居眠り王子の初恋


 或る日の青学の放課後…
 その地に一人の闖入者が降り立っていた。
 青学のものとは明らかに異なる制服を纏った若い男は、くせっ毛の髪を揺らして辺りを見回す。
「で? ココは何処?」
 最寄のバス停から歩いてきた彼は、青学の校舎を見上げると、殆ど躊躇うこともなく中の敷地へと踏み入っていく。
「へー、ここが青学ね…折角だからちょっと見てくか…」
 きろりと辺りを見回す瞳は猫の様に大きく、そして鋭い。
 しかしその顔はまだまだ幼さの残る少年の様な表情を宿していた。
 肩に抱えるテニスバッグを揺らしつつ、彼はどんどんと中へと歩いていく。
 たまに擦れ違う青学の学生達が、彼を珍しそうに視線で追ったが、誰も話しかけるまでには至らない。
「へー、結構大きな学校なんだな〜…まぁ一貫校の立海も大したもんだけど」
 ぶつぶつと呟きながら若者は…切原赤也はへへんと悪戯っぽい笑みを零した後で…顔を青くしながら遠い目をした。
(…練習試合、もう完全に間に合わねーからなぁ……少しでも手土産持って帰らねーと、副部長にひでぇ目に遭わされる…)
 切原赤也は、立海大附属中学 男子テニス部二年生エースである。
 二年生にして既にレギュラーの座を勝ち取り、現在も続く立海の快進撃の主戦力として如何なく活躍している期待の星であるが、あまり本人はそういった評価は気にしていない。
 寧ろ、今の彼を衝き動かしているのは、彼の仲間であり戦友とも言える三人の男。
 切原本人は、彼らの事を『バケモノ』と呼んでいる。
 中学テニス界の最高峰と呼ばれている立海に乗り込み、自分の実力でその頂上に上り詰めるつもりだった。
 出来ると思っていた、この実力があれば…
 しかし、目の前に立ちはだかったあの三人の『バケモノ』達が、悉く自分の野望を打ち砕いたのだ。
 見事なまでに、粉々に。
 あれほどの屈辱を味あわされて、引き下がるなど考えられなかった。
 絶対に這い上がる…この場所(立海)で!
 そしていつか、この屈辱を返してやるんだと、あの三人に。
 部長の幸村精市、副部長の真田弦一郎、参謀の柳蓮二…立海のバケモノ達。
 悔しさの起爆剤の効果もあったのだろう、あれから自分はここまで必死に這い上がってきた。
 断崖から一度は突き落とされたものの、何とか再びあの三人の背中が見える場所まで戻って来た。
 あと少し…もう少しで、彼らを越えられる…と思っていたのだが…
(すっかり怒られキャラが身に染みついちまったな〜〜〜〜)
 倒すと心に決めている相手…特に副部長の真田弦一郎は、最早自分にとっては鬼門となってしまっていた。
 初めて挑んだ時には、あんな性格だとは思わなかったのだ。
 中学生でありながら、最早あの男の精神は達観した成人男性のそれさえも凌駕している。
 更に、全ての身体能力の高さに加え…恐ろしい程の石頭…外も中身も。
 部に入部したのは良かったが、それからが受難の始まりでもあった。
 事あるごとにあの堅物の怒声を浴び続ける内に、すっかりあの男に対しては怯え癖がついてしまった気がする。
 無論、部長や参謀もそれなりの迫力はあるのだが、現在部長の幸村は病床にあり、部の活動からは一時的に退いている、更に参謀は性格的に副部長とは反対の位置にあり、すぐに拳を上げるような男ではない…その分、耳に痛い説教は真田より上だが。
 それでも肉体的苦痛がないのはまだマシである。
 故に、切原を最も恐れさせているのは、現在部長の代理の任を負い、やる気満々の副部長その人なのであった。
 その男が燃やしているやる気…その向く先が今年の全国大会制覇。
 立海の三連覇を為すという大願を成就させることにある事は周知の事実だ。
 この大願…最も邪魔になるであろう敵が、ここにいる。
 青学の男子テニス部…副部長の真田は青学など敵ではないと口では一蹴しているものの、警戒している事は傍で見ていてよく分かる。
