俺の女に手を出すな
都内 某テニスクラブコート
「あの…お早う、リョーマ君」
「竜崎…?」
午前中、そのクラブを訪れた越前リョーマは、意外な人物が先にその場に来ていた事に少なからず驚いた様子で、相手を見つめた。
竜崎桜乃…自分と同じ青学の一年生で、自分が所属するテニス部顧問の孫に当たる少女だ。
その腰まである長いおさげがトレードマークで、性格は温和で非常に大人しい。
少々引っ込み思案な面もあるが、もう一人のよく見知った一年女子よりはましというものだ。
身内の贔屓目でなくても可愛い部類には十分入るのだが、今のところテニスが一番の興味の対象…恋人である越前にとっては、あまり興味のない事だった。
全く無視している訳ではない…よくお弁当を作ってきてくれたり、彼女の心遣いはよく知っているし理解している…感謝も、している。
それでも、面と向かって礼を言わないのは悪意あっての行為ではなく、少年自身が感謝の気持ちを表す事が苦手だったからだ。
桜乃という少女が、それに対して寛大な態度をとってくれている事も、少年のある意味尊大な態度に拍車を掛けていた。
しかし、その彼女がどうして今日、狙った様に自分が訪れたクラブにいるのか…しかもテニスをやる準備万端という出で立ちで。
「…何でここにアンタがいるの?」
そっけない言葉はいつものこと。
もう慣れてはいるが、それでも桜乃は早速おど…と気弱な様子で越前を見た。
「あ…不二先輩が、今日、リョーマ君がここに来るから、たまにはテニス教えてもらったらって…」
(…気ぃ、回しすぎッスよ…不二先輩)
桜乃に面と向かって言わず、心の中でそう呟くのも越前にとっては優しさだ。
しかし、そうか、それで納得だ。
実は今日越前がここに来たのも、先輩の不二が軽い手合わせを越前に持ちかけてきたからだった。
テニスの技量など、注目するに値する『天才』のお誘いとあれば、テニス小僧の越前が乗らない筈は無い。
それに不二だけでなく、他の先輩達も数人が参加するとあれば、例え先約があっても越前はこちらを優先したかもしれない…幸い、当日には予定は無かったが。
だからてっきり先輩達がいると思って来たところが、最初に見たのが桜乃だった為、生意気な一年エースは驚いたのだった。
「あの…リョーマ君」
「悪いけど、今日は不二先輩達と試合しに来たんだ。期待されても、相手するなんて約束は出来ないよ」
何かを話しかけられるより先に、越前はそう言って相手に断りを入れた。
冷たい様に見えるが、相手に変な期待を持たせるより先にすっぱりと断っていた方が、後々面倒にならずに済む…それが彼の考え方だった。
あまりにドライな言い方なのは、幼少時のアメリカ暮らしが影響しているのか、それとも元々の性格がそうなのか…
しかし、何れにしろ、彼の台詞が少なからず桜乃を落胆させたのは事実だった。
「…そっかぁ」
何とか明るく笑おうとするも、やはり全ての感情を隠し切る事は出来ず、少女は所在なさげに自分のラケットを抱える。
ほんの少し…少しだけでも良かったんだけど……でも、しつこく言ったら、迷惑だよね。
そうしている処に、遅れて先輩達が姿を現した。
不二の他にも桃城や海堂、乾達が揃っている。
「あれ? 先に来てたんだ、二人とも」
いつもの様ににこやかに声を掛けてきた不二に開口一番、越前が言い放つ。
「不二先輩っすか、竜崎まで呼んだの」
「そうだよ、たまにはこういう時ぐらい、一緒にテニスするのもいいかと思ってね」
あっさりと認めた不二に、越前がぶすっとして言い返す。
「…竜崎が来るなんて初耳っすけど」
「言わなかったからね、君には…彼女だってテニスが好きなんだし、一緒に相手をしてあげてもいいんじゃないかな」
「俺は今日は不二先輩達と試合する為に来たっすよ…」
「越前…」
困った後輩だ、と言いたげに、僅かに不二が眉をひそめたところで、二人の間に桜乃本人が割って入って来た。
