弟みたいな?
「あ、そこスペル間違ってますよー」
「うっ…」
「RじゃなくてLなの。重要な単語だから覚えてね」
「…へ〜い」
或る日の放課後、一つの教室で英語の補習が行われていた。
対象者は一人…高校二年生である切原赤也。
そして彼を教育しているのは、彼の英語の担任である竜崎桜乃である。
この立海大附属高校に赴任してから一年足らずの新米教師であるが、その清楚な姿と優しく温和な性格で、生徒達からも慕われている。
長い黒髪と白い肌、整った顔立ちに常に柔和な笑顔を浮かべた彼女は、特に男子生徒達の間では密かなアイドルとして知られている。
年も近いとなれば、更に彼らの熱気は高まるというものだが、元々が天然の桜乃は全くそういう空気を感じることはなく、日々健全な毎日を送っていた。
そして、彼女が赴任して程なく、或る恒例行事が課せられた…それがこの補習授業だった。
説明するまでもなく、苦手教科においてあまりにも芳しくない成績を残してしまった生徒に対する追加授業であるが、英語に関しては必ずと言っていい程の常連さんがいたのである。
それが彼…切原だ。
普段は特に問題行動を起こすでもなく、ひたすらに反抗的という訳でもなく、ごくごく普通の男子高校生なのであるが…普通に『遊びに熱心』なのが災いした。
いかがわしい遊びを覚えないだけまだましだが、普段から彼はテニスやゲームに全ての興味を向けており、勉強などについては正直二の次、三の次状態。
更に英語が苦手科目ということもあり、大体試験の結果は惨憺たる有様なのだ。
そこで彼女…桜乃の補習の出番である。
進級や留年と言う大事に関わる事態である以上、補習を受けない訳にはいかない。
誰もそんなものを好きで受けたい訳ではなく、大体は個人の責任である場合が殆どなのであるが、桜乃は決して相手を責めることはせずに指導を行った。
「じゃあもう一回これに因んだ例文を出すから、並び替えてね」
「えーと、えーと…」
放課後の教室で、桜乃の指示と、切原の唸り声が響き、黙々とした時が過ぎてゆく…これももう随分と馴染みの光景となった。
「…はい、良く出来ました、正解よ」
「うへ〜〜」
「もう…テニスでは物凄く強いらしいのに、そんなにぐったりしちゃって」
「テニスには英文法なんて必要ねーし…大体俺日本人なんだからさ、英語出来なくてもいーじゃん」
へたっと机の上に突っ伏してしまった切原に、くすくすと苦笑いを浮かべた教師は、そっと手を伸ばしてなで…と彼のくせっ毛を優しく撫でた。
「お疲れ様…今日はもうここまでにしましょうか。家に帰ってから、復習も忘れないでね。ゲームばかりしてちゃ駄目よ?」
「う…分かってるって。そう言う先生だって、何度言ったら分かるんだよ。俺を子供扱いすんなって、言ってるだろ?」
「あ、ごめんごめん」
ぷるぷるっと頭を振って桜乃の手を払った切原は、むっとちょっとだけ機嫌を損ねた顔で相手を見上げ、彼の主張に桜乃はすぐに手を引っ込めて素直に謝った。
「切原君が頑張ってくれたから、嬉しくてつい…年も近いし、つい弟みたいに見ちゃうの」
「け、もう姉貴はウチのでじゅーぶんだっての」
「こら、そんな事言わない。私なんかひとりっこだから、兄弟って凄く羨ましいんだから」
「へいへい」
「あーあ、私も切原君みたいな元気で格好いい弟が欲しかったなぁ…」
「……」
さらりと憧れにも似た感想を述べられ、切原は僅かに顔を赤くして視線を逸らしつつ椅子から立った。
「行っていーッスか?」
「あ、うんうん、お疲れ様」
教科書やノートを鞄にしまいこみ、それを肩に乗せると、切原は桜乃よりも先に教室を後にした。
そして、残された桜乃も、自身の教材をとんとんっと机の上でまとめ、両腕で抱え込んでため息をつく。
「……怒らせちゃったかなぁ」
確かに、前にも弟みたいだと言った時に、不機嫌になってたし…微妙な年頃だから、やっぱり頼りがいのある男性と見られたいんだろうなぁ…
ふぅっともう一度ため息をついて、教室の扉へと向き直ると…
「あれ?」
先に帰っていた筈の切原が、顔の上半分をにょっと扉の向こうから覗かせて、こちらを伺っていた。
「ど、どしたの? 忘れ物?」
「…怒ってねーッスよ」
「は…」
一言だけ断り、桜乃の返事を待つこともなくまた一人で行ってしまう。
教室の中で戸惑いながら佇んでいた教師は、ようやく切原の心遣いに気付いたところで、ふふっと笑った。
「優しいんだねぇ、切原君…」
しかし、優しいだけでは厳しい人生を乗り切れないのもまた事実…
