三月十三日…ホワイトデー前日
(いよいよヤバい…あの日は結局、俺からも何も言い出せなかったし…もしかしたらアイツ、何か気付いたかもしれないし…)
 悪あがきで帰宅後の家事手伝いをしてみたものの、それでも数百円程度の稼ぎだ。
 これでは義理程度、いや、それ以下の贈り物しか出来そうにもない……
(……やっぱ、フラレ男確定かな…)
 すげえいい子だから、手放したくないんだけどな…・でも、やっぱり俺がそんな事言える資格もないよな…滅茶苦茶、未練残りそうだけど…
 部活動が始まる前に、部室内で暗い顔で思案に耽る後輩を呆れ顔で眺めていた仁王が、付き合っておれんとばかりに部室の外へ出て行く。
「…お」
 出てすぐに、彼は部室前に来ていた客人に会い、やれやれと笑った。
「よう、そろそろ来る頃と思っとったよ。すまんが、俺はもう辛気臭い顔を見るのはうんざりじゃ、後はお前さんに任せた」
「?」
 そんなやり取りが外で行われているとも知らない切原は、問題の発端となったラケットを複雑な心境で握り締め、仁王に続いてドアへと向かう…と、
 がちゃ…
「え?」
 開ける前に向こうからドアは開かれ、その向こうから、数秒前まで考えていた想い人が顔を覗かせた。
「竜崎!?」
「あ、切原さん」
 相手に対し少なからず後ろめたい気持ちを持つ切原がどんな顔をすべきかと悩んでいる間に、相手は何も知らない様子で部室の中へと数歩進み入る。
「……何だ、それ」
 相手のいつもと違う様子に、切原が思わず尋ねた。
 普段は青学の指定の鞄を片手にここに来る相手が、今日に限っては大きな紙袋を持参していたのだ。
 中には小さな箱が結構な数で入っているのが分かったが、桜乃はそれに答えるように袋を切原の足元へと置いた。
「切原さんにですよ、よいしょっと…」
「へっ? 俺…?」
 不思議そうに聞き返す彼に、桜乃はにこっと笑いながら彼を見上げて頷いた。
「ホワイトデーはちゃんとお返ししないといけませんよ。これクッキーです、二十五個ありますから、チョコくれた方にお返しして下さいね?」
「は!?」
 一瞬、相手が何を言っているのか理解出来ず、男はきょとんとする。
 お前にあげられないホワイトデーの贈り物が…何でお前から俺に…?
「ばっ…! だ、だって、義理だぜ!? 俺が頼んだワケでもないのにくれた奴らに…」
「そういう言い方はよくないですよー、気に掛けてもらえるのは有難いことなんですから。モテる男の人のこれもお仕事です。ちゃんとあげて下さいね」
「……」
 結構美味しく焼けたんですよーと、自分の事のように喜びながら説明する少女を、切原はただ見つめるしかなかった。
 何かを言うべきなのかもしれないが、何も言えなかった。
 貰った自分自身より、コイツの方がしっかりしてる…言ってることも正論だし。
(あー…何か、もう駄目じゃん、俺)
 こいつ、やっぱり滅茶苦茶イイ女じゃんか…
 好きなのは確かだし、守ってやりたいって思うのも確かだけどさ、コイツよりラケット選んだってワケでもなかったけど…そう思われてもしょうがないよな……
 ふられたら、女々しいけど、少しは落ち込むかもしれないけど…こんなにイイ女に振られるのも、男冥利に尽きるってヤツかも。
「……わりぃ、竜崎」
「はい?」
「…こんなに良くしてもらって…悪いんだけどさ…俺、アンタにホワイトデーの贈り物、ちょっと出来そうにないんだよ…あー、ほら、ジャッカル先輩が言ってたろ? ラケットでさ、殆ど全財産使っちまって…」
「……」
「別に、アンタを軽く見てるワケじゃねぇけど…ホント、ごめん。どう詫びていいか、分かんねぇよ…」
「……ふふ」
「?」
 どうなじられるかと思っていたら、桜乃は予想外にも楽しそうに笑っていた。
「…竜崎?」
「分かってますよ、切原さん。そのぐらいお見通し」
「へっ?」
「切原さんって、テニスが絡むと後先見えなくなるタイプですもん。そうじゃないかなとは思っていました、ビンゴですね」
「……」
 そんなに分かりやすいのか? 俺って…
 けど、てっきりふられかねないと思っていたけど、こんなにあっさりと流されるって…それでいいのか?