「あの、いいんです! リョーマ君、知らなかったんですから。先輩の皆さん達とテニスやった方がリョーマ君の為になると思うし、私も個人練習した方が集中出来ます…先輩方に相手をしてもらうなんて、ちょっと、緊張しすぎちゃいますから…」
「でも…」
自分が誘った事もあり、不二は何とか彼女に越前の指導を受けさせてやりたかったが、結局、桜乃はそれを自ら辞退した。
長く付き合って、越前が無理強いが何より嫌いな事は知っている、そして非常に頑固なところがあることも。
きっと先輩が言ったから、という理由でその役を押し付けられても、彼本人は嬉しくないだろう…そしてそれは自分にとっても嬉しくないことなのだ。
「どうか、気にしないで下さい。幸い、壁打ちのスペースは空いてますし、無駄な時間は潰さずに済みそうです」
「竜崎さん…」
ぺこんと礼をした後に、一人壁打ちのスペースへ向かっていく少女を見遣り、乾は眼鏡のフレームに触れながらため息をついた。
「相変わらず、越前は竜崎に冷たいのだな…俺が分析しなくても、この恋愛が成就するにはかなりの時間と労力を要する」
「…それで済めばいいけどね」
「ん?」
乾の言葉を受けて、不二は実に渋い顔をしながら越前の背中を見つめた。
「成就どころか、誰かに奪われないといいんだけどねって話…」
あくまでもマイペースに竜崎を振り回して、追い掛けさせるつもりか…それがどんな結果をもたらすか、分からないのかい、越前……
「はぁ…」
確かに個人練習には慣れているけど…やっぱりさっきみたいな事の後だと、ちょっと凹んじゃうなぁ…
知らずため息をついて、桜乃は壁を相手に佇んでいた。
向こうに見えるコートでは、早速彼等が組を分けてそれぞれの試合を始めている様だ。
ここで練習して…今の気持ちのもやもやを吹き飛ばしたら、見学に行こうかな…邪魔にならないように。
それとも、今日は一日、練習に集中した方がいいかな…でも、やっぱり一人では限界があるし、彼らみたいな熟練者ではなくても、誰か、相手をしてくれる人がいたら…
「あ…っ」
ぼんやりとそんな事を考えていた所為か、ポケットに入れようとしていたボールがぽろりと手から零れ落ち、とんとんとんとバウンドしながら離れていく。
それを追いかけ、もうすぐ追いつくというところで、不意に少女の目の前でボールが誰かによって拾われた。
視線を下に向けていた為、相手の姿は足しか見えなかったが、そのしっかりとした筋肉のつき方からすぐに男性だと分かる。
「え…」
他に、壁打ちをしに来た人かしら…?
疑問に思った桜乃が視線を相手の顔に向けると同時に、明るく、はしゃいだような声が自分に投げかけられた。
「へへ、カワイコちゃん、見ーっけ」
「…あ」
その人物の顔を見た瞬間、桜乃は驚きの表情を浮かべ…そして徐々に、喜びのそれへと変えてゆく。
「お久し振りです!…赤也さん」
越前達が使っているコートでは、相変わらずレベルの高い試合が行われていた。
今は彼は桃城を相手にシングルを戦っていたが、どちらも練習と言いながら全く譲る気配を見せない…まぁ、青学メンバー全員が負けず嫌いの集団なのだから当然と言えば当然だ。
そんな試合に集中していた為、越前は桜乃の事を全く失念していた。
しかし、丁度試合が30−30のところで一度途切れた時、向こうの別のコートから、きゃあと女性の悲鳴が聞こえてきた。
悲鳴と言っても危機感迫るものではなく、寧ろ楽しささえも感じさせる口調のそれだ。
多分、誰かが返したボールを取り損なったのだろう、と打ち合いが途切れた事で越前がそちらへと視線を向けた時…
「!?」
ぎょっと彼の瞳がこれ以上はないだろうという程に見開かれ、同時に、かたーんっと彼の手から零れたラケットが、コートに落ちて乾いた音をたてる。
ありえない光景が、そこにあった。
『もう! 赤也さん、力入れすぎですよ』
