バスの中で


「あ、きたきた」
 その日、桜乃は日用品の買い出しに出かけるべく、寮の傍にあるバス停で、自分が乗る予定のバスを待っていた。
 ここに停車するバスには幾つか行き先が異なるものがあり、彼女はその中で、最寄りの繁華街を回るものを待っていたのである。
 買う予定があるのは、予備のベッドのシーツやその他幾つかの雑貨関係。
 普段からよく買うものではないが、引っ越してきたばかりだと、色々と揃えないといけない物は何かと多いのだ。
 実は桜乃は最近この神奈川に引っ越してきたばかり。
 青学に一度は入学したものの、テニスが縁で知り合った知己達とより近くにいたいが為の一念で、有数の進学校である立海にわざわざ編入試験を受けて入りなおしたのである。
 今日はそんな彼女が引っ越したばかりの寮の部屋を、より充実させる為の買い物目的の外出なのであった。
 目的のバスがようやく道の向こうから走ってくるのを見て、桜乃は改めて終点の場所の名前を確認してから、よいしょと中へと乗り込んだ。
(えーと…)
 目的地までは結構な道のりがあるので、出来たら座っていきたい。
 そんな桜乃の願いをバスの神様が聞いてくれたのかは分からない…勿論、時間帯の事情によるものだろうが、幸いにもバスの座席には結構な空きがあった。
(あ、良かった、これなら座っていけそう。奥の方にも空きがあるみたいだし…)
 そんな事を考えながら桜乃がバスの後方へと移動していくと、最後尾の一列全部が座席になっているところで、見知った顔を見つけた。
「あ、切原先輩…」
 桜乃が声を出したが、向こうはその相手に気付く風でもなく、返事もしない。
 それもその筈…立海大附属中学、男子テニス部が誇る二年生エースは、桜乃が乗り合わせてきた事など知りもせず、安らかに夢の世界を楽しんでいる真っ最中だったのだ。
 一番隅の席で窓側に寄り掛かり呑気に寝顔を晒している姿からは、到底テニスコートでの彼の活躍など想像出来ないだろう。
 今日は日曜日で部活動もお休みの日。
 言わば完全休日なので、彼が何処に行くのも自由なのだが…
(い、いいのかな…何処に行くつもりなのかな)
 あんなにぐっすり寝ているなら、目的の停留所に着いても気付かないかも…
 そんな心配をしつつ、桜乃は相手が知己だということもあって、ついそちらに足を向け、何気なく隣に座ってみた。
 相変わらず向こうは少しも起きる素振りを見せずに寝こけている。
(あ…そう言えば切原先輩、今日は私服だ。わぁ、何だか新鮮…)
 今までも大体は学生服かジャージ姿しか見た事がなかった。
 しかし今日の彼は白地に黒のプリント柄のシャツと、それに合わせてか黒のジーパン姿で、実にラフな格好だ。
 年相応の若者らしい姿に視覚的な新鮮さを覚えながら、桜乃は相手を起こさないよう極力努めて静かに横に座っていた。
(ほんと良く寝てる…夜ちゃんと寝てるのかなぁ)
 余計な心配だと分かっていても、つい気にかけてしまうのは親切心からか。
(居眠りさえなければ、真田先輩達からもあそこまで怒られる事もないのに…)
 ついでにそんな事も考えている間に、バスは順調に経路を走っていた。
 ささやかな異変が生じたのは、そこから幾つ目かの停留所に停車した時のこと。
(あ、結構混んできたな〜)
 そこの停留所にはかなりの人数がバスを待っており、乗降口が開いて間もなく、多くの客が乗り込んできたのだ。
 それまで割とゆったりとした間隔で乗っていた桜乃も、車内が混んできた様子を受け、隅の切原の方へとやや身体を寄せ、密着した状態になる。
(うわわ…結構、近い…)
 ほんの少しだけ顔をそちらに向けると、もうすぐ傍に彼の顔がある。
 少しどきどきして顔を逸らしてみるが、ついまた覗いてしまう。
(いつも元気だからかな、こんなに静かで大人しいと、却って気になっちゃう…それにしても…)
 しげしげと、向こうが眠っている隙に改めて観察。
(やんちゃな人だけど、確かに…格好いい、よね)
 あの猫の様なきょろりとした瞳は今は閉ざされてはいるが、目鼻立ちはしっかり整っている。
 肌もスポーツをしていて代謝がいいからか、女子も羨むだろう程に艶々している。
 睫毛も長くて、唇の形も良い。
 各パーツの質が高い上、更にそれらのバランスが絶妙であるからこその、この整った容貌。
(うーん、羨ましいなぁ…)
 ごんっ!
「んが…っ」
「え?」
 いきなり妙な、固い音が聞こえたと同時に、切原の頭が激しく揺れた。
 どうやらバスが一際激しく震動した所為で、その煽りを受けた切原の頭が、寄り掛かっていた窓にぶつかってしまったらしい。
 大きな音だったので、流石に目を覚ますだろうと思っていた桜乃だったが…
「…んん」
「ふぇ…?」
 しょぼ…と眠そうな目を半分だけ開いた切原が、最初に自分がぶつかった窓を見て、そして続けて反対側の桜乃を見た。
「…」
 そして彼はそれ以上何を言う事もなく、断りを入れる事もなく、今度はこてんと桜乃の方へと頭を傾け、肩にそれを預けた状態で再び寝入ってしまったのだった。
(ええええええっ!?)
「ぐぅ…」
 身体をコンクリート並に固くしてしまった少女の緊張などお構いなしに、その若者はぐてんと完全リラックスモード。
「あ、あの…切原、先輩…?」
 混んだ車内で反対側の席にも別の乗客が座っていることもあり、桜乃は声を大きくする事も憚られ、已む無く小さく呼びかけてみたが、やはり反応は思わしくない。
 あれだけ音をたてて窓に頭を激突させながら尚、熟睡している強者が、少女の囁きに覚醒する訳もないのだが…
(こ、困ったなぁ、どうしよう…せめて何処で降りるか知ってたら、そこで起こしてあげられるんだけど…)
 悩んでいる間にも、肩に相手の重みが伝わってくる…しかも…
(う、うわぁ…寝息、聞こえる…)
「すぅ…すぅ…」
 先程までは届かなかった相手の安らかな寝息が、距離が一気に縮まった事で、モロに耳元に響いてくるのだ。
 生々しい相手の吐息に、一気に桜乃の身体が熱くなった。
(お、起こした方がいいのかな、やっぱり…でも、却って起こしちゃったら気まずくなっちゃうかもだし…でもでも、このままの格好だと何だか凄く恥ずかしい…っ)
 自分達の関係は、テニス部の部員とマネージャー希望者…或いは先輩と後輩の間柄でしかない筈…なのに、今の二人の状況はまるで…
(恋人同士…って、な、何考えてるんだろ私っ…!)
 ダメダメダメダメ…と『ダメ』を百回ぐらい心の中で呪文の様に唱えながらも、桜乃は何とか自分自身の中で折り合いをつける。
(よ、よし、じゃあ私が降りるところでは、可哀相だけど起こす事にしよう。べ、別にそれならおかしくないもんね、確かにここで居合わせたのは偶然だったんだし、軽く揺らしたら動いてくれるだろうし、挨拶して別れたら大丈夫…うん)



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