その後の試験の結果において、またも切原は補習組が決定した。
補習『組』とは言うが…対象者は彼一人。
「御無沙汰してました」
「いや…面目ね…ッス」
「あはは、じゃあ次の試験を乗り越える為に頑張ろうね」
「はぁ…」
頭を掻いた手をそのままに、切原は力なくため息をついた。
(情ねーなぁ…もうちっとで補習脱却出来たのに)
今回はそれなりに頑張ってはみたのだが…やっぱりテニスの試合とスケジュールが重なったのがまずかったか……
(…てか、竜崎先生、理解ありすぎ…これじゃ怒鳴られた方がまだ気が楽だっつーの…怒られるのは真田副部長で慣れてるし…)
こちらに責任があるのにそれを責めることをせず、ただ一心に、大らかな気持ちでサポートをしてくれる教師の桜乃には、本当に頭が下がる思いだ。
(真田副部長も、先生の爪の垢でも煎じて飲めばいいのになー…)
中学生の頃から鉄拳制裁を身上としている様な男には、そんな希望を言っても無駄とは知っているのだが、願わずにはいられない。
「じゃあ、始めましょうか。ええと、今日もまずは間違った単語の書き取りから…ゴメンね、私今日は並行してやらないといけない仕事があるからそっちもやらせてもらうけど、質問があったらいつでも声掛けて? 切原君優先で付き合うよ」
「は、はい…っ」
『付き合う』という単語を聞いた耳が脳へと信号を送った直後に、持ち主がびくっと僅かに身体を逸らせた。
付き合うよ…?
(…あー、駄目だ俺…こんな言葉一つで動揺するなんて)
最初は、英語の担任が優しそうな…正直、扱い易そうな女性教師でラッキーだと思っていた。
それが、指導を受け、補習を受け、時折雑談などを交わす内に、別の意味でラッキーだと思うようになった。
こんな教師に会えて…ではなく、こんな女性に会えて…という意味で。
自分の年頃の男子の殆どは、クラスの女子や他校の女子…同年代の女性に興味を示すものだ、実際自分のクラスメートも、恋愛話になると同級生の女子の話に花が咲く。
一年の最初の頃は、そういう馬鹿話にもそれなりに乗れていたのに、最近はまるで興味を持てなくなってしまった。
女子の名前を言われても、その姿を思い出すことも出来ない…同じクラスの子でも。
正直、『テニスに夢中だから』という適当な言い訳が出来る状況なのは、余計な詮索を避ける上でも助かったと思う。
実際、自分はテニスの腕もそれなりで、レギュラーにもなっている…中学生の時とあまり変わりは無いが。
それでも、自分だって健全な男子高校生…相応に異性への興味だってあるのだ。
ただ、そんな事を思う時に必ず頭に浮かぶのは、同じクラスの女子などではなく…今、自分の隣にいる、優しく美しい教師だった。
(付き合ってくれたら、そりゃサイコーだろうけど……流石に赤点大魔王じゃなぁ。今回は何とかそれを返上出来るかと思ってたんだけど…はぁ)
付き合うとか、そんな夢みたいなことは言わないが…言いたいけど言わないが、せめてもう少し彼女の自分に対する評価を上げられたらいいな、と思う。
(でなきゃ…また弟扱いだもんな)
「どうしたの? 切原君」
「う、あ、いや! 何でもねーッスよ?」
「そ、か。じゃ、始めようねー」
「ハイ…」
それから切原は机の前に座り、単語の書き取りを始め、その隣に座った桜乃は、何やら難しい内容が書かれた書類に目を通し始めた。
「…先生の仕事…ッスか」
「そうなの、最近色々と忙しくてねー、ちょっと寝不足」
「ふーん…」
書類を眺めつつ答える桜乃の横顔を見つめながら、切原も曖昧な返答を返し、再びノートへの書き取りに集中した。
かきかきかき………
暫く、シャープペンがノートの上を走る音だけが響いていたが…
「…えーと…すんません先生、これ…って」
よく分からない文法が出て来たところで、切原が教師に説明を求めようと久し振りに顔を向けながら声を出し…途中で止めた。
「……」
「すぅ…すぅ…」
寝てる…先生…
(そーいや、忙しいって言ってたよな…)
すぐに起こすのはどうしても躊躇われ、切原は暫く彼女をそのまま寝かせようと決めた。
どうせ今日の部活はこの補習の為に止められているし、少しぐらい伸びても人生が変わる訳でもない。
(…年は近いけど…きっと大人って大変なんだろうなぁ…)
相手が眠っている間は、また書き取りでもやっておくか…
そう思って一度教科書のページを戻し、不意にまた桜乃を見た切原の手から、かたんとシャープペンが落ちた。
「え…?」
なに…涙…?
