「ふー、いけないいけない…気を取り直して…」
廊下を歩いて、視界を変えて、何とかかんとか眠気を振り払って、ようやく教室に戻った桜乃は、少し開けられていた筈の扉が、今は完全に閉められている事に特に疑問を持つこともなく、取っ手に手を掛けた。
「ごめん、さ、続け…」
『お願い、付き合って!』
室内からそんな言葉が聞こえたと同時に、自分の手が惰性でがらっとそれを開いていた。
もう少し…もう一秒でもタイミングがずれていたら、きっと扉を開くことは躊躇われていただろう。
「あ…」
開いた先には、切原が立っていた…その背中を背後の机に押し付け、目の前の女生徒からの強引なアプローチに圧される形で。
どんな状況だったのかは、火を見るより明らかだ。
告白…恋の告白の現場だったのだ、女子から切原への。
「え…」
「っ…せんせい」
小さな悲鳴を上げた女生徒には殆ど目がいかず、桜乃はただ、狼狽も露な切原の表情を見ていた…が、それもほんの僅かな時間。
「ごっ、ごめんなさい!」
殆ど反射的に謝罪の言葉を叫びながら、桜乃は扉から離れてそのまま廊下を走り去ってしまった。
補習しないといけないのに…でも、こんな状態じゃとても……
頭の中がぐるぐると渦巻いて、自分が何処を走っているのかも分からない…でも、まだ遠くに行かないと…
(私…何で走ってるんだろう…何で…逃げるように、こんな…)
別に自分が悪い訳じゃない…覗こうと思ってた訳でもない…驚きはしたけど、『あら、ごめんね』って軽く受け流して…ちょっと誤魔化す笑顔を浮かべたら、どちらもそんなに気まずくなる事もなかったのに……
「…!」
馴染み深い資料室が見えたところで、桜乃は殆ど条件反射で中へと飛び込んでいた。
英語を教えるに当たって黒板に貼り付ける磁石プレートや、異国の文化を示す大判の写真などがここには保管されており、自分もよく利用している。
走ることを止めた足が、数歩、中に進む内に、しんとした空気が彼女の意識を一気に冷やしてゆく。
(やだ…胸、痛い…)
何故、だろう…『弟』が、誰かに取られてしまうような、そんな姉の気分?
でも、姉でも、こんなに悲しいとか思うのかな…悔しいと…思うの…?
「うわ……嘘…」
まさか、私…切原君を……
「……」
泣きたいのか、戸惑いたいのか、心が迷っている気がする。
(…どうしよ…落ち着いて、落ち着…)
「先生!?」
「ひゃああっ!!」
いきなり声を掛けられて、落ち着くどころか逆に慌てふためいた桜乃がわたわたっと両手を意味なく振り回し悲鳴を上げる。
はっと振り返ると、扉を開いて切原が中に踏み込んでくるところだった。
見られていないと思っていたのに…多少の距離の差は、テニス部レギュラーにとっては支障にもならないという事か。
あれ?
でも、そうすると、切原君…あの子はどうしちゃったんだろう…?
「き、切原君!? どうして…」
「どうしてじゃないっしょ、補習中でしょ?」
何を言ってるんすか、と呟きながら、切原は桜乃に近づく。
動揺している自分より、全然彼の方が冷静だ…
桜乃は、そんな彼を見ながら何とか自身もそうあろうと心で努力する。
「え、でも…あー、なんか…その、ね…お取り込み中だったし…」
「はぁ?」
その場を取り繕うように、桜乃は笑顔で弁解した。
駄目、上手く誤魔化さないと…彼が告白されたのに、それを邪魔しちゃったのに、その上私の勝手な気持ちまで知られる訳にはいかない…!
「本当に、さっきはごめん! わざとじゃなかったんだけど…折角、告白されてたのに…良いムードだったのに、邪魔しちゃったね…」
「いや…んなコトは別に…」
「私はいいから、あの子の処に戻ってあげて。今日の補習はまた次の機会でいいから…弟分の切原君の恋路を邪魔する訳にも…」
「っ!!」
瞬間、ぎらっと切原の瞳が鋭く光った。
どかっ!!
