枝々が四方に広がる根元で一時休憩を取り、更に一本の枝を伝って行こうとした切原が、不意に下にあの少女が立っているのを見つけて顔をしかめる。
「おい、アンタ。危ないからどいてなって」
「で、でも、やっぱり不安ですから…」
「だからさ、もし俺が落ちたらアンタ直撃しちまうだろ? 怪我すんぜ?」
無論、そのつもりはないが念の為に注意した若者に、少女はにこりと笑ってぱたぱたと手を振った。
「あ…だから…もし落ちたら、私がクッションになりますから」
「はぁ!?」
「地面に直接落ちるよりは、痛くないと思いますから…」
「い、いいって!!」
必死に断ったが、相手は頑としてそこからどこうとはしなかった。
(…ぜ、絶対にヘマ出来ねーっ!)
あんな小さな細い身体の上に、自分みたいな男子の身体が落ちてったら…
何となく覚えている…こういう場合、『加速度』っていうのがついて、更に痛くなるんだよな…
もし下手な形で落下して接触したら…向こうの骨がぽっきりいくかもしれない。
そんな事になってしまったら…偵察どころじゃなくなっちまう!
(ちょっと…軽く引き受けちまったかな…)
しかし今は集中するしかないと、切原は更に注意を払いながら、枝の先へと身を進め、そして何とか手が巣に届く場所まで辿り着いた。
「よーしよーし…もうちっと…」
巣の中の兄弟を怯えさせないように、そっとハンカチと一緒に雛を元の居場所へと戻してやると、切原は手を戻して再び来た経路を引き返し始めた。
良かった、何とかあの子に怪我をさせることもなく、戻れそうだ…
ずるっ…
しかし、そうやって気を抜いてしまったのがまずかった。
「おっ!?」
「きゃ…っ!!」
ほんの僅かな心の隙が、足を掛ける場所を誤らせてしまったのか。
彼は落下はしないまでも、ずるるっと幹を伝って一気に下へと滑り落ちていった。
「っと…!」
幸い、足から落下したお陰で転倒などはせず、切原はそのまま木の根元へと着地を果たし、すぐにその場に娘も駆けつけた。
「あのっ、大丈夫ですか!?」
「あ、ああ…平気…ったく、カッコわりぃトコ見られちまったな…」
「…いいえ?」
「?」
「…凄く…格好良かったですよ」
「…」
ふわりと綻ぶ花のような笑顔を間近で見せられ、切原の顔がかぁっと赤くなる。
(うわっ…ナニ、こいつ…)
笑ったら、すっげぇ可愛いじゃんか…!!
おさげの子って、結構地味なもんだと思ってたけど…この子は何か…
「きゃっ!」
「え?」
ぼんやりと呑気な事を考えていた彼の耳に、再び相手の小さな悲鳴が聞こえ、それと同時に右腕が彼女によって取り上げられた。
「あ…」
見ると、制服から覗いた手首の部分に一筋の擦れた痕が残り、血が滲んでいた。
きっと先程滑り落ちた時、荒い幹に押し付けられて出来てしまった傷だろう。
「あ…酷い怪我…!」
「へーきへーき、こんなのかすり傷だって」
立海のテニス部の練習じゃあ、よくこんな傷を作ってたっけ…流石に今はそうない事だけど。
「でもでも、傷から血が…えっと、ハンカチ…あ」
「あ」
ふと少女がポケットを探って重要な事実に気付き、同じ事実に切原も気付いた。
「わ、わり、俺、アンタのハンカチと一緒に…」
雛、置いてきちまったよ…
「あ、いいんです、そんな事はいいんですけど…傷からバイ菌入っちゃう、えっと…」
「こんなの、舐めてりゃ治る…」
「そうですか?」
ぺろっ…
「……って」
言葉を止めて、ついでに身体の動きも全てが止まる。
(へっ…?)
今…傷口に感じた微かな痛みと、濡れた柔らかな感触は…
いや…考えなくても、目の前でこの子が舌で傷口を舐めた姿をしっかり見てしまったんだけど…
「う…っ」
うわ――――――――――っ!!!!
