それでは、その停留所に行くまで何度かシミュレーションを…と桜乃が実践している内に、更にバスはがたごとと揺れながら道を走っていた。
車内にも多少その振動は伝わり、その度に切原の身体も小さく揺れていたが、何とか桜乃の肩に身を預ける体制は保っていた。
そうして遂に桜乃が降りる予定だった停留所が見えてくると、周囲の客達も徐々に降りる素振りを見せ始めた。
元々彼女が降りる予定の場所が結構大きな繁華街近くだったので、それも当然の動きである。
そして大通りに出たところで、バスは赤信号に差し掛かり、きぃっとブレーキを掛けた。
がくん…っ
再び、久しぶりに大きな振動が起こり、立っていた人達も吊革に捕まりながら身体を揺らす。
そして、最後尾の切原達はと言うと…
ぐらっ…
「え…」
シミュレーションの結果を見せるべく、降りる心の準備をしていた桜乃の肩が、ふっと元の軽さを取り戻した…途端、今度は両の太腿に何かの重みが伝わってきた。
「え……!?」
何事かと思って反射的に自分の太腿を見下ろすと、そこには眠っている切原の横顔。
まだ事態が把握出来てない間に、バスは赤信号を抜けて桜乃が降りる予定だった停留所に停まり、乗降口を開いた。
彼女の目の前で、乗客がわらわらと動きだし、バスを下りてゆく。
隣に座っていた客達も、身体を移動して立ちあがり、中央の通路を抜けて乗降口に向かって行く。
そんな中で、桜乃だけがおろおろと動揺も露わにどうしたらいいのか分からず、戸惑っていた。
「えええええと、ど、どどうしよう、切原先輩、あの、ちょっと…」
「ぐぅ…」
(うああああ〜〜! こんな格好になってもまだ寝てるぅ〜〜〜)
膝枕である。
先程より明らかに状況は悪化している。
肩なら揺らせば済む話だったが、いきなりこんなシチュに持ち込まれた乙女は、動揺の余り相手を起こす手段すら思い至らなかった。
根が優しかったので、ここまで熟睡している相手を起こすのはやはり心苦しいと思い留まってしまったのも原因だったのかもしれない。
『発車しまーす』
(あああああ!)
最後に降りる事を訴えるタイミングも完全に逃し、桜乃はあわあわしながら窓の外の景色が流れ出す様子をただ見守る事しか出来なかった。
「……はぁ…」
また空いた車内で、桜乃はパニックを過ぎると完全に脱力した状態で溜息をついた。
行き過ぎてしまった…
あんなに慌てていたのに、結局出来なかったら今度は面白いくらいに心が落ち着いてしまった…放心とも言うのかもしれないけど…
「……」
見下ろすと、相変わらず自分の太腿で安らかに眠っている諸悪の根源が一人…
(んもう、人の気も知らないで…ほっぺた抓っちゃおうかしら)
抓みがいがありそうな、つるんとしたほっぺを晒している昼寝小僧を見下ろしていた桜乃は、やがてくすりと笑って相手の顔に自分のそれを近づけた。
(本当によく寝てる…ちょっと慌ててて、よく見るゆとりもなかったけど…こうなったらとことん眺めさせてもらおうかな)
目的の場所で降りられなかったんだから、それぐらいの役得はいいよね?
(それに、こうしてると何だか可愛いし…)
無邪気に自分の膝枕で眠る若者を見ている内に母性本能を刺激されてしまったのか、少女はそっと相手の上になっている腕に手を置いて、彼の寝顔を優しい眼差しで見つめていた…
『切原先輩、起きて下さい』
「ん〜…」
『切原先輩ったら、ほら、起きて』
「ん〜〜〜…もうちょっと…」
『もうちょっともダメです。ほら、終点に着いちゃいましたよ?』
「ん……しゅうて…んっ!?」
何ソレ!?
「えっ!?」
肩を揺らされた感覚がまだ残る中、切原ががばっと跳ね起きて辺りを見回す…と、一瞬、見慣れない風景。
何処かの乗り物の中…ああ、バスか。
そう言えば俺、今日は確かバスに乗って…あれ?
「あれ…竜崎?」
何で、バスの中にこいつがいる…ってちょっと待て!
「へ!?」
今更驚いた様子で切原が周囲を見回すと、バスの中にはもう自分と彼女しか残っていない。
バスは終点に着いて停まった状態。
今自分が起きた状況を改めて考え直して見ると…
「他のお客さん、もう降りちゃいましたよ?」
「やべぇ!! また寝過ごしたーっ!?」
「またって…」
そんなに何度もやっているんですか…と桜乃がこっそりと考えている間に、一気に眠気が吹き飛んだらしい切原が、きょろきょろと辺りを見回しながら現実を把握しようとしている。
「え、ちょっと待てよ、もう終点…? ちょろっと寝るだけだったのに…つか何でアンタ…」
寝過ごした自分だけじゃなくて、どうしてコイツもここに…てか、いつの間に乗って来てたんだ…?