見間違いかと思ったが、視力には自信がある…やはりそうではなかった。
眠っている桜乃の閉じられた瞳から、大粒の涙が一つ溢れ、すぅっと滑らかな頬を伝っていた。
眠りながら、泣いてる…?
(なっ…何だよ…一体どんな夢見てんだ…!?)
女性が泣くのって、どんな時なんだ…? 全然分からない、想像出来ない!
書き取りどころではなくなった切原が見つめている中で、桜乃はぽつんと寝言を漏らす。
「ご、めんね……」
「…?」
「うう……私の所為で…切原君…留年しちゃったよう〜〜」
(うっわ―――――っ!! すっげぇイヤな夢見てる――――――っ!!!)
どわっと嫌な汗が吹き出した切原の前、まだ桜乃は夢の中で謝り続けていた。
「ごめんね……教え方が…よく、なかったから…」
「……そうじゃないっしょ」
夢の中まで、そんなに優しいんだ…普通は生徒に責任求めるもんなのに……
夢の中だからこそ、その人物の本音が出る……本気で、心配してくれてんだな…
「……」
ちら、と桜乃の顔を見た切原が、何となく赤い顔で視線を逸らした後、そっと顔を相手のそれへと近づける。
冷静な自分が、今の行為をしている自分を見ている感覚があった…が、それを止めることが、何故か出来ない。
恋人でもないのに、本当は…駄目なコトなんだろうけど…けど、今だけ…今だけ…
「…う」
「っ!!」
もう少しで…というところで、微かな声が桜乃の唇から漏れ、まともにそれを拾い上げてしまった生徒は思わずがばっと顔を勢い良く離してしまった。
がたんっ!
その拍子で椅子が大きな音をたて、完全に教師を眠りから醒ましてしまう。
「ふえ…はっ!」
「……」
何事も無かったように教科書に目を向け、落としていたシャープペンを拾い上げて構えるのが精一杯だったが、相手は何も気付かず、何も知らぬままにきょろっと辺りを見回していた。
「や…だ! 眠ってたの? ご、ごめん、不謹慎だったね…!」
「いや、別に…全然」
こっちの方がよっぽど不謹慎なコトをしようとしていただけに、何気ない彼女の言葉が胸に痛い。
「はぁ…ちょっと廊下歩いてくるね。すぐに戻るから」
「あ…はぁ」
からっと扉を開き、外の廊下へと出る桜乃を見送った後、切原はべたっと机に張り付いて大きく大きく息を吐いた。
「…ちぇ…」
良かった…んだろうな、残念な気持ちもあるけど。
(けど、どうしよう…戻ってきたら、俺、まともな顔で会えるかな…)
さりげなく…まぁ、教科書に目をやってればある程度は誤魔化せるか…
「あの…」
「?」
不意に桜乃ではない人から声を掛けられた切原が、はっと顔を上げると、少し開いた扉の向こうに、女子生徒が立っていた。
彼女は、知っている…
「アンタは…」
名前は知らない、けど、確か、同じ学年で…たまに合同授業で話したこと、あった…子だよな?
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