「怒ってねぇの?」
「何かを貰うって約束をしていた訳じゃないですし…理由も分かっているし、私は構いませんよ? 新しいラケットを使って切原さんがどんなプレーを見せてくれるのか、そっちの方が楽しみです」
「……」
 あまりにも寛容な意見に、切原がそっぽを向きながら赤くなる。
 やっべぇ…んなコト言われたら、今日の練習、歯止めが効かなくなりそう…
 てか、練習より、コイツが好きな気持ちの方に歯止めがかからなくなりそうで…マズイ。
「切原さん?」
「ん…え? 何?」
「明日はちゃんと、チョコくれた人にお返ししないとですよ? 仏頂面じゃなくて、え・が・お・で!」
「うっ…」
 だって、お前じゃないから笑わなくたって…とは言えなかった。
 ここまでされたら、もう彼女に降伏して従うしかないだろう。
「わ…分かったよ、渡す、ちゃんと渡すって」
「はい、お願いします」
「〜〜〜〜〜」
 にこ、と安心した様に笑う桜乃の笑顔が眩しすぎて、切原は暫く彼女をまともに見ることが出来なかった……


 部活動が終了した後、切原は桜乃を誘って一緒に帰り道を歩いていた。
 彼女が持ってきたクッキーは、どうせ明日学校内で渡すので今日は部室の中に保管ということになり、手荷物の中には入っていない。
「…な、なぁ竜崎」
「はい? 何ですか?」
「…ちょっと時間いいか? 寄ってかね?」
「え?」
 切原が道の途中で立ち止まって指差したのは、全国的に展開している有名なカフェスポットだった。
 色々な飲み物が飲めてちょっとした茶菓子も置いてある、少し大人びた雰囲気の場所だ。
「私は別に構いませんけど…何時間も居る訳でなければ」
「じゃあ、寄ろうぜ。丁度、席も空いてるみたいだし」
「はい、いいですよ?」
 切原がこういう場所に帰りに誘うのは珍しく、桜乃はそのサプライズを結構楽しんでいる様子で彼の後に従って入店した。
 店のカウンター席に座って、切原が桜乃に尋ねる。
「何飲みたい? 買ってきてやるからさ」
「あ、じゃあ…あったかいココア、お願いします」
「分かった」
 荷物だけ置くと、彼はさっさと注文のカウンターへと並び、桜乃の見ている前で注文・受け取りと済ませていく。
(…あれ?)
 ある事に気付いて少女は首を傾げた。
(…飲み物、一個だけ…?)
