桜の魔法を君に


「先輩達がいなくなってから、何だかここも随分広くなったなー」
 春の訪れを感じるようになった四月のある日、立海の男子テニス部部室で、そんな暢気な声が聞こえていた。
 若者の声に続いて聞こえてきたのは、同年代と思われる女性のそれ。
「切原さんも責任重大ですよね…まぁ、部長候補っていうのは結構以前から言われてましたけど、やっぱりなってみると大変じゃないです?」
「そりゃもう大変だって! あの幸村部長の後なんて、正直すんげぇストレスなんだからさ。あーもう戻ってきてくんねーかなー…」
「またそんな無茶を…」
 そんな会話を交わしている男女は、今は二人しかいないその部室の中で、ゆっくりとお茶を飲んで一息ついているところだった。
 別に部活動をさぼっている訳ではない…と言うよりも、今日の活動は全て終了しており、後はもう帰るだけ、という状況なのだ。
 しかし、ようやく部長としての活動内容に慣れてきたとはいえ、まだまだ気疲れは小さくない。
 そんな彼が今日の活動を終えたタイミングを見計らい、一緒に話している少女が彼を労う為にお茶を煎れてくれたのだった。
 その少女は、彼と同じ立海の生徒ではなく、同じ関東圏内の青学の二年生、竜崎桜乃。
 祖母が青学のテニス部顧問という縁もあり、結構以前からここのレギュラー達とは懇意の仲である彼女は、三年生だった若者達が高校へと進学を果たした後も、ここを訪れて部長に就任した切原の許へと通っていた。
 彼女も中学生になってから若干テニスを嗜んでおり、彼らの練習を見学することは、大いに参考になっていたのだ。
 そして、若者達との付き合いは桜乃にとっていつしか何よりも代え難い、貴重なひとときになっていた。
 それはおそらく、若者達にとっても同じだっただろう…特にこの切原という若者にとっては。
「あー、落ち着く…アンタの煎れてくれるお茶ってさ、何か他のと違うんだよな」
「そうですか? 同じですよ」
 ずずーっと自前のマグカップからお茶を啜りつつそう評する切原に、桜乃が苦笑して、彼女もまた自前のカップからお茶をくぴっと一口含んだ。
 棚の中には、桜乃がここに足繁く通いだした頃から、彼女の分のマグカップも収納されるようになっていた。
『君の分のカップも持っておいで。そうしたら、俺達と一緒にお茶が飲めるから』
 前部長であった幸村がそう取りなしてくれたお陰で、桜乃は以降、ここで彼らと楽しいお茶の時間を幾度も過ごしたのだ。
 あの提案には、今も切原は感謝している。
 あれがあってこそ、彼女は今もこうして美味しいお茶を煎れてくれるのだから。
「そうかぁ?」
「お湯の温度ぐらいは気を遣いますけど…そんなに大したことはしていませんよ」
「温度? 茶なんて熱湯入れて注いで終わりだろ?」
「……」
 些細な切原の発言で、桜乃の頭のどこかのスイッチが入った。
「…切原さん、お茶には種類ごとに最適なお湯の温度というものがありましてですね?」
「はい…?」
 そしてそれから訥々と、桜乃のお茶講座は三十分近くに渡って及んだのである。
「……以上です」
(やっ…やっと終わった…・!!)
 勉強とはまた違うものだが、長く机に拘束されるコトは切原にとっては苦痛なのだった…相手が桜乃でなければ机を蹴り飛ばして逃げていただろう。
 我慢したコトも、切原にとっては少女への精一杯の愛情表現。
「…あら、もうこんな時間ですか…ちょっと長く話し過ぎましたね」
(あれで「ちょっと」!?)
 思いつつも、ようやく解放されるかと安堵しながら、切原は勢いよく立ち上がった。
「んじゃそろそろ帰る準備…」
 がたん!
 いつもより威勢が良すぎたせいで、目の前の机が激しく振動する。
 そして、その揺れが収まる前に…

 がしゃんっ!!

