切原が仁王に向けて切った啖呵は、確かに嘘ではなかった。
 どんなに日常生活では気を緩めていても、コートの上ではレギュラーとしての実力を如何なく発揮する彼は、最後まで不調を感じさせない動きで練習をこなし、部活動を終えたのだった。
 しかしそれでも、激しいトレーニングを終えた後は空腹にもなるし疲れもする。
 ぜいぜいと肩で息をする切原が、他の部員同様にコートから出た時だった。
「切原さん…?」
「っ!?」
 声を掛けられた先を振り向くと、そこには声で予想した通り、桜乃が立っていた。
「……」
 いまだに、彼女を怒らせたかもしれないという事実が恐くて、切原はなかなか相手の目を見ることが出来ない。
 事実、コートで練習に励んでいた時も、それに集中していることを理由に、彼は相手に一度も視線を向けることは無かった。
「…な、何だよ」
「帰る時に、少し、お時間頂けませんか?」
「俺に…?」
「はい」
 相手は別に怒っている素振りではないが…自分だけに声を掛ける以上、何かがあるのだろう…おそらくあの日の自分の暴言についての何かが…
「……いいぜ、後でな」
「はい、コートのところのベンチで待ってますから」
「分かった」
 何を言われるにしても、それは結局自分の責任なのだ。
 何を言われたとしても、自分が受ける義務がある。
 覚悟を決め、切原は着替えを済ませると、鞄を手に再びコートへと向かって行った。
 他の部員が続々と帰ってゆくのを見つめながら、桜乃はコート脇のベンチに腰掛けて、切原の到着を迎える。
「…えーと…用って、何だよ」
「あ…どうぞ、座って下さい」
 ちょん、とベンチの脇に座っていた桜乃が、隣の空いている場所を示して男に座るように促し、相手は素直にそれに従った。
 何となく、改まった感じ…やっぱり、それなりに重い話題になってしまうのだろうか…
「あのう…」
「ごめん、竜崎」
「はい?」
 相手が話を切り出す前に、切原は一言謝罪した。
 取り敢えず、相手が許しても許さなくても、謝罪だけはしておかなくては。
 これから少女が自分を責めて、こちらの言葉すら聞いてくれなかったとしたら、謝るタイミングさえ逸してしまうかもしれない。
 先に謝ってさえおけば、結果はどうあれ、自分は下手な後悔や心残りは覚えずに済むだろう…
「…?」
「俺、別にアンタのチョコが要らなかったワケじゃなくてさ…その、アンタのチョコだったら受け取りたかったけど……何か、結局ヒドいこと言っちまって…ごめんな、傷つけて…」
「…切原さん?」
「まぁ…ヒドいコト言っちまったのは確かだし、今更ナニ言い訳しても、許してもらえねーことは覚悟してるけど…一言、謝るだけはしとかないとって」
「あの、切原さん?」
「…なに?」
「…あの…話がよく分からないんですけど」
「はい?」
 話ってどの話?と思わず突っ込みたくなった切原だったが、そこで一旦は言葉を切り、桜乃の出方を待った。
「…?」
 よく分からないって…どういう事だ?
 俺は、アンタに随分とヒドい事を言ったんだけど…それが分からない?
「ええと…私、切原さんが、凄くチョコが苦手なんだって思って…」
 そこで桜乃はごそっと自分の鞄を探り、ちょん…と切原に、ナプキンで包まれた四角形の箱を差し出した。
「…切原さんにはチョコじゃなくて、お弁当を作って来たんですけど…?」
「はい…?」
「…もしかして、やっぱりチョコが良かったんですか?」
「へ…?」
 さっきからマヌケな答えしか返していない二年生エースは、暫く相手とお弁当箱を交互に見つめ…念を押す形で尋ねた。
「…じ、じゃあ…アンタ、俺のコト、怒ってないの?」
「? 何でです?」
「……」
 一気に襲ってくる疲労感…
 どんな罵詈雑言でも甘んじて受けようと思っていた切原は、がくーっとその場で脱力した。
 って事は、あの時、彼女は本当に自分がチョコ嫌いだと思っただけ〜〜!?
 じゃあ、ここ数日の俺の葛藤って、何だったんだ…!?
(…でも、取り敢えずは結果オーライッ!)
 最悪の事態はどうやら避けられる見込みだと踏み、切原は心の中でガッツポーズをとった。
「あの…」
「お、おう…!」
「これ…受け取ってもらえますか?」
 おず…と差し出された贈り物を、切原は当然、嬉々として受け取った。
「ああ! もらうもらう!! サンキューな、竜崎!! 有難く頂くぜ!」
「ふふふ…」
 嬉しそうに受け取り、早速それを開こうとしている活き活きとした男の表情に、桜乃も思わず笑みを零した。