 自分の分だとしたら…切原さんの分は…?」
 不思議に思っている間に、相手はさっさとその紙製のカップを手に、席へと戻ると、ぞんざいに桜乃の方へと差し出した。
「ほい、ココア。奢りな。熱いから気をつけて飲めよ」
「あ、あの…有難うございます。でも、あの…切原さんの分は…?」
「あー…いや…俺は、いいんだ、別に」
「え…?」
 おかしい…ここに誘ったのは彼なのに、何も飲もうとしないなんて…
「あ、あのっ! もしかして、急にお腹が痛くなったとかですか!? び、病院にっ!!」
 普段は誰よりも真っ先に食欲を優先する彼が、ただ事ではないと判断して桜乃は慌てた。
 こんな場所で悠長にココアなんて飲んでいる場合ではないと、相手を気遣ったのだが……
「あああ、分かった!! 説明するっ! これ、早いけどホワイトデーのプレゼント!」
 バツが悪そうにそう言い切ると、ちぇっと舌打ちをしつつ切原が頭を掻く。
「何とか家の手伝いとかしたんだけど、やっぱそんないきなり稼ぐのは無理でさ…これが今の俺の精一杯なんだよ…悪いな、こんなモンでさ」
「切原さん…」
「……」
 じっと見つめてくる桜乃の視線が恥ずかしいやらこそばゆいやらで、切原は肘をつき、手で顔を隠しつつ赤面する。
 そして、桜乃もまたココアに込められた相手の真心に触れ、頬を赤らめながらココアを見つめた。
「…あの、有難うございます。頂きますね」
「お、おう!」
 受け取ってもらえた喜びに、ようやく切原が元の元気な笑顔を見せた。
「くす…自分の分がないのに、凄くうれしそうですよ?」
「そりゃあ…アンタに受け取ってもらえたら嬉しいさ。アンタだって、俺が他の女にやるクッキーを自分で作ってきたじゃんか」
 そこまで言うと、切原は少しだけ不安の色を宿した顔で尋ねた。
 聞こうと思っていながらも、なかなか部活中には聞けなかったことだ。
「…アンタは…その、不安じゃねぇの? もし、俺がホワイトデーに他の女にお返しやって、そこから相手をこっそり好きになって付き合ったらって…思わねぇの?」
「切原さんは、そんな事します?」
「いや、しねぇけど」
「じゃあいいんじゃないですか?」
「……」
 さらりと返されて、尋ねた本人が無言になる。
 確かに…そういう軽い、浮気なコトは自分は絶対にやらないけど…そんなにあっさり?
「…俺、自分で言うのも何だけどさ…結構人気あるんだけど」
「知ってますよ、モテモテですよね」
「…二股かけられるとかさ、不安じゃね?」
「信用してますから」
 にこりと微笑んだ桜乃は、こくんとココアを少し飲んでから、照れた様な笑みを浮かべた。
「切原さんはそんな事しないって信じてますから…でもあんまり人気があると、ちょっとだけ妬けちゃいますけどね」
「…っ!」
 桜乃の見せた可愛くも艶っぽい表情にどきっとした切原に、彼女がそっとココアを差し出した。
「美味しいですよ、これ。切原さんも飲みませんか? わけっこしましょう」
「え…!」
 でも、それって……間接キスになるんじゃ…まるでこいび…
(……いいんじゃねーか、恋人で)
 なに動揺してんだ俺…と思いつつも、切原は躊躇いつつコップに手を伸ばす。
「い、いいのか?」
「切原さんならいいですよ。甘くて美味しいです」
「……じゃあ」
 コップを傾けて唇にココアが触れると、それだけなのに身体がかっと熱くなった。
 口の中に流れ込む熱い液体は、確かにココアの甘い香りと味がしたが、切原はそれ以上に甘い隠し味の方が気になっていた。
「…美味しいでしょ?」
「……まぁ、な」
 アンタの唇に触れただけなのに…余計に甘く感じちまうな…嫌いじゃねーけど。
「…変わってるよな、アンタも」
「え?」
「ん…ラケットでプレゼントふいにされて、その上他の女へのクッキー焼いてくるってさ…人がいいにも程があるって」
 切原の指摘に、桜乃は分からないという様子で眉を軽くひそめた。
「そんな事もないと思いますけど…やっぱり相手が切原さんだからですよ」
「え?」
「んー…確かにプレゼント貰えたら嬉しかったかもしれませんけど…私は、テニスに夢中になっている切原さんを見るのも凄く好きですから。だから、これからもテニスするのに遠慮なんかしないで下さいね? 私…分かってるつもりです」
「……」
 もしかして、コイツ、俺の考えていた以上にイイ女…!?
 自分の我侭より、男の趣味とか生き方を尊重してくれる女性って、そうそういないと思うけど!?
