土曜日…
「ふあ〜〜…おあよ…ってもう誰もいねーのか」
まだ少し寝惚けた頭を軽く揺らしながら、私服姿の切原がリビングに起き出してきた時には、既に九時を軽く回っていた。
普段ならテニス部で活動中の時間だが、この日は幸いに休部の日。
自由に一日を使える貴重な日だったが、切原にとってはその歓びも半減の日である。
確か今日は、父親はゴルフの接待、母親は友人と一緒にお芝居、姉も同じく友人とサークル活動とか…
「お、メモだ、これに書いてることをやれってんだな……って何だよコレ!!」
母親がリビングのテーブルに置いていったメモには、びっしりと今日彼に任せる分の家事が書き込まれていた。
家の各部屋の掃除にお風呂掃除、トイレ掃除、洗濯にアイロンがけに…その他諸々!
「ずっり〜〜〜!! 自分だって普段はここまでバッチリやってねーくせに、俺に任せる時だけ〜〜!!」
こんなに家事をこなしていたら、それだけで日が暮れてしまう!
引き受けはしたが、こんなに大量の仕事を与えられるとは思っていなかった!!
(くそ〜〜! 余った時間でゲームやろうと思ってたのに〜〜!!)
これはもう適当にブッチするか…? いや、しかし下手に逆らったら、今後の自分のお小遣いが大幅に減らされてしまう危険性が…
「ううう〜〜」
ぴんぽーん…
唸っているところで、家の玄関のチャイムが鳴らされた。
「? 誰だ? 宅配便かな…」
別に客が来るとは聞いていない…と思っていたところで、はっと彼は昨日の先輩達の台詞を思い出していた。
(もしかして、俺へのプレゼントが届いたのかな…)
思いつつ、あまり相手を待たせる訳にもいかないので、切原は取り敢えず玄関へと急ぎ、覗き窓も使わずにそのままがちゃりとドアを開けた。
「はーい、どちらさん?」
「お早うございます!」
気の抜けた問い掛けに対し、実にはきはきと気持ちの良い朝の挨拶。
ん?と思いドアの向こうに立っていた人物を確かめた途端、切原の瞳が限界まで開かれると同時に、彼の身体が固まった。
「え…?」
そこに立っていたのは、昨日の夜、自分がメッセージを送って欲しいと望んでいたあのおさげの少女だった。
手提げのバスケットを提げた姿で、今日は制服ではなく可愛らしい色合いの私服。
秋をイメージしたような暖色系の衣装は、いつもの彼女より随分と女性らしいイメチェン効果を果たしており、半寝起きだった切原の視神経に思い切り喝を入れてくれた。
「どわああああああああっ!!!!」
「きゃ…」
大声を上げ、ドアを盾にするように家の内側へと顔半分を隠しながら、切原は動揺も露に相手に叫んだ。
「なななななっ! 何でアンタがここに!?」
「デリバリーサービスを頼まれました。依頼主は立海テニス部三年レギュラー一同様から」
「…へ?」
動揺がまだ治まらない切原に対し、相手の少女はにこにこと笑いながら簡潔に説明した。
「最初はゲームソフトを贈るつもりだったらしいんですけど、先取りされちゃったから、代わりに一日限定のメイドをデリバリーサービスしてやるねって。私も切原さんのお誕生日お祝いしたかったし、家事ぐらいならお安い御用ですから、遠慮なくこき使って下さい!」
「はあ!!??」
つまり…あの先輩達の俺へのプレゼントって…こいつ!?
唖然としている相手に、桜乃が、あ、と思い出した様に付け加えた。
「そう言えば、幸村さんが『どうせなら、その人が一番好きなものをプレゼントであげたいし』って言ってましたけど、他にも何か貰ったんですか? 本当に優しい先輩方ですね」
「〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
部長の物凄く際どい問題発言と、少女の果てしない鈍感っぷりに、切原がへろへろへろ…とその場にしゃがみこむ。
バレてないっ! 物凄くほっとしたようながっかりしたようなビミョーな感じだけど、取り敢えずバレてないっ!!