『わりーわりー! なーんか打ち合ってるウチにマジになっちまうんだよ。大丈夫だったか?』
笑いながら相手を非難する少女に、同じ様に楽しそうに笑って近づいていく一人の若者…
あれは、間違いない…立海の二年生エースの切原赤也…
彼がどうして、あんなに親しげに桜乃と話し、テニスに興じているのか…
越前だけでなく、彼の視線で向こうの様子に気付いた他の青学メンバー達も、唖然とした様子で彼らの様子を眺めていた…不二だけを除いて。
彼らの視線などに気付く素振りも無く、切原と桜乃は明らかにイイ雰囲気の中でネットを挟んで会話を楽しんでいる。
しかも…
『すまなかったな…手首、傷めてないか?』
『あ、大丈夫ですよ。別に痛くないです…』
黙する青学メンバー達の視界の中で、切原が桜乃の細い腕に触れている。
そして桜乃もまた、相手の手を振り払う素振りもなく、なされるがままに微笑んでいた。
『やっぱり男の人の力って凄いんですね…とても敵いません』
『あのなぁ…十キロのウェイト付けて鍛えてる野郎に勝てる女なんて、最早人間じゃねぇって。てか、それで俺が負けたらテニスやめる』
『あはは、それもそうですね』
『けど、アンタっていつも一人で壁打ちやってんの? 飽きね?』
『うーん…正直飽きる時もありますけど…なかなか相手がいなくて』
桜乃の答えを聞いた切原は、我が意を得たりとばかりに自分を指差す。
『へぇ、じゃあさ、暇な時には俺が相手してやるぜ。だから、声掛けろよ』
『ええ? でも、赤也さん凄く上手いのに…私なんか相手じゃ…』
『いーっていーって! そういうのもなんか、ウチの先輩達に言わせたらトレーニングになるんだってさ。力を加減することでコントロール力をつけるとか…ま、力任せにやるばかりがテニスじゃないってコトだな』
『なるほど〜〜』
楽しそうに談笑する二人を見つめたまま動かない越前の背後で、不二が首を横に振りながら呟いた。
「…噂は本当だったんだ」
「……何スか、噂って」
これが桜乃個人の噂だったら、目も向けなかったかもしれない、耳も貸さなかったかもしれない。
しかし、今の越前の心の中には、向こうの二人を見過ごせない、生まれて初めて体験する黒い感情が渦巻いていた。
「…最近、立海の切原が、竜崎さんととても仲がいいって話…試合の関係で青学と立海の生徒が会場で会うことなんて珍しくないだろう? 彼女が一人でいたところを切原が見つけて、色々と親切にしてたって専らの噂だったんだ」
「初耳〜」
へーっと菊丸が感嘆している脇で、桃城が首を傾げる。
「…コートでの豹変振りを見ると、フツーは恐くて寄れないと思いますけどね」
「でもコートの外では普通の学生だからね…竜崎さんって偏見とか無縁の子だから、普段の切原にはそんな事思ってないみたいだ」
「…確かに」
垣根などない二人の様子を見たら、言われなくても納得する、と海堂がふんと鼻を鳴らす。
もし二人を知らない人が彼らが恋人同士であると言われたら、何の疑問も無く信じるだろう。
相変わらず切原は、桜乃に親しげに声を掛け続けている。
『だからさ、次からは青学のヤツなんかに期待しないで、最初から…』
「……」
拾い上げたラケットのグリップをぎちぎちと音がたつ程にきつく握り締め、越前が切原を睨みつけると同時に、手にしていたボールをぽーんと空へと放る。
そして…
「にゃろう!」
何の躊躇いも無く、それを勢い良くラケットで打った…切原に向けて。
もし当たったら間違いなく大怪我だっただろうが、越前は最初からそれが避けられるだろうと踏んでいた。
そして彼の予想通り、ボールは、視線を外したままの切原がすいっと掲げたラケットによって見事に弾かれる。
互いが互いの実力を知るが故に成立した、『威嚇』だった。
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