「…あ、でも、あんまり暴走しないで下さいね!? あれ見ると本当に心配なんです、切原さんの身体が…」
「わ、分かった分かった! 俺なりに気をつけるって…俺だってああいう自分、アンタに見られたくないしさ…」
 その我侭は確かに道理だと思いつつ、切原はそれからも桜乃とココアを美味しく半分こして、楽しい一時を過ごした。


 ココアを飲み終わった後で外に出た二人は、駅に着いたところで暫しの別れの時を迎えていた。
「じゃあ、明日は頑張って配って下さいね? 早めのホワイトデープレゼント、有難うございました」
「…ん」
 笑顔で挨拶をする桜乃に対し、切原は何となく浮かない顔で視線を逸らしていたが、ふいっとそれを相手に合わせると同時に言った。
「…やっぱ足りなかったな、あのココア。味わい足りねー」
「え…?」
「もうちょっと味わいたかった」
「も、もしかして、私、飲みすぎちゃいました?」
「飲み足りないんじゃなくて、味わい足りないってコト…あー、やっぱダメ、我慢できねー」
 切原の分まで飲んでしまっていたのかと心配した桜乃が、ぐいっと腕を強く引かれ、彼の胸の中に飛び込んでいく。
「わ…っ!」
「…俺の『最高』のお宝やるから、もっかいくれねぇ?」
「え…?」
 またあのお店に戻るの…?と思いつつ桜乃が顔を上げる…と、

 ちゅ…っ

「ん…っ!」
 腰に手を回され、もう片手で頭を支えられ、完全に動きを封じられた桜乃が唇を塞がれた。
 柔らかで暖かなものが唇に触れる…
 それが切原の唇だと知った瞬間、桜乃の頭の中にまるで溶岩が注がれた様に思考が静止した。
(切原さん…っ!?)
 嫌悪している訳ではないがあまりに突然のことだったので、少女は思わずもがいてしまったが、やはり相手の体力には敵わずびくともしない。
 そうしている内に、抗う意志も瞬く間に奪われてゆく。
 嫌な相手ならその唇を噛んで傷つけてでも拒んだだろう、しかし、相手が切原だという事実が、彼女から抵抗という選択肢を奪っていったのだ。
(…強い力……切原さんが、こんな近くに…)
 ぼんやりと考えていた桜乃の唇がほんの少しだけ自由になり、熱いため息が漏れる。
「は…ぁっ…」
 男であれば、否応なく本能を揺さぶられてしまう艶やかな声…
 それを聞いた切原は、抑えかけていた欲求が再び暴れ出すのを止められず、尚も桜乃の唇を求めた。
「なぁ…もっと」
 もっと、味わいたい…ココアと一緒じゃなくて、お前の唇そのものを…
「あ…っ」
 再び唇を奪われ、最早立つことも困難になってしまう程に力が抜けてしまった桜乃は、切原の腕に縋り、ぎゅっと力を込めた。
(うわ……すげぇ可愛い)
 キスしただけで、こんなに震えて縋り付いて来て……俺までイカれそうになる…
 やっぱコイツは俺だけのものにしたい…誰にも渡さない…!
「ふ…あ…っ」
 唇を解放され、くったりと切原の胸に身を預ける桜乃は、耳元で囁く切原の言葉をぼんやりと聞いた。
「美味いな…アンタになら俺の最高の宝、くれてやっても全然惜しかねぇよ」
「たから…もの?」
 ぼーっとした頭で何とか聞き返すと、切原はへへっと笑いながら答える。
「…俺の愛―」
「!!」
「そんぐらいやらないと、アンタと釣り合わないだろ? だからやる……心配してもしなくても、他の女になんか欠片もやらねーよ、アンタだけのもんだから…だから、さ…」
 最後に、こっそりと悪戯っぽく囁いた。

「アンタは、俺だけのものになれよな」






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