「!?」
鈍い音が部屋の中に響く…
見ると、切原の握られた拳が部屋の壁を勢い良く殴っていた。
彼の視線は、鋭いままに桜乃を見据えながら……
「…っかげんにしろよ!」
「え…」
明らかな怒声にびく、と怯える桜乃に、切原はつかつかつかと早足で歩み寄ると、ばんっと彼女の頭の傍の壁に自分の掌を叩きつける。
「切原…くん…?」
「俺はアンタの弟じゃない!! 弟なんかじゃないっ!…どうしたら、アンタは俺をちゃんと見てくれるんだよ!?」
手を壁につけたまま、切原は責めている自分こそが辛いのだと言わんばかりに悲痛な表情で、もう片方の手で己の胸を押さえ、示す。
「…ちゃんと…って」
「弟だったら、もう無理じゃん! どんなに頑張ったってそれ以上になれないのに、アンタ、まだ俺にそこにいろって言うのかよ!? こんな…こんなに…」
「…え?」
「好き…なのにっ!!」
「…!」
抑え込んでいた想いが、心の堰を砕き、崩落させた瞬間だった。
長く…長く抑えていた分、その流れはあまりに激しく、もう彼自身でも止められない。
「俺はアンタだけが好きなのに、アンタは俺に他の女と付き合えってのかよ! どうしたら、俺を弟じゃなくて男だって見てくれるんだ!?」
「…切原…くん」
「どうしたら…俺の事、恋人にしてくれるんだよ…」
堰から溢れ出した感情の激流は、流れ流れて言葉として桜乃の心に入り込み、それに従い切原本人の心は虚ろになってゆく。
「〜〜〜」
へたり、とその場に座り込み、桜乃は声すら出せずに顔を覆った。
受け取った激流が、心の中にあった全てを押し流していきそうだ。
彼が教え子という事実も、自分が教師という事実も、全て。
ただ唯一残っているのは、自分でも気付いたばかりの彼への気持ち……
気付いたばかりで、自分でもどう扱っていいのか…抱き締めていいのかも分からないのに…
彼は…こんな気持ちをずっと前から抱え込んでいたのだろうか…私の所為で、どうすることも出来ないままに…
「…ごめん…そんなつもり、無かったよ…」
顔を覆ったまま、真っ赤な顔を隠しながら、桜乃は切原に謝った、謝るしかなかった。
「私…知らないで…傷つけてたんだね……」
なのに、最低だ、自分は…
傷つけていながら、相手の言葉に喜んでいる…最低の教師だ。
「先生…」
「ごめんね…」
傷つけてごめん、喜んでごめん…こんな先生で…本当、ごめんなさい。
「先生…立って」
座り込んだ相手の腕を掴んで引き上げ、その露になった表情を見た切原がはっとする。
泣くまでには至らなくても潤んだ瞳、上気した頬、照れた表情で合わせてくれない視線……
正直、こんな気持ちを隠していた事を軽蔑されるかと思っていたところだけど…
これって…こんな反応って…もしかして、さ…もしかして……
「先生…」
「!」
すぅと切原と壁の間に挟まれ、びくんと怯えた様に震えた桜乃が下を向く。
「え、と…何も…ってか、別に痛いコトしねーから怯えんなよ……のさ、先生って…もう他に好きな人、いんの? だから、弟じゃなくても駄目、とか…?」
それなら、仕方ないけど…と覚悟をしていた切原だったが、桜乃はふるっと首を振って否定してくれた。
それだけなのに、ほっとして、嬉しい自分がいる。
「…その…じゃあ、年下の奴って…頼りない?」
「…そんな事は…ない、よ」
まだ俯いてはいたが、それについてもしっかりと否定してくれた。
これはもしかしたら…自分の都合のいい解釈、独りよがりでもないのか…?