『え…? 勘違い?』
『そ…多分の』
 あの日…切原が桜乃に暴言を投げつけた日、彼女は後で切原にも内緒で、仁王の呼び出しを受けていた。
 部活動の終わり際、切原が精神的ショックから立ち直れていない隙をついて、桜乃は仁王から切原の言葉の真意を聞かされていたのだ。
『アイツは別にお前さんからチョコを受け取りたくないワケじゃない…いや、多分お前さんからしか、貰いたくないんじゃよ』
『切原さんが…?』
 困ったもんじゃ、と仁王は桜乃に笑いかける。
『ああ見えて、よくモテとるが純情な一面もあるんじゃよ。好きなヤツが出来たら、そいつしか目に入らんような性格じゃ…二月の初めにはもう、チョコは要らんと女子には宣言しとったが…お前さんは、聞いとらんかったのじゃろ?』
『……』
 頬を染めて俯く少女に、男はこくんと頷いた。
『そういうワケじゃ…まぁ、余計な世話かもしれんが、お前さんのチョコだったらアイツは喜んで受け取るじゃろ』
『……』
 男の言葉を聞いた少女は、暫く黙って地面を見つめていたが、ふいっと顔を上げて宣言する。
『チョコはあげません』
『…ん?』
『…理由が何であれ、あんなヒドい事を女の子に言ったんですから…ペナルティーです。私のチョコは、一年間、お預け!』
『……そうか』
『…でも、チョコ以外のものは、何か考えておきます……』
 視線を逸らしながらも頬を赤く染めている少女に、仁王が瞳を優しく揺らした。
 こういうところは似ているかもな。お前さん達……意地が強いところなど、そっくりじゃ。
『…でも、仁王さん…どうしてそんな事を教えてくれたんですか?』
『ん? ああ、単なる野次馬じゃよ。赤也は俺にとっても後輩じゃし……それにアイツは、下手したら真田以上に…』
『……?』
『…暴発すると、それこそ部員の数人が救急車の中で退部を宣言することになるからのう…』
(スゴイです、切原さん〜〜〜〜〜〜っ!!!)