「っ!」
「あ…っ」
 机の端に置かれていた桜乃のマグカップが、振動を受けて落下し、固い床のせいで粉々に砕けてしまった。
 切原のカップは、机のほぼ中央に置かれていたお陰で、被害には遭わずには済んだ。
「うわっ! しまった、ワリイッ!!」
 こいつのマグカップ、割っちまった!
 もしかしたら、思い入れのある大事なものだったかもしれないのに…
「あ、切原さん…」
 立ち上がってからそのまま、切原は割れたカップの欠片の側に座り込んで、それらを拾おうと手を伸ばした。
 中身は殆ど残っていなかったが、それでも多少、床を濡らしてしまっている。
「あーくそ、しくっちまった…」
 自分を責める言葉をこぼした切原に、桜乃の遠慮がちな声が聞こえてきた。
「だ、だめです、切原さん…」
「え…?」
 ぎゅ…
(……へっ?)
 温かで柔らかな感触が自分の手を包み込む…
 それが桜乃の手であると知った切原は、同時に彼女が同じ様に自分のすぐ傍に座り込んでいる事実にも気づいてしまう。
 彼女が…自分をのぞき込んでいる。
(えええっ!?)
「素手でさわっちゃダメですよ、怪我しちゃいますから…」
「え、あ…け、けどさっ…」
 食い下がるのに意味はない。
 ただ、驚いて…間近で見た少女の顔が、思っていた以上に可愛かったのに驚いて…気の利いた返事が出来なかった。
「べ、別に何てコト…」
「ダメです、切ったりしたら大変ですよ…ラケットもしっかり握れなくなるかもしれないんですから、ね?」
「う…わ、分かったよ」
 分かったから…俺が赤くなっていることには、気がついたりするなよな、お前…
 切原が手を引いた事で、桜乃も握っていた手を離して、すっくと立ち上がった。
「お掃除道具の中に、軍手があったら使わせて下さい。あ、手袋とかでもいいですけど…」
「あ、ああ…多分、あったと思う。ちょっと待ってろ」
 そして、切原は用具が入ったロッカーから軍手を二組取り出し、桜乃と一緒に片づけを始めた。
「悪かったな、竜崎。アンタのカップ…」
「いいんですよ、気にしないで下さい」
 桜乃はやはり怒ることもなく、いつもの笑顔を浮かべて許してくれたが、割ってしまった切原本人はそれで気持ちが落ち着く筈もない。
「けど……あ、そうだ、あのさ竜崎」
「はい?」
「今日、これからちょっと時間ある? 丁度、こういうの売ってる店、近くに知ってるからさ、行ってみね? 代わりの奴、買って返す」
「え、でも本当に…」
 遠慮しようとする少女に、切原は更に頼み込んだ。
「アンタはいいかもしれないけど、こういうのって後々まで気になってさ…俺の為にもここは一つ、けじめ付けさせてくれよ」
 故意ではなかったとは言え、相手の物品を壊したままというのは気持ちが悪い。
 それにここに桜乃のマグカップがなくなってしまったら、その存在が希薄なものになってしまいそうなことが、若者は嫌だった。
 全く同じものを入手することは困難かもしれないが、新しい代用品を買うことで自分への評価も多少は戻るだろうし、何より…
(これを口実に、一緒にコート以外の場所にいられるもんな)
 いつもテニスの見学に来ている桜乃だから、当然、出会う場所もコートかこの部室。
 もう少しだけ、前進したいと思っていた切原には塞翁が馬、のアクシデントだったのだ。
「そこまで言われたら…仕方ありませんね」
 彼自身の為になる、と言われてしまったら、かえって断る方が気の毒に思えてしまう。
 桜乃は、心苦しいと思いつつも、相手の必死さに押されて結局首を縦に振った。
「いいですよ、今日は特に用事ありませんから」
 行きましょう、と笑ってくれた少女に、切原は心の中でガッツポーズをとっていた。


