その愛の代償に
出会うべきではなかったのだ。
手を出してはいけない、耐えなければいけないと思っていたのに、ほんの些細な好奇心で日常の均衡は一気に崩れてしまう。
後で後悔しても、もう後戻りは出来ないと、分かっていた筈なのに……
「だって安かったんだもん!! 三万のところが二万五千って、その日だけの特価だったんだし〜〜〜〜!!」
「分かった分かった」
部室の机に自分のラケットを置いて、突っ伏した切原の叫びに、先輩である仁王はやけに冷めた声で適当な相槌を打っていた。
「うるさいぞ、また赤也か」
そこに新たにドアを開けて副部長である真田が入室してくる。
当然、テニスウェアに着替えて部活動に入るために部室に来たのだが、今日は授業の関係で少し出遅れてしまった様だ。
今度は後輩が何を騒いでいるのかと思った彼は、ラケットを前にして頭を伏せている切原の姿を見て、眉をひそめる。
騒いでいたという割には、何となく力の入っていない格好だ。
「…どうしたんだ」
「新しいラケットを買ったんじゃと」
「ラケット?」
やれやれと肩を竦めて答える仁王から、再び真田が切原へと視線を移す。
「で、買ったばかりのラケットに浮かれてい…」
「……」
「…るワケでもなさそうだな」
その瀕死の猫の様な格好を見る限りでは…
「有り金全部はたいたんじゃと…小遣いの前借分も含めてな」
確かに中学生にとっては万単位の買い物は、清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟が必要だろう。
テニスを嗜むにはアイテムにも或る程度のこだわりは欲しいところだ。
全てがアイテムに拠るとは思わない、あくまでも本人の能力に重きが置かれることは認める。
しかし、上に行けば行く程に、道具やウェアなどの小さな違いが大きな差を生むことになるのだ。
「仕方なかろう」
ラケットを見定め、それが良い物だと確認した上で買い求めたのなら、何も言う事はない筈だ。
それだけの金額を失う代わりに、長く付き合う『相棒』を得たのだと思えばいい。
真田は尤もな言葉でそう述べたのだが…
「…タイミングがマズかったのう」
「タイミング?」
仁王は首を振りつつ、親指でびしっと切原を指差して断罪した。
「特価につられて、ホワイトデーの予算含めて全財産つぎ込みおった」
「…現在の所持金、五十六円…ッス」
「何処かのホームレスの方がまだ持っていそうだな」
瀕死の後輩の呟きに、真田も渋い顔。
しかし、ホワイトデーまで残すところ、あと三日程度しかない…
「…切原は確か、今年のバレンタインデーは」
「さしてもらっとらんよ、本人がそう宣言しとったからの…しかし、それでも押し付けられるようにもらったモンが?」
「…二十五個…」
「一人に三百円としても一万円近くは必要になるんじゃな」
「遠足のオヤツが基準なのか? ホワイトデーのプレゼントは」
「や、気分」
その単位がどうして出てきたのか、副部長は今ひとつよく分かっていない様だが、言った仁王にも深い理由はない。
「…無いものは無いものとして対処するしかあるまい、義理であれば話して後日渡す手もある」
『渡さない』という訳にはいかないかもしれないが、相手も話せば分かってくれる、という見方をする真田は、基本的に「性善説」側に立つ人間なのかもしれない。
「…………」
副部長の言葉を前向きに考えているのか、それとも他に何か思うところがあるのか、切原は答えを返さない。
その様子を見て、仁王はふーんと薄い笑みを浮かべて彼の心中を当ててみせた。
「義理はどうでもええが、本命に何もやれんのが痛いと見た」
ぐっさ―――――っ!!
図星の矢が、相手の胸に深く深く突き刺さる…この場合、彼がダーツが得意なのは関係ないだろう。
「まぁ、義理の奴らに何もやらんでも自分が嫌われるだけじゃが、本命にやらんかったら速効で『フラれる』選択肢があるからのう」
「よく分からんが、本命だと話が通じないのか?」
流石にテニス以外…しかも恋愛畑になると、真田の理解力は一気に下降し、更に彼の表情も明らかに戸惑いの様相が深くなる。
経験があればそれなりのアドバイスも出来るというものだが、残念ながら彼もそちら方面は全くの素人だった。
「真田も女心が分かっとらん。本命だからこそ、特別扱いされたいってもんじゃよ。他の女には何もやらんでも、自分だけにはしっかりとプレゼントを準備しておいてほしい…殆どの女はそう思うんじゃないか」
「む…経験はないが…まぁ、その気持ちは…分からんでもない、が…」
「じゃろ? 男でも、好きな子から特別に想われたら嬉しいじゃろうが。同じじゃよ」
「う…」
切原が唸る…が、どうやら、それに対して異論はなさそうだ。
どちらかと言うと、それに異論がない立場にも関わらず準備を怠ってしまったという後ろめたさが、彼を苦しめているらしい。
「プレゼントがないばかりか、その理由がテニスラケット一本ともなったら、自分よりラケットを取られたと思って相手が怒っても何ら不思議はないじゃろ…図星かの、赤也」
「だって稀に見る出来の良さだったんスよ!! ウェイトもグリップもフェイスも、もう完全に俺好みだったし、これ逃したらもー今度はいつお目にかかれるか分からなかったんス!!」
テニスプレーヤーとしては非常に見上げた台詞だったかもしれないが、一般人から見たら結構な変態である。
「じゃあ諦めて、毎日そのラケット抱いて寝ることじゃな。失恋の痛みでも慰めてもらいんしゃい」