「…」
まじまじと見つめてくる相手に、桜乃はどう返答したものかと苦笑いを返すのみ。
そうしている内に、切原はようやく何があったのかおおよそのところを想像するまでに至った。
確か自分が起こされた時、横になった身体を起こした記憶がある…って事はそれまでは自分は横になって寝ていたってことで…
起きてすぐにこいつの顔があったって事は……まさか…いやでも、そう言えば、やたら下の感触が椅子にしては柔らかいと…ってことはまさか、やっぱり…
「お、俺…まさか、さ…アンタの…」
それ以上の台詞を告げる事が出来ずに、切原が桜乃の太腿を指差すと、向こうは微かに赤面しながらこっくりと首を縦に振った。
「でええぇぇぇえっ!!??」
「お客さーん、終点なんだけど」
「あっ、すみません! すぐに降ります!!」
切原がパニックになっている一方で、運転手の困惑の声が掛かり、桜乃は取り敢えずはそこから降りようと若者に促した。
「兎に角降りましょう、切原先輩。運転手さん、困ってますから」
「お、おう…」
急かされつつバスから降りた切原は、久しぶりの外気を肌で感じながら一度深呼吸して、改めて一緒に降りた少女に向き直った。
「えーと、その…何だ…わ、悪かったな」
「あ、いいえ…」
ぷるるっと首を横に振った相手との間に、奇妙な沈黙が広がる。
どうやら、向こうも今更ながらに照れているらしい…まぁ当然の話。
その気まずさは明らかに自分が原因なのだが、どうにも耐え切れずに切原がぶっきらぼうに言った。
「何だよ、アンタまで付き合う事なかったんだぜ? 起こしてくれて良かったのに」
「あー、そうしようかとも思ったんですけど…」
「けど?」
「…あんまり気持ちよさそうに眠ってらっしゃったから、何だか申し訳なくて」
「申し訳ないって…んな訳ねぇって」
「……それに可愛かったし、切原先輩の寝顔」
「は!!??」
思いがけない相手の発言に、若者がぶっ飛んだ。
可愛い!? 俺が!?
「バッ…な、何言ってんだよ、いきなり…っ」
今度こそ赤面しながら悪態をついてみたが、向こうはその時の事を思い出しているのかくすくすと小さく笑っている。
ダメだ、どうしようもなく恥ずかしい。
まさか自分が知らない間に、寝顔を間近で見られてしまったとは…
(やべぇ…真田副部長の拳骨より効くわ…何だよこの羞恥プレイ)
こんな事が今後も起こりうるなら、これから公共機関の中で迂闊に寝られない!
でも…
「…」
切原はそこでちらっと桜乃の太腿に目を遣った。
寝ていたとは言え役得…でもちょっと勿体ない事をしたかも…
「? どうしたんですか?」
「!! あーいやいや何でもないっ! と、ところでアンタさ、そもそも何処行くつもりだったんだよ」
見るからに怪しい話題の転換だったが、桜乃はそれ以上追及することもなく素直に答えた。
「あ、私は色々と雑貨とかの買い物に…切原先輩は?」
「んー、今日から入るゲーセンの新台試そうかと思ってたんだけどさ…あー、こんな時間じゃもう混んでるな、諦めるか」
携帯を取り出して時間を確認した若者が、溜息をついて今日の予定を放棄すると、相手は笑って道の向い側の停留所を指差した。
「じゃあ、途中まで一緒に戻ります?」
「ああ、そうすっか…ん」
ふと思い出した様に、切原が相手に尋ねる。
「お前のその買い物さ、結構量多いの?」
「そうですねぇ…引っ越したばかりですから、色々と揃えないといけなくて…大きい物は発送してもらいますけど」
「そっか…」
そしてぽりぽりと頬を掻いて何事か考え込んでいた切原は、よしと軽く頷いて相手に申し出た。
「良かったら、俺も一緒に行っていい?」
「え?」
「俺もこれで暇になっちまったしさ、かと言って用事もねぇし…終点まで付き合わせて悪い事しちまったし、荷物持ちぐらいさせてくれよ」
「ええ!? でも先輩を荷物持ちに使うだなんて…」
慌てて断ろうとする桜乃に、切原はにっと笑いながらも食い下がる。
「いいっていいって、ゲーセンよりは身体使うしさ、丁度いいトレーニングにもなるし…な?」
「う…」
トレーニングとまで言われると、今度は断る方が無粋に感じられてしまう。
でも、確かに女の細腕では持ち帰る事に不安があるものもあったし…少しは甘えてもいいのか…な?
「じゃ、じゃあ…お願い、します」
「よっしゃ決まり! じゃあとっとと行こうぜ」
「は、はい…」
そして主導権を握った様に切原は、桜乃を促して反対方向へ向かうバスが来る停留所に移動し、そこから一緒に繁華街へと向かっていった。
流石に今度は話し相手もいたことから彼の居眠りも未然に防がれ、彼らは無事に桜乃の目的地へと到着した。
「先ずは何処だ?」
「えーっとぉ…」
そしてその日一日、切原は桜乃と共に連れ立って街での買い物を楽しみ、ちゃんと約束通り彼女の荷物持ちも果たしたのである。
その姿はまるで、共に暮らす睦まじい恋人達の様にも見えたという…
了
前へ
切原編トップへ
サイトトップへ