「……」
 これって…
 そこへ視線を固定させたまま、切原はそのすぐ傍へと小走りにかけより、置いてあったアイテムを見つめる。
 そしてそのアイテムについて記されていた注意書きを何度も読み返し、自分の財布を取り出して中身を確認すると、心を決めた様に頷いて実物を手に取った。
 そして、彼はその場を離れて、再度桜乃の傍へと戻っていく。
 向こうは、まだどのマグカップにしようかと悩んでいる真っ最中らしく、何度も繰り返し首を右に左に傾げていた。
「あ、あのさ、竜崎…」
「はい? あ、すみません、時間かけすぎちゃいました?」
「い、いや、そういう事はないんだけど…ちょっと」
「?」
 いつになく遠慮がちな相手の台詞に違和感を覚えて、桜乃は久しぶりにカップ達から視線を外してそれを彼へと向けた。
「えーと…こういうの、見つけたんだけど。これも候補にどうかな…って」
「え?」
 そう言いながら若者が差し出したのは、やはりマグカップだった。
「!」
 それを見た瞬間、桜乃の視線が一気に釘付けになった。
「わぁ…」
 綺麗な…微妙な桜の花弁の色合いを見事に再現しているカップ。
 一面の薄桃色の地に散りばめられているのは、白く抜いた形の無数の桜の花弁。
 背景は桜色
 花弁は白色
 しかしそれは、誰が見てもはっとする様な、桜吹雪の風景。
 雅な一瞬を、花弁の形一つで再現し、カップに焼き付けた一品だった。
「すごい…何て綺麗…何処にあったんですか?」
「あ、向こうのコーナーにさ、置いてあったんだ。これが最後の一個らしいから、行ってももうないぜ? どう? 割とイイと思うんだけどさ」
「割とって…もうダントツでこれが一番ですよ。わぁ、見れば見るほどに素敵…」
 桜乃がすっかりそのカップを気に入った様子を見て、切原の表情が微かに緩んだ。
「そ、そっか…んじゃあ、これにする?」
「はい!」
「分かった、じゃあ包んでもらってくるから、アンタはもう少しここにいてくれ。終わったら迎えに来る」
「え? 私も一緒に行きます…」
「あー、ダメダメ!」
 レジに一緒に向かおうとした少女を、切原はいつになく強い口調で押し留めた。
「こういう時には値段を見るのはタブーだからさ。わりーけど、ちょっとだけ待っててくれ、な?」
「?…はぁ、それなら…」
 確かに、相手が贈ってくれるという品物の値段をレジで見るというのは礼儀にもとるかもしれない。
 切原さんも落ち着いて買えないかも…と思い、少女はそこは相手の言葉に従って、その場で待つことにした。
「じゃあ、行ってくるから」
「はい」
 そして彼は、一路レジの方へと向かい、何やら店員さんと話を始めた。
 持ってきたのであろうコーナーの方を指さした後で自分の手にしているカップを指さし、ああだこうだとジェスチャーを交えて話している。
 包装についてリクエストしているにしては、説明が少し長めの様にも感じられたが、最終的に言いたい事は伝わったのか、店員は笑顔で彼に頷いて、行動に移った。
 レジを打ち、代金を受け取り、そして包装に入る。
 その手元はよくここからでは見えなかったが、五分もすると全ての準備は終了したらしく、切原は品物を受け取る素振りを見せた後に床に置いていた鞄を持ち上げようと腰を屈めた。
 そして、そこで少し手間取りつつも何事もなく姿勢を正し、桜乃の方へと向かってきた…カップが入っているとおぼしき正方形の物体を手にして。
「わり、待たせた」
「いいえー」
「じゃあはいこれ。本当にすまなかったな」
「そんな、こんな綺麗なカップを頂けたんですから、私にとってはラッキーでしたよ」
「そ、そお?」
「はい!」
「ふぅん…」
 桜乃の無邪気な笑顔を見て、不意に相手の表情が真剣なそれに変わった。
「…竜崎」
「はい?」
「えーと、その、さ…そのカップ…」
「?…何ですか?」
 どもる切原の言葉に返事を返した桜乃だったが、向こうは何かを逡巡し…気を取り直した様に笑った。
「や、何でもね…大事にしてくれよな。俺が言うのもなんだけどさ」
「はい、宝物にします…うーん、これは寧ろウチで毎日使いたい感じですねぇ」
「ああ、いいんじゃね? 部室にはまた別の持ってきても。アンタの家の方が、また割る可能性も少ないだろうし」
 それならいい、と切原もにこりと笑い、そして二人はそのままその日は帰宅の途についたのだった…