(先輩方〜〜〜〜〜!!)
そりゃ確かに…っ、確かにそうだけど…『一番好きなやつ』だけど……そこまであからさまにしなくてもいいじゃないかっ!!
そう、実は切原はこの目の前の少女…竜崎桜乃が大のお気に入りなのだ。
お気に入りと言うよりは、男性として好意を持っており、あわよくば恋人にしたいという大いなる野望も持っていたりする…が、今の処は目下友人止まり。
テニスコートでは大胆不敵に暴れ回る風雲児でも、そっちの方面では年齢相応に繊細なのだ。
仲は悪くはないものの、まだ告白も出来ない相手をいきなりメイドとして家に迎えるなど、あっていいことなのだろうか……いや、正直言うと嬉しいけど…
切原が沈黙していると、彼が納得してくれたと思った桜乃はドアの外から玄関口へと入ってきた。
「じゃあ失礼しますね…ええと、何処か空いている部屋はありますか?」
「え…部屋?」
「これからお掃除とかするので、服を着替えたいんです」
「あ、ああ…そっか」
確かに埃とか沢山舞うだろうし、そうなったら服とかも汚れるかもしれないな、と納得した切原は、同じく一階にある客間へと案内した。
「んじゃここで」
「すみません、失礼します〜」
ぱたん…とドアを閉めさせて…切原は大きな溜息を吐き出した。
(あーも〜〜〜……朝っぱらから寿命が縮んだ…)
でもこれって結局受け入れたことになったから…こいつは一日、ウチにいるって事だよな…つまり…
(二人っきり…)
そこまで思考が至ったところで、彼はぬわーっ!!と叫びながらぐしゃぐしゃと頭をかき回した。
(やややや、やべぇ!! 健全な男女二人が一つ屋根の下にいるって考えただけでデンジャラスだっての!! いや! デンジャラスなのはどちらかと言うとアイツの方で、俺はまぁ別の意味でデンジャラスというか何と言うか…)
どうしよう、いや、手は出さないっつーか、出せるような関係でもねーし…でも折角のチャンスなんだから、これでちょっとはお近づきになりたいな〜なんて考えたりも…ともんもんもんと考えている内に確実に時間は経過していき、やがて客間のドアが再び開かれた。
「お待たせしましたぁ」
「ああ、別にだいじょう…」
振り返った切原の前にいたのは、立派な『メイド服』に着替えた桜乃だった。
黒の裾が長いスカートに白いエプロン、そして頭にばっちりカチューシャ。
日本の一般家庭の家屋では、先ず見られない稀少生物ものである。
「ぶ――――――――――っ!!!」
「…朝はいつもそんなに賑やかなんですか? 切原さん」
向こうの動揺の理由が自分にあるとは考えてもいない様子で、桜乃はのほんと呑気にそんな事をのたまった。
「そーじゃなくてっ!! 何でどうしていきなり『メイド服』なんだよーっ!?」
「はいっ、『物事は形から入るべし!』と、仁王さんが貸して下さいました!」
「何でアンタもそこで疑問に思わねーんだ……」
ぐっと拳を握って力説する相手に、最早エネルギー切れの様相を呈していた若者が力なく突っ込んだ。
おかしいだろう、普通の中学生が、しかも男子が、メイド服をあっさり持って来て貸すって何よ!?
まぁ向こうは詐欺師と言うか得体の知れない生き物と言った方が正しいのかもしれないが。
(…まさか仁王先輩、ソッチの趣味が…)
だったらあの人を部から追い出すか、俺が退部しよう…と怪しい計画を立てている間に、桜乃が持って来たバスケットを再び手にして、彼に声をかけた。
「切原さん、朝ごはんはお済みですか?」
「ん? いや、これから余りモノを適当に…」
「良かった、サンドイッチ作って来たんですよ。今、紅茶を淹れますから、朝食の時間にしましょう」
「え…」
「さぁさぁ、今日は私が家の事はしますから、どーんと構えていて下さい」
普段もにこやかで朗らかな性格の娘だが、特に今日は水を得た魚の如く活き活きしているのは、家事が好きな性格からなのだろうか…?
