。
 質問の対象になった男は、傍の机の前に座り、ぐてん…とうつぶせていた。
「…赤也? 気分でも悪いのか?」
 いつもなら元気にラケットを振り回しては自分達に怒声を上げさせているやんちゃ坊主が、今は瀕死の獣の様な、無残な姿を晒している。
 寝ているのなら拳骨が飛んだだろうが、かろうじて伺える相手の瞳が、どんよりと曇っていた。
「あ、赤也?」
「……」
 ず――――んと沈んでいる切原に、真田がいよいよ不安げに声を掛けるが、それは仁王によって阻まれた。
「ああ、気にせんでええよ。今日の赤也はちょっとバイオリズムが地の底まで落ち込んどるんじゃ」
「…どういう事だ?」
「人にはどうにもならんコトもあるじゃろ? 運命とかそういう類のもんじゃよ、きっと」
「…いきなり話が大きくなるな」
「まぁここにおるってコトは部活には参加する気はあるって事じゃ。他の部員に迷惑をかけんのなら、多少の不調には目を瞑ってやりんしゃい」
「むぅ…」
 真田と仁王の会話の向こうで、ジャッカルと丸井が互いに顔を見合わせ、同時にため息をついた。
 やっぱり……
(よっぽどショックだったんだな…貰えなかったのが)
(見事に、アイツだけだったよな…)
 実は今日、部活が始まって間もなくの時に、見学に訪れた桜乃が切原を除いた全レギュラーにチョコレートを贈ったのだ。
 前日、彼らに予め聞いていたチョコの好みに合わせての力作だということらしい。
 出会ったレギュラー達に一つ一つ手渡す形だったので、中には切原が彼女から貰っていないという事実すら知らない者もいるが、自分達は知っている。
 知っているからこそ、ついこうして気を揉んでしまうのだ。
 普段は生意気だが、やはり可愛い後輩であることには違いない。
 何とか励ましてやれたらいいのだが……
「では、練習を始める。各自、外に出ろ」
 真田がみんなに号令を出した脇で、幸村が一言念を押す。
「みんな、ちゃんと竜崎さんにお礼を言うんだよ」
 その彼女は、今は外で時間を潰しているようだ。
 貰っていない切原は、どんな言葉を掛けろというのか…
 次々と外へ向かう部員の中で、最後に行動を起こしたのはやはり切原だった。
 のろのろと立ち上がる彼に、仁王が呆れた様子で声を掛けた。
「…ゾンビかお前さんは」
「…ゾンビ…ゾンビすか…ふぅ〜ん…」
(重症じゃ〜〜〜〜〜〜〜!!)
 うふふふふ…と今にも笑い出しそうな不気味な雰囲気の後輩に、内心冷や汗をかきながらも仁王は忠告を与えた。
「…結局、竜崎が気になるんじゃろうが。そんなに凹むなら、いっそ謝ればどうじゃ」
「……多分怒らせたっすから、俺」
「じゃから謝れと言うとる。どの道そんな状態じゃ、お前さん、ロクな動きは出来んぞ?」
「…平気ッスよ。コートの上は別ッスから」
 仁王に断り、切原はラケットを手にしてコートへと向かった。



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