(…ま、今年はお弁当で我慢してもらおうと思ってたけど…)
 思う桜乃の前では、さっきから切原がおかずをつまんで口に運んでは、大はしゃぎしている。
 既に十分前の覚悟など、記憶の彼方に放り投げてしまっているようだ。
(…何だかこれでも十分みたいだし…許してあげましょ)
 部活動の後の空腹も手伝い、切原の胃袋は次々と弁当の中身を呑み込んでゆく。
「すっげー美味いな! 竜崎って、菓子だけじゃなくて、こんなのも作れんのか?」
「はい、家庭科は得意ですよ」
「へぇ〜…俺にとっちゃ、ああいうのこそ魔法だけどな」
「それはちょっと大袈裟なんじゃ…普通に家事が出来るって程度ですよ?」
「ふーん…でもそういうの、俺は良いと思うぜ?」
「え…」
 聞き返した時には、切原は自分の発言の意味も深く考えず、またお弁当をぱくついている。
 かなりの量を作った筈なのだが、向こうは一向にスピードを緩める様子はない。
(…さらっと自覚なくそういう事を言うのは、ちょっとズルいです)
 何となく悔しくなって、桜乃は手を伸ばし、切原の袖をきゅいと掴んだ。
「え…?」
 そちらへと注意を向けた彼の瞳に、少女の儚い笑顔が映りこむ、
「…私がチョコをあげても、切原さんは、食べてくれませんか?」
「…っ」
 ぼろっと、食べかけの卵焼きが、見事に男の歯形を残したまま弁当箱の中へと落下する。
「あ…そりゃ…」
 どうしよう…今、こいつの下から目線に、ガラにもなくめちゃくちゃトキめいた…!!
 但し、頬にご飯粒をつけたままトキめいているのは、傍から見たらそれなりにマヌケだったが。
「う…あ、いや…だからその〜」
 ナニがだからなのか、と自分で突っ込みを入れながら、切原は視線を逸らしつつ言葉を探す。
 元々チョコが嫌いってワケじゃなくて、そもそもそれを断っていたのは、お前に対して義理っつーか…まぁ、そういうのを立てたかったんだけど…
 けど、言葉にして言うとなると、いきなり難しくなるな…
「ア…アンタのなら、食ってやる…っつーか、アンタのしか、欲しくねぇ…俺は、その…」
「……」
 夕方の、暗闇に近い世界でも分かるほどに頬を染めた男の言葉に、桜乃は笑い、そして、頬のご飯粒を見つけてぷっと吹き出す。
「な、何だよ!? 俺、何かヘンな事言ったか!?」
「う、ううん、言ってません…切原さん、もっとゆっくり食べていいのに」
「はぁ!?」
 ワケ分かんねぇ、と言った切原の頬に、桜乃はそっと手を触れた。
「?」
 そしてそのまま自身の唇を近づけ、ちゅ、と付いていたご飯粒を食べる。
 切原、硬直。
「う……いぃぃっ!!!???」
「…ごちそうさまでした」
 くすくすと照れながら笑う桜乃に、完全に度肝を抜かれた切原が呆然とする。
「なっ……おまっ…!!」
 今のって…やっぱ、そうだよなぁ…!?
「バ…バカ、お前…いきなりそういうのは…!」
「…嫌でしたか?」
「い、いや…嫌っつーかその…嬉しいっつか…ああもうっ!!」

 がばっ!!

「っ…!」
 言葉を紡ぐ回路が、本当にぶっ壊れたかと思った。
 何とか脳は動いているみたいだけど、心にそれが付いて行かない。
 言葉が出ないから、身体を動かすしかない…そう思ったら、夢中でコイツを抱いていた。
 ぼんやりとする意識の中で、抱き締める柔らかな身体だけが、今の自分が唯一感じられる現実だった。
「切原さん…!?」
 沸騰しそうな脳には、もう、物事の順番というものを考える余裕すらなかった。
「悪い…俺…俺さ、アンタのコト、やっぱり…どうにかなっちまいそうなぐらい、好きだ」
「!!」
「すげぇ好き…チョコも弁当も貰わなくていい…何も要らない、アンタがいてくれるんなら」
「ちょ…切原さん…!?」
 動こうと思っても、身体がびくともしない…男の人って、こんなに力が強いの!?
 でも…待って…これって……
「……」
 そ、と抱き返した相手の身体が、小刻みに震えている…
 こんなに強い力で自分を拘束しているくせに、こんなに心細そうに、こんなに怯えているように…
(…恐いの…?)
 拒絶されるかもしれないことが…恐いの?
 受け入れられないかもしれないことが…恐いの?
「…竜崎…っ」
「…切原さん…」
 ぽん…と切原の背中に手を置いて、そのままぽんぽんと優しくあやすように叩くと、桜乃はにこりと笑って囁いた。
「大丈夫ですよ…私も大好き…ちゃんと、好きですから」
「っ…本当に…?」
「はい…だから一緒にいます。チョコだってお弁当だって、切原さんが望むなら作ってあげますから」
「…それより、アンタが傍にいてくれる方がいい」
「はい…じゃあ、そうします」
 やはり、我侭なやんちゃ坊主からは抜けられないらしい男の要求に、桜乃が苦笑しながら頷くと、向こうは安心したように大きな息を一つつき、ぐっと腕に力を込めた。
「…俺…何か、すっげぇ幸せ…」
「あはは…私もですよ」
 自分で潰したと思っていたバレンタインのチャンスは無事に十二分に活かされ、手の中には一番欲しかった存在がいてくれる…
 暖かく柔らかな少女を大事そうに抱き締めながら、切原は心で呼びかけた。

 バレンタインの神様、聞いてる?
 こいつがくれるって言うなら貰うけど…やっぱり俺はチョコよりコイツが欲しいんだ…
 だから来年も、その先も、ずっとずっと…
 俺の隣に、コイツがいるようにしてくれよ……






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