 以降、桜乃の言葉の通り、彼女に贈られたマグカップは毎日彼女の家で大活躍だった。
「うーん、やっぱり器が違うと味もより美味しく感じちゃう〜〜。切原さんからのプレゼントだし」
 その日の入浴後も、桜乃はあの桜のマグカップに紅茶を淹れて、うまうまと味わっていた。
 本来はティーカップに淹れて楽しむべきものではあるが、自宅での楽しみなのだから、それは個人の自由。
「…結局、値段は分からなかったけど、やっぱりあまり高かったら申し訳ないわね。同じカップではなくても、ちょっとしたお返しぐらいはあげた方がいいかも…」
 そう呟きながら、少女はじっとマグカップを見つめる。
「このカップにぴったりのスプーンもほしいって思ってたし…またあのお店に行ってみようかな」
 こういう物が置いてあったのだから、同じセンスの品物も期待出来るかもしれないし…
(うん、気を遣わせたら悪いから、切原さんには内緒で行ってみよう)
 そして、その次の日、桜乃は放課後にあの店へと一人で向かったのだった。


 再び訪れたその店は、当然の話だがあの日から殆ど変わりなく、ゆったりとした雰囲気を醸し出していた。
(そう言えば、あの時は切原さん、何処からあのカップを持って来たのかしら…?)
 確かあの時は、もう在庫がないからっていうことでそこには行かなかったんだっけ…
 桜乃は、今日はゆっくりとその店の全体を回って、どうやら彼があの品を見つけたらしいコーナーへとたどり着いた。
「わ、春らしい品物が一杯…スプーンもあるかな?」
 丁度良かった、と思いながらそのテーブルを見回っていた桜乃の視界に、見慣れた物体の写真が入ってきた。
 何やら、紹介用のポップに貼られている写真。
 紛れもなく、あの桜吹雪が閉じこめられたカップだった。
「…あら?」
 そのポップの写真には、桜乃が持っている桜色のそれだけではなく、もう一つ、色違いのカップも写っていた。
 桜色ではない、鮮やかな春の空を表した様な青の中に真白な桜の花弁が舞っている。
 色違いのカップが一組。
 その下には「完売しました」という追加の文字が大きく書き加えられていた。
「へー、こんな色のもあったんだぁ、知らなかった。どれどれ?」
 この色のものはあの時紹介なかったから、もう売り切れていたのかな、と思いながら、ポップの説明を何気なく読んでみる。
「ええと…春の桜に願いを込めて、想い人に贈り物は如何でしょう? 片方を相手に贈り、もう片方を自分が使うことで、二人の縁が結ばれると話題の恋愛成就の…」
 ……え?
「……」
 全く知らなかった事実をいきなり暴露されて、桜乃の思考と口が止まる。
「…え?」
 これは、今のは、私の読み間違いでしょうか…?
「え、ええと…」
 やっぱり早とちりはいけないわよね、私、よくやるのよ…と戒めながら、少女は改めて一語一句確認しながら説明を読んでいった。
 しかし、やはりその意味は、最初に自分がそう認識したものと変わりなかった。
「…」
 つまりこれは、そういう意味のもので…ということは、切原さんは、そういう意味を込めて私にこれを…?
「〜〜〜」
 かぁっと一人で頬を真っ赤にして、桜乃はそわそわと挙動不審になってしまった。
(えええ…!?)
 本当に!?
 期待ともとれる胸のざわめきが起こったが、それでもまだ疑念は完全に払拭された訳ではなかった。
 まさか私みたいな取り柄のない人間が、あんな人に好かれる訳が…嬉しいからって、ちょっと自惚れすぎなんじゃないかな…?
(そ、そうよね…確かにこっちのカップはもらったけど、これだけ買ったってことも考えられるじゃない。私は女だから、確かに空色より桜色の方が勧めやすいし…)
 そんな事を考えていた丁度その時に、店員が傍の通路を通り過ぎた。
「…あ、あのう」
「はい?」
 思わず呼びかけてしまい、桜乃はどきどきしながら出来るだけ平静を装い、問題のマグカップについて尋ねてみた。
「すみません、このペアのマグカップなんですけど…」
「ああ、申し訳ありません。お陰様でこの品物は大好評の内に完売致しましたので、再入荷の予定はございません」
「そうですか…えと、この二つのカップって、それぞれ別売りも…?」
「いいえ、別売りには応じない商品でした」
「え…」
 店員の即答に逆に客人の方が戸惑ったが、変わらず向こうは一片の迷いもなく続けた。
 おそらく、似たような質問をこれまでも受けてきたのだろう。
「あくまでも恋愛成就がコンセプトの作品でしたし、分けて売るというのは明らかにそれに反しておりますから。こちらはあくまでも二つを一組として販売する商品でした」
「…そ、そうですか…」
 じゃあ、私の一個だけを買ったという訳でもないんだ。
 間違いなく、あの人はもう一つの…青色のカップを持っている筈なんだ。
(……ああ、何だか確定かも)
 ペアにするのが嫌なら、わざわざ最初から勧めたりしないよね、きっと。
 その気じゃないのに買うのなら、寧ろ最初からこれについても話して「でも、そういうのは関係なく使おうぜ」とでも言うのが、自然だし…内緒にされているというのが、何より答えになっているかもしれない。
「…どうしました?」
「い、いえっ! 何でもありませんっ!」
 店員が不思議そうに尋ねてきた言葉に慌てて答えた後、は、と桜乃はここに来た本来の目的について思い出した。
「あの…すみません。少し相談に乗って頂けませんか?」