うふふふ、と嬉しそうに笑いながらぐいぐいと切原の背中を押して、リビングのテーブルに着かせると、桜乃はそのままてきぱきぱき!と朝食の準備を整えた。
何処かのホテルで目にしそうな、見事な食卓…キラキラキラ…と輝き効果まで見えてしまう。
「…………」
えーと…と、椅子に座ったまま呆然と食事を眺めている間に、桜乃はテーブルの上にあった例の家事メモを手に取った。
「あ、これがノルマですか? ふむふむ…」
「すげーだろ、二人がかりでもどんだけ掛かるかっての」
「あら、そんな事ないですよ。ちゃんと順序だてていけば大丈夫です。じゃあ、切原さんがお食事の間に、お洗濯とお風呂掃除に行きますね……あ」
ふと桜乃が声を上げて、切原が何かと視線を合わせると、向こうが少しはにかみながら首を傾げた。
「すみません、今日は『切原さん』じゃなくて『ご主人様』でした」
「!!!!!」
精神防御がもう少し遅ければ、自分はサンドイッチに顔を突っ込んで失血死した人間として、後世に語り継がれただろうと思う…
「い…いや…いつも通りでいいから…」
何とか鼻血は阻止しつつ、切原はそう断ったが、向こうは相変わらずノリノリでメイドモードの真っ只中。
「ダメですよ〜、形から入るようにって言われて来ましたから。じゃあ行ってきます、ご主人様!」
(うおわああああああ!! 身体中がゾワゾワするううぅぅぅ!!!)
多分これがテニスの試合だったなら、幾ら俺でもラケット投げ出して棄権していただろうと、若者が自分の身体を抱き締めながら思った。
掌に触れる腕の産毛が、冗談抜きで逆立っていた。
(ナニ!? 何なのこの感じ!? こそばゆいというか恥ずかしいというか嬉しいというか、いいの!? 中学生が体験していいこと、これって!!)
ダメだ、兎に角落ち着かないと…と必死に己のコントロールを試みながら、切原はふと前にあったサンドイッチを見た。
(そ、そうだな、先ずは食べてから、それからゆっくり考えて……)
受け入れた時には、二人っきりだという事実を利用出来るか考えていた若者だったが、今はもうそれどころではなく、寧ろお邪魔してきた桜乃の方が完全に自分のペースを掴んでいる。
何だか悔しい気持ちも手伝って、切原はむんずっとサンドイッチを掴むと、ばくっと威勢よく口の中に放り込んだ。
(…お、うま…)
マスタードとかマヨネーズ、野菜のバランスが凄く上手い…
へぇ…と感心しながらぱくぱくぱく…と切原は結構なスピードでサンドイッチを食べ、そして淹れられていた紅茶をくぴっと飲んだ。
(おお〜〜…んまいな…何か紳士にでもなった気分)
某先輩が聞いたら『認めません』と速効で拒絶されそうな感想だったが、そう思うのも無理は無い。
午前中の爽やかな陽射しが部屋に降り注ぎ、いつになくゆったりと美味しい朝食を、人が淹れてくれた紅茶と一緒に頂いているのだ。
ちょっぴりリッチな気分になってしまってもおかしくはない。
しかもそうやって朝の一時を優雅に過ごしている間に…
「お洗濯お洗濯〜」
働き者のメイドが、洗濯物を入れた籠を持ってぱたぱたとせわしなく働いてくれているのだ。
(いいなぁ…確かにこんな生活送れるなら、紳士目指したくもなるよな、柳生先輩)
目の前で言ったが最後、間違いなくレーザービームを打ち込まれるだろう暴言を心で吐きながら、切原は極楽極楽…と至福の朝食タイムを過ごしていた。
続
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