心の中で絶叫が上がる。
どうしよう! これって、これって……
(かっ…感触がまだ…)
傷口に、生々しく残ってる…触れた舌の感触…
忘れようにも、微かに感じた痛みと一緒に、既に細胞にまで刻まれてしまった気がする。
「ア、アンタ…一体…!」
何考えてんだよ、と言いかけた時、相手は既に切原ではなく自分の胸元に視線を移していた。
「ハンカチ無いから…これで…」
しゅるん…
その子はセーラー服のリボンを外すと、器用に切原の傷口を覆うように手首に巻いて、きゅっと結んだ。
「こ! ここまでしなくていいって!」
「いけません!」
慌てる男に、しかし初めて相手の娘は強い口調で断った。
「化膿したら大変です、お礼にこれぐらいしかしてあげられませんけど…後でちゃんと消毒して下さいね」
「……」
これぐらいって…もう、十分過ぎる程なんですけど…
動揺している自分とは逆に、相手は非常に冷静に傷口の様子を心配している。
心配してもらえるのは嬉しかったが…何となく寂しい感じもした。
(…傷口舐めたの…別になんてことねーのかな…)
コッチは今も…心臓がバクバクいってんのに……傷、舐められて
(いや……何となく、違う…)
舐められたコトもそうだけど…今の自分は…この子に…ドキドキしてる?
ウソみたいだ、立海で散々告白されたり、ラブレター貰ったりしてた時も、こんなコトなかったのに。
「本当に有難うございました…あの子も大きな怪我が無くてよかったです」
雛の戻った巣を見上げて少女は笑い、その笑顔が更に切原の胸を熱くする。
「い、いや…大したことじゃねーって」
「ハンカチ、いいベッドになってくれたらいいんですけど……あ、そう言えば」
「?」
「あの…私に何か御用だったんでしょうか?」
「あ…ああ、ああ……そう、だった、よな」
言われるまで、自分もすっかり忘れてしまっていた。
(と言うよりも……何かもうどーでもいいって気もしてきたし)
このまま、この記憶を大事に閉じ込めたまま帰ってしまった方がいいかも…とまで考えてしまった切原は、いかんいかんと首を振る。
それはそれ、これはこれ…自分は偵察をしに来たんだし、それさえしなければ、帰った後の副部長の制裁が三割増しになる!
「何の御用でしょう…私に出来ることですか?」
「えーっと、さ……ちょっと道を教えてもらいたかったんだ」
「道…?」
「その…男子テニス部が部活やってるコートって、何処にあんの?」
「テニスコート…あ」
テニスというキーワードを聞いて、少女は切原の背後に置かれていたテニスバッグを見つけると、非常に嬉しそうな笑顔で尋ねた。
「…テニス、なさるんですか」
「ん、ああ…」
ちょっと新鮮な質問。
自分の学校、立海では自分はちょっとした有名人である。
当然、テニス部の二年生エースとして。
だから、誰でも大体自分がテニスをやっていて、かなりの腕だという事を知っているから、今更そんな質問をする者はいないのだった。
「まぁ、なかなかの腕だと思うぜ」
「わぁ…羨ましいです」
「いやいや」
少女の尊敬の瞳が心地よくて、自然に胸を張る…ここ辺りは本当に中学生らしい。
「私も…中学生になってからテニス始めたんですけど、面白くて難しいです」
「そ…そう、ふーん…ま、まぁ、慣れってのもあるしさ…頑張れよ」
「はい、頑張ります。青学のレギュラーの皆さんからも、たまにですけど教えてもらえますし」
「…そっか」
「あなたが転校して来たら…テニス、教えて貰えますか?」
「へ?」
転校?
何でいきなりそんな話に…?