 参謀の柳も、一番積極的にデータの収集時間を割いているのは、青学だ。
 先輩達がそこまで意識を向けている相手に、興味を持つなという方が無理というものだ。
 折角ここまで『居眠り』して来てしまったのだ、見せてもらえるものは全て見せてもらおう…
「…で…」
 ぴたりと歩いていた足を止め、切原はきょろりと辺りを見回した。
「……テキトーに歩いてきたけど、何処だっけか、テニスコート」
 そう言えば入ってすぐの処に見取り図があった気もするけど、何も考えないで来てしまったなーと考えつつ、彼はきょろきょろとせわしなく頭を動かして…
「…おっ」
 一人の青学の生徒に目を留めた。
 歩いていたり、誰かと話していたり、携帯を耳に押し当てている人間をわざわざ呼び止める気にはならないが、あの子…何をするでもなく佇んでいるあの女子生徒なら…
(ちょーっと道を聞くぐらいなら、簡単に答えてくれるだろ)
 彼は安易にそう考えながら、敷地内に誂えられていた小庭園の傍に佇む女子に向かって歩き出した。
 背を向けている彼女は、小さく細い身体で、非常に長いおさげを持っている。
 頭の傾き具合から察すると、下を向いているのだが、何を見ているのかまでは背中が邪魔で分からない。
 当然、そんな事は自分が関知するところではないが。
(しっかし何であんな所でぼーっと突っ立ってんだ? 花でも見てんのかね)
 なかなかの広さを持つ花壇の中央には、何の種類かは知らない木が一本、植えられていた。
 もしガーデニングが趣味の部長が見たらすぐにでも教えてくれただろうが、こういうのに疎い自分はさっぱりだ。
 思いながらゆっくりと少女に近づき、もう手を伸ばせば肩に触れられるというところまで接近したところで、彼は声を掛けようと口を開いた。
「なぁ、アンタ…」
 ところが、全ての質問を問い掛け終える前に、対象の少女はくるんと切原の方へと振り向いて、足を踏み出そうとした。
 二人の間の距離は非常に接近しているのだ、その結果…
 どん…っ
「きゃ…っ」
「とわっ…」
 見事に正面衝突してしまった。
 切原は鍛えた身体で、更にテニスバッグというおもりが付いていたお陰で多少バランスを崩しかけたものの、危なげなく両脚は地面に着いたままだった。
 しかし、彼と比して明らかに軽量の少女は身体の動揺が非常に大きく、ぶつかった反動でとっとっと…と数歩大きく下がりながら身体を揺らす。
「はわわわ…っ」
 あと二歩も下がれば花壇の柵に足がぶつかり、間違いなく転倒の憂き目に遭ってしまう、というところで、ぶつかった相手が慌てて手を伸ばした。
「危ねぇっ!!」
 身体が揺れた拍子に上げられた彼女の片手をきつく掴みながら、自分の方へと引き寄せる。
 咄嗟の事であまり力加減はつけられず、結果、少女の身体は今度は大きく傾ぎながら切原の胸に飛び込む形となってしまった。
「はぷ…っ」
 それでも、庭園の中で派手に転ぶよりは全然マシだった。
「ご、ごめんなさい…前を見てませんでした」
「い、いや、こっちこそすまねぇな」
 この場合多分両人とも悪くないのだろうが、相手が先に謝った事を受けて切原も謝り返した。
 少し生意気なところもある若者だが、向こうが非礼な真似をしなければ素直に謝ることが出来る一面もあるのだ。
「大丈夫か?」
「はい…私は…」
 尋ねられたことに対して顔を上げながら答えた少女は、そこではた…と笑顔を固定させ、それから徐々に困惑のそれへと変えていった。
 相手の顔が近い…
 そこでようやく自分がまだ相手の胸の中にいる事実に気付き、少女は明らかに頬を染めて数歩下がる。
 気付いたのは切原も同じで、至近距離で見詰め合ってしまった事実に驚きながら同じく数歩下がって頭を掻いた。
「わ、わりっ!」
「い、いえ…こちらこそ!」
 下がりつつ俯いていた少女が、そろっと再び顔を上げて切原を見る。