「もう確定なんスかそれって〜〜〜〜!!!」
ぎゃ〜〜〜!!と悲鳴を上げた切原が仁王に縋りつく。
「仁王先輩っ! そのヤクザよりあこぎな詐欺で何とか相手を誤魔化せる方法教えて下さいっ!!」
「うーん、褒めとるつもりじゃろうが完全に裏目じゃのう。断る」
「そこを何とか〜〜〜!!!」
「…いいから外に出ろ、お前ら」
本命の心が懸かっているとなれば切原も必死であるが、ストイックな副部長は有無を言わさず彼を部室の外へとラケットごと追い出してしまった。
「ありゃ、気の毒に」
「お前な…自分から断っておいて何を言うか」
「…やっぱり分かっとらんの、真田」
「うん?」
追い出されるのは御免とばかりに自分でドアへと歩く詐欺師は、勝ち誇った様に笑う。
「誤魔化す必要のある女じゃったら教えたかもしれんよ? けど、そんな必要ない相手にやっても骨折り損じゃ…アイツは自分がどれだけイイ女を捕まえたんかまだ分かっとらん。全く、恋は盲目じゃの」
「……知らん」
無知で悪かったな、とばかりに視線を逸らす相手に、仁王は楽しそうにもう一度笑った……
「お年玉も全部つぎ込んだし、前借りも難しいし、う〜〜、マジでヤバイ…どうしよ」
何とかこの危機を乗り切らないと…と悩んでいる切原が、コートの脇を力なく歩いている時だった。
「何だか元気ありませんね」
「おわ!!」
いきなり背後から話しかけられた切原は、思い切り良く驚いて問題のラケットを抱えたまま飛び上がる。
「…・え? りゅう、ざき…?」
「こんにちはー」
振り返ると、おさげの少女が優しい笑顔を浮かべて立っていた。
制服が立海のものではない幼さの残る彼女は、切原に親しみを込めた瞳を向けながら、ゆっくりと彼に近づいた。
「見学に来ました、どうしたんですか? 何だか肩を落として、いつもの切原さんらしくないです」
「う、あ…べ、別に何でもねーけど」
「はぁ…そうですか?」
実は大有りで、しかも理由が目の前の少女だなどとはとても言えない。
実は、切原の本命である相手はこの青学の一年生、竜崎桜乃であった。
普段、結構我侭なところがあり、不機嫌になるとなかなか扱いが難しくなる切原も、桜乃の前では結構大人しく素直な面を見せる。
それは、切原が桜乃にぞっこんに惚れ込んでいるという何よりの証だった。
(なのに俺ってば、この時期に思い切り散財しちまったしな〜〜)
本人を目の前にして、再び自己嫌悪に陥っている相手に、桜乃はじーっと不思議そうな視線を向け、それからラケットへとそれを移した。
「…あれ? 新しいラケットですね?」
ぎっくーっ!!!
「あ、ああ、まぁ! そ、そうだけど…!」
落ち着け〜〜〜っ!と心で念じるが、見た目、全然落ち着いていない。
あわあわしている相手の持つラケットに目をやりつつ、桜乃はうーんと考え込んでいる。
「私はまだラケットの使い分けなんて高度なコト、全然出来ませんけど…切原さんはするんですか?」
「ま、あ…たまにな」
「やっぱりそうですか…でもそれでも何本も持つって大変ですよね。ラケットって凄く高いですし…」
「そ、そうだな」
よりによってピンポイントな話題を振られてしまい、切原が言葉を濁していたところにジャッカルが通りかかって二人に気付いた。
「おう、竜崎じゃないか」
「あ、桑原さんお久し振りですー」
「切原のお守りしてくれてるのか、悪いなぁ」
彼女がいると、その分自分の負担が大幅に減るのが嬉しいのか、ジャッカルはにこにこと非常に嬉しそうだ。
当然、好きな女子の前で子供扱いされた切原は嬉しくない。
「ちょっと先輩? そういう子供扱いはやめて下さいってば」
むっとした切原に、先輩の男は何だよ、と笑ったままで答える。
「自分の小遣いも上手く管理出来ない奴に言われたくないぞ? 仁王から聞いたが、お前ホワイトデーの予算もつぎ込んでラケット買ったって…」
「うわ――――――――――っ!!!!」
ぜっっっっったいにばらしたくなかった事実をあっさりと桜乃の前で暴露され、切原がパニックに陥る。
「べっ、別にーいーじゃないッスか!! 義理なんて最初から断ってたんだし、やんなくたって大したコトじゃないッスよ!! たかだか二十五人…」
「あれ? 義理だけの話か? 俺はてっきりほんめ……」
「先輩、覚悟―――――――――っ!!!!」
もう殺るしかないっ!!とばかりに、切原がジャッカルに襲い掛かり、たちまち二人の追いかけっこが始まった。
「わ―――――っ!! 何だ何だっ!?」
自分が禁忌を犯したことにも気付いていない先輩だったが、後輩の形相を見たら取り敢えず今は逃げるが吉と判断し、持ち前の身体能力を如何なく発揮し、逃げまくる。
そんな二人の様子を遠巻きに眺めていた三強も、何をやっているのかと呆れ顔だった。
「…強制している訳でもないのにマラソンとは、また珍しい暇の潰し方だな…」
「あやつら…ジャッカルも一緒になって何をしとるか…」
「いいじゃないか。そんなに走りたいんなら、たっぷり追加して走らせてあげよう」
幸村は笑いながらもペナルティーの追加を決定した様だ。
桜乃が来ても、どうやらジャッカルの不運はなかなかにしぶとい様である。
「…義理にはあげない…ですか」
ペナルティーが決定したことも知らない切原を遠く眺めながら、桜乃は少し深刻な顔をしてそう呟いていた……
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