 某日
 立海テニス部部室…
「お疲れさまでした、切原さん」
「おう、ありがとさん、竜崎」
 いつかの様に、部活動を済ませた部室で、切原と桜乃は他愛ない会話を交わしていた。
 あのマグカップを桜乃に進呈してから、彼女がここに来るのは初めてのこと。
 切原は、いつも通りに振る舞いながらも、脳裏ではずっとあのペアマグカップの御利益について考えていた。
(…まぁ、あんなの当たるも当たらぬも八卦だよなぁ…今考えると俺も何でああいうの信じて…)
 あの日にこっそり自分用に購入した青色のマグカップは、家で絶賛活躍中。
 別に毎日使わないと効果がないという事はないのだが…何となく気になってしまうのだ。
(…コイツも家で使ってくれてんのかな…)
 そんな事を思っていたら、ふと桜乃が顔をこちらに向けて呼びかけてきた。
「あの、切原さん」
「んー?」
「この間は、カップ有り難うございました…それであの、頂くばかりじゃなんですから、これ…」
「お?」
 そう言いながら彼女が差し出して来たのは、細長い包装紙にくるまれた物体。
 長さで言うと丁度シュガースティックのそれぐらいだ。
「…何、これ?」
「スプーンですよ。蝶々の飾りが付いているんです」
「へぇ、お洒落だな。わざわざ買ってきてくれたの?」
「はい、え、と、その…」
「ん?」
「…その色なら…青色にも合うと思います」
「青…?」
 何でそんな色が出てくるんだろうと思った直後に、若者の身体が硬直した。
 青…
 あのマグカップ…彼女は知らない筈の、自分がこっそりと持ち帰ったマグカップの色…
「…へ?」
「……」
 何で…?
 まさか、と思いつつも、目の前で頬を染めて俯いている少女の姿を見たら、最早否定の仕様がない。
 彼女は…知っている。
 自分があの品物を買った事実を、知っているのだ。
「あ…」
 その事実を認識した途端、かっと全身が熱を持ち、意識が朦朧としそうになった。
(バレた!)
 買ったという事実と一緒に、自分の相手への隠していた気持ちが…バレてしまった!!
(ちょ、そんな…心の準備ってもんがあるでしょ、神様!!)
 しかもよりによって本人から指摘されるとは!
「え、ええっと…き、気ぃ遣ってくれてサンキュ…」
 言った傍から自分に蹴りの一つもかましてやりたくなる。
(そういう事を言うタイミングでもねぇだろ!! えーと、でもどう言ったらいいんだよこういう場合…)
 必死に考えながら桜乃をちらっと見ると、向こうもそれ以上何を言えばいいのか分からない様子で黙ったままだった。
(あ…)
 真っ赤になって、瞳を潤ませて、俯き加減でいる少女に、問答無用で目を惹かれてしまう。
(ヤバ…可愛い、やっぱコイツ)
 思いつつ、少しだけ切原は冷静になった。
(でも、そんな事言うなら、竜崎もイヤじゃないって事だよな? イヤなら最初から気づかない振りしとけばいいんだし、最初からこんなの贈るワケもねぇじゃん…こんなに緊張してさ、顔真っ赤にして…)
 女にここまでさせて野郎がされっぱなしって…ヤバくね?
「…はぁ」
 一つ溜息をつきながら、切原はぽり、と頭を掻いた。
「今更誤魔化すなんてナシだよな…よし」
 自分で何かに納得した様に、覚悟した様に頷くと、彼はきっ!と真っ直ぐに桜乃を見据えた。
「もうバレてると思うけどさ、俺、アンタが好きなんだ。アンタの予想通り…青いヤツは俺が持ってる」
 彼の言う通り、予想していたのか、桜乃は特に大きな感情の起伏もなく、落ち着いて相手の告白を聞いていた。
「あの桜色のヤツ、出来たらこれからも使ってほしい。んで、青いヤツは…お、俺が、使いたいんだけどさ…アンタは、どうよ?」
 相方が俺なのは…嫌か?
「……ふぅ」
 ふと桜乃が小さく溜息をついて、切原に苦笑いを浮かべた。
「…嫌だと思う人に、スプーンを贈ると思います?」
「!」
「大事にして下さいね。カップも、スプーンも…そして」
 更に顔を赤くして最後に一言。
「…私も」
「!!」
 可愛い過ぎだろ、コイツ!!!
 そこまで言われて「出来ません」なんて、男じゃねぇし!!
「う、ん…する! 絶対する! 俺が誰より大事にしてやるから!!」
 嬉しそうに両手を伸ばし、切原は思い切り桜乃を抱きしめた。
「わ…切原さん…」
「だからさ、これからも俺の一番近くにいろよ、桜乃」
「…はい、赤也さん」
「……んでさ、その…」
「?」
「…嬉しいついでに、ちゅーしたいなーって」
「!!」
 大胆な発言だったが、いつものやんちゃな笑顔で言われてしまうと、戸惑いさえも逃げてゆく。
 しかし、どのみち戸惑ったところで、自分がこの人を好きなのには変わりはないのだ。
「…はい」

 そして、あのペアマグカップで新たなカップルが無事に誕生したのだが、それが店に報告されたかどうかは彼らしか知らない…






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