 離れて広角になったお陰で、今度は彼の全体の姿を確認出来、少女は見慣れない制服を着た若者を不思議そうな瞳で見つめた。
「…どな、た…?」
「あ、あー…その、ちょっと見学に来たんだけどさ…ココの」
「見学…ですか」
「そ、そうそう…それで…」
 今度こそ質問を…と思っていた彼だったが、相手の視線の先を見て、再び口を閉ざす。
 彼女がこちらに注意を向けてくれているのは分かったが、それ以上に相手は自分の手の中にあるものに注目していた。
 切原が掴んだ手とは反対の手にしっかりと確保していたのは、白い布地とそれで包んだ灰色の何か。
 その物を、小さな娘は大事そうに今は両手で包んで覗き込んでいる。
「…何だ? それ」
 興味本位で覗き込んだ相手に、しかし向こうは隠すこともなく、両手を差し出して彼にもそれを見せた。
 白いハンカチに包まれたのは生まれてまだ日も浅いと思われる一羽の雛だった。
 ぱったぱったと小さな羽を広げて鳴いている様子を見ると、特に弱っている様子はない。
「お、鳥の雛?」
「さっき花壇で見つけて…」
 拾って、ハンカチに包んで…そこで自分とぶつかってしまったのだろう。
「まだ目も開いてねーな…一体どこから」
 きょろきょろと二人で上を見上げながら探していると…
「お! あれか」
「あ…」
 木の枝の一本…その陰に小枝を集めて出来た巣があった。
 中から少女の手の中の子と同じくらいの雛達が、頭を出してぴいぴいと鳴いている。
 何かの拍子に落ちてしまったのだろう、しかし、生きている内に見つけられたのは幸いだった。
「あそこから落ちたんだな…」
「ちょっと…高いですね。梯子を持って来て…」
「いや…いらねぇだろ」
「はい?」
 女子が振り返った先には、手を額に翳して、鳥の巣の位置を確認しつつ笑みを浮かべている若者の顔があった。
 大きなキャッツアイが、きらきらと楽しそうに輝いている。
「登って行けるんじゃねぇかな…あれぐらいなら」
「ええ!? で、でも…結構高いですよ?」
 対し、おさげの少女は切原と鳥の巣を交互に見つめて、彼の身を気遣った。
「落ちたら、怪我しちゃいます…」
「落ちなきゃいいだけの話だろ?」
「そ、れは…そうですけど…」
「だーいじょうぶだって」
 にっと屈託のない笑みを切原が浮かべた。
 中学二年生の年齢相応の笑顔だ。
「…っ」
 一瞬その笑顔に惹き付けられ、目を留めてしまった少女に、相手の若者は右手を差し出した。
「俺が届けてやるからさ、ほれ」
 雛を渡すようにと軽く振られたその掌に、少女は一瞬ためらい、木の上の巣を見上げたが…そろそろとハンカチと一緒に雛を若者に渡した。
「よ、宜しく、お願いします…」
「おう」
 くれぐれも雛を握り潰さないように、そーっと軽く指を曲げるだけに留めると、切原は右手の位置をしっかりと固定させたままで、いよいよ木の傍に移動し、その幹に足をかける。
「気をつけて下さいね?」
「ああ、すぐに戻してきてやるよ」
 優しい声で答えながら、切原は勢いをつけながら軽々と木を登っていく。
 これだけの動きが出来るのであれば、確かに自信満々で答えた理由も分かるというものだ。
(うわぁ…・凄いなぁ、この人…)
 男の人って、みんなこんなに身体が軽いのかなぁ…でも、ウチのクラスの男子でもここまでは…
 そう思っていたところで、はた、と女子学生は何かを思い出して、それから彼女自身もゆっくりと花を避けながら木の下へと移動する。
 真上を見ると、丁度鳥の巣が見える位置だ。
 はらはらと気を揉みながら見上げる彼女の視界の中で、切原は身体の筋肉を最大限に利用しながら、雛を巣に届けるべく更に枝伝いに移動する。
「っとと、引っ掛けちまったか…流石にここからは気をつけていかねぇと…って、ん?」



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