「て、転校…?」
「あ、違うんですか? てっきり転校先の学校の下見かと…テニス部入部希望なのかなーって」
「ああ…そっか…んー、残念だけどちょっと違うんだよなぁ」
「そうですか…」
少ししょげた様に微笑むと、相手は気を取り直して切原を振り返りつつ背を向けた。
「あ、じゃあ、コートまで御案内しますね、どうぞ?」
「おう…悪い」
ちょっとだけ心が痛む…実は偵察だなんて言えないし、黙っているしかないんだけど…何だか心苦しい。
(ちぇ…学校が一緒だったら、コイツになら教えてもいいのになぁ)
手ぇ、手当てしてもらったし、案内してもらったし…気になるし。
「そーいや、さ…」
「はい?」
一緒に歩きながら、さりげなく切り出す。
「……アンタの名前…聞いてなかったなーって思って」
「私の名前ですか?」
「そ、そう…テニスやってんなら、またどっかで会うかもしんないし、さ、教えてくんない?」
「はい、いいですよ? 私、竜崎桜乃って言います」
「竜崎…桜乃、ちゃん…か」
「……ええと、あなたのお名前は?」
「あ、俺? 俺は、切原ってんだ。切原赤也」
「赤也さんですか…個性的なお名前ですね」
「あーまーな。そういないかも」
「赤…情熱的な色です」
「な…何かそう言われると照れるな〜」
いやははは、と頭を掻いていた若者に、桜乃は微笑みながら先の曲がり角を指差した。
「あそこを曲がると、もうコートですよ」
「お、そっか…ありがとさん」
ぴた、と切原が立ち止まり、桜乃も続いて立ち止まる。
「?」
「あー…もうここでいいぜ? 随分と長く付き合わせちまったな、すまね」
「いいえ、そんな…本当にここでいいんですか?」
「ああ」
これからは偵察になるし…多分軽く一悶着あるだろう。
そんな場面を、この子には見せたくはなかった。
「ありがとな…竜崎」
「えへへ…どういたしまして」
照れる可愛い笑顔を見せて、桜乃はぺこんと礼をすると、切原と歩いてきた道を引き返して行った。
「……」
いい子に会ったな〜とすっかり上機嫌になった切原は、それから軽い足取りで曲がり角を曲がり、いよいよ目的の青学のテニスコートへと辿り着く。
(さーて、要注意人物の手塚ってヤツは…?)
肩を傷めているという話だが、それでもあの立海のバケモノ達を警戒させるとは、余程の腕なのだろう。
しかしもし、ここで一戦交えて、あわよくば叩きのめす事が出来たら、あの三人に挑む景気づけにもなりそうだし…
そうしてる内に、当然、制服が異なる彼はすぐにレギュラーに気付かれ、呼び止められる。
雑魚はどうでもいいか、と思いつつ、切原はそこにいた目的の相手に声を掛けた。
「アンタが部長の手塚サン? ちょっと俺と手合わせしてみない?」
無論、簡単に引き受けてくれるとは思っていなかったし、こちらも期待しちゃいなかった、しかし…
「部外者は出て行け」
端的な…言い捨てる様な一言が、切原の神経をこれでもかと逆撫でしたのだ。
そういう言い方ってアリ?
断るにしてもさ、もう少し言い方ってもんがあんだろ。
「……」
先程までの、桜乃との一時がもたらしてくれた暖かな気持ちが一気に冷めてゆく。
「そんな言い方ってないんじゃない?」
今日は早速やり合うってコトはやめとくつもりだけど…気に食わない。
(何てコトしやがる…折角のサイコーの気分だったのに、勿体無い)
名前は聞いたけど、そうそう会える子じゃないだろうし…それなのに、折角の気分をぶち壊しにしやがって…
今日はあの気分のまま、立海に戻るつもりだったのにさ…!
ってか、あの子が、こんな奴らにテニス習ってるなんて…人が話している間にボールぶつけてくる奴もいやがったし…同情するぜ。
切原は、静かな怒りを秘めて相手の手塚を見据え、ゆっくりと、しかしはっきりと宣言した。
「アンタ、潰すよ…?」
誰にも知られることのない、怒りの理由を胸に秘めたまま…
了
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