じゃあ、次は…次はどんな質問をしたら…
「〜〜〜〜〜」
悩んで、悩んで、悩んで…
ぷちっと切原の頭の中の糸が切れた。
「だ――――っ! もういい、止めだ止めっ! こんなん俺らしくねーし! 竜崎先生っ!!」
「は、はい…?」
勢い良い呼びかけに、思わず桜乃が俯いていた顔を上げると、切原の酷く真剣な顔が目前に迫っていた。
「教師じゃなくて、俺と一人の女性として付き合って! 俺の、恋人になってくれよ!!」
「っ!」
真っ赤な頬が、更に赤くなっていくのが目に見えて分かった。
可愛いっ!!
心で叫んだ切原の前で、相手はその可愛らしい反応のままに動揺しつつ身体を揺らす。
「あ、の…私…本当に何も…知らない、よ…?」
「え…?」
「…その…男の人とお話するコトとか…デート、とか…したことないし、きっと、つまんないよ…?」
「そ…んなこと…!」
駄目だ! そんな事言って、また逃げる…折角、その手を掴めそうなのに!!
切原が、逃げられないように桜乃の細い腕を掴んで身体を更に寄せる。
「じゃあ、俺と恋人になって一緒に話せばいいだろ!? デートもしようぜ! 俺、アンタが一緒にいたらそれだけで十分楽しい、それ以上、我侭言わねーから!」
必死に願いながら、男は桜乃を思い切り抱き締める。
やっと…やっとここまで引き寄せた…離したくない!
「あ…」
「なぁ、だから…『はい』って、言ってくれよ」
「は…」
細く、小さな声が、震えていた。
震えながらも、小さな声は、切原の耳元で…
「……はい…」
と、確かに、聞こえた。
「!!」
小さくても、震えていても、それが切原の心に食らわせた一撃はあまりに大きくて、彼はまた力と心のバランスを見失う。
「せんせ…っ」
「きゃ…」
もう一度顔を見ようと切原が桜乃の腕を掴んだままに身体を離した時、、悲鳴を小さく上げた桜乃の淡い唇が一瞬、しかし鮮烈に男の瞳に飛び込み、彼を誘った。
その誘いを拒むことなど意識の端にも上ることなく、若者はただ従うだけ。
「ん…っ!」
瞳を見開いたままに唇を塞がれた桜乃は、間近で相手の顔を見て…そしてそのまま瞳を閉じ、彼を受け入れた。
キスの前の甘い言葉などない…ただ、心の勢いに任せるだけの口付け…
どちらも、恋愛については不慣れで、これからもこんな風に戸惑いながらの道になるかもしれない。
それでも、二人一緒なら……
「惜しかったね、もう一問正解で補習脱出だったのに」
「くっそ〜〜〜!」
それからはどうなったのかというと…あまり実情は変わっていない。
愛の奇跡は英語の試験へのご利益はなかったらしく、切原はその次の試験でも立派な補習組に収まっていた。
やはり今回も一人だけ、という事で、みっちりと個別指導。
好きな人からの個別指導ならまんざらでもない筈だが、切原は先程から机に突っ伏してばんばんとそれを叩いて悔しがっている。
「補習無かったら外でこっそりデート出来たのに〜!!」
「うん、まぁそうだったんだけどね。終わったものは仕方ないから、前向きに勉強しよ?」
「……」
激しく悔しがる切原に対し、桜乃は然程そんな感情の起伏は見せず、淡々と相変わらずの微笑を浮かべていた。
「……先生は、デート出来なくても嬉しそうッスね」
何だか面白くない、とむすっとした年下の恋人に、彼女は素直に頷いた。
「うん、嬉しいよ」
「?」
「…雑誌とかでよくデートコースの紹介とかあるけど、私にはあまり関係ないみたいね。切原君と一緒なら何処でも楽しいし、お手軽デート」
「!!」
何で…そんなコトをさらっと言えるかな…? 大人の余裕ってヤツ?
そりゃあ、そう言ってもらえんのは嬉しい、けど、さ。
「お、俺だってそうッスけど…その、もう少し…色っぽいムードが欲しいかな、と。デートの代わりでも俺の相手はアルファベットだし〜…ちょっとやる気が」
「…じゃあ」
まだ拗ねている切原に、桜乃がこっそりと耳元で囁いた。
『次の試験で補習にならなかったら、『私から』キスしてあげよっか?』
「!!!」
今後の切原の英語成績が、気になるところである…
了
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