 割れたマグカップを片づけ、部室の戸締まりをして、切原と桜乃はいつもとは少し違う道を共に歩き、目的の店に到着していた。
 店の窓越しに中の様子を窺うと、入り口に比して結構間取りは大きい様だ。
 ウッディな雰囲気の中に、様々な雑貨が置かれている。
 食器や、ちょっとしたキッチン用品などの専門店の様だ。
 適度なスペースを保ちながら置かれているお陰か、雑多な印象はなく、店のセンスの良さが伺えた。
「お洒落な店ですね」
「俺もまだ入った事はねんだけど、外から見る限りでは雰囲気いいし、お客さんも多いみたいだからさ。アンタが好きそうだな…・って」
「はい、好きです、こういうお店」
 どうやら少女のお気に召した様で、切原はほっと胸をなで下ろした。
 ここで最初からつまずいたら、話にならない。
「そ、そか、良かった。んじゃ、入ろうぜ?」
「はい」
 多少粗雑ではあったものの、それでも精一杯のエスコートをしながら、切原は桜乃と一緒に店のドアをくぐった。
 りん、と小さなドアベルが鳴り、少し遅れて「いらっしゃいませ」という店員の声が聞こえた。
 中には、女性客が二人ほど…後は店員さんらしきエプロンをつけた女性が一人。
 店長と呼ぶにはあまりにも若い、おそらくは雇われているのだろう。
 他のスタッフは、突き当たりにドアが見える見えるスタッフルームの中にいるのかもしれないが、確かに今ぐらいの客の数なら、一人で十分こなせる。
「えーと、カップは…お、あっちだ」
「わ、結構種類がありますね」
 少し離れた棚の全てにずらりと並ぶ様々な大きさや柄のカップ。
 様々な色彩が踊り、見ているだけでも心が浮き立ってくるようだ。
「おおー、沢山あるな」
「全部見るだけでも結構時間が掛かりそうですね…いいんですか?」
 おそらく時間の事を尋ねられたのだろうが、切原は相手の確認にすぐに頷いた。
「ぜーんぜん問題ないって。どうせ家に帰っても大してやることもねーし」
「予習復習は?」
「んな仁王先輩みたいな事は言いっこナシ」
「ふふふ…」
 仕方がないですね…と言うように優しく、楽しそうに笑う桜乃は、それだけで見ている若者を照れさせた。
(あーくそ…見ているだけでニヤけそうになるって何だよ。すっげぇ恥ずかしいじゃんか…)
 しかし確かにこのまま二人で見つめ合っていても仕方がない。
 今日はここにはマグカップを見に来たという理由がある以上は、それをしっかりと果たさないと。
「と、取りあえずさ、暫く色々見て回ってみる?」
「そうですね、折角来たんですから、いいものを探したいですね」
「あ、あんま高いのはダメだぞ、ゼロが四つも五つもついてるような奴は」
「そんなの怖くて使えませんってば」
「…それもそうか」
 自分の身に置き換えてみても、その通りかもしれない。
 どこかの帝王様ならどんな器でも何気なく扱っていそうだが、庶民上等の自分だったら、高価な食器は一切使用せずに大事に棚の奥に保管してしまいそうだ。
 どうせ使っても、緊張で味など分かりそうもないし。
「アンタが同じ庶民で良かった…」
「誰を思いだしているか予想出来ます」
 そんな事を言いながら、二人は並んでカップを色々と見て回り始めた。
「単色のシンプルなものもいいですね」
「んーでも何か飽きね? どうせならこうイラスト入ってるのとかさ…」
「あ、あの羊さん、可愛い」
「羊かぁ…見ているだけで眠くなりそうな…」
「多分、切原さんだけですよ」
 そんな事をとりとめもなく話しながら、二人は非常に仲良くそれからもカップを見回っていたのだが、なかなかこれといった決定打を持つ一品が来ない。
 いいと思える候補は幾つか上がってはいるのだが、いざどれにしようというところになると、どうにも判定が難しいのだ。
「う〜〜ん…」
 桜乃は先ほどから真剣に悩んでおり、いつの間にか若者が口を挟みにくい雰囲気になってしまっていた。
(うわ、結構悩んでるな…ちょっと静かにしとくか)
 邪魔したら悪いしな…と考え、切原は一歩引いて桜乃に決定を任せる形を取り、自分はさりげなく他のコーナーを見て回り始める。
 カップ以外にも、ここには本当に様々な食器が用意されていた。
 そして、見回り始めて、切原は食器などの類による選別ではなく、季節感などに拠って様々なアイテムが集められた特設コーナーも奥にあることを知った。
(へぇ、こっちは春のイメージで色々置いてるんだ…春らしいイラストが入ったサラダボールに、菜の花をイメージしたティースプーン…お、角砂糖やナプキンもある。へー、結構華やかな感じ…)
 やっぱり春はのどかなイメージだよな、と思っていたところで、切原はそのコーナーに設置されていたテーブルの一角を見て、ぴた、とその歩みを止めた。



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