「っ!」
 ただ一人、いきなり飛んできた流れ玉に驚いた桜乃が息を呑んで切原を見つめ、彼女の前で男は不敵に笑いながら視線を越前へと向ける。
「俺を頼った方がいいぜぇ…? 桜乃」
「リョーマ君…?」
 まさか故意に彼がボールを打ってきたと思っていない桜乃は、何事かと驚きの表情で二人を見つめている。
 その中で、越前はすたすたすた…と彼らの方へと歩いて行き、傍に来たところで彼らをぐるりと見遣った。
「…お楽しみのトコロ悪かったね」
「なーに、気にすんなって」
 バチバチバチッ!!
 物凄い火花が二人の視線の交わるところで散った…気がした。
 無論、見えるものではなかったが、きっと間に人がいたら間違いなく焼け焦げていただろう。
「…竜崎の相手をしてるなんて、随分暇そうじゃん」
「まーな、一人寂しくほっとく人でなしよりは、心のゆとりはあるつもりだぜ。オメーにゃ逆立ちしたって無理だろ、越前リョーマ」
 嫌味を嫌味で返した切原は、軽くラケットを振り回しながら視線を逸らし、付け加えた。
「どーぞ、勝手に試合でも何でも続けろよ、桜乃の世話は俺がしといてやるからさ。正直、ワンマンのオメーよりは俺の方が上手く教えてやれるかもしんねーし」
 イラッ…
 それを聞き、試合に戻るどころか更に越前はイラついた。
 桜乃…?
 何でそんなに馴れ馴れしくコイツの名前を呼ぶんだ、一体いつからそんなに気安く…
「あ、赤也さん…喧嘩は止めて下さい、お願い」
 苛立つ越前の気持ちを更に逆撫でる様に、桜乃が切原のシャツの袖を掴んで相手を止める。
 不安げな顔を、瞳を、切原に向けて懇願する姿は、今まで越前の見た事も無い姿だった。
 赤也さん…? 苗字じゃなくて、名前で呼ぶ、のか…?
「…分かったよ、オメーがそう言うならな」
 そして相手の男は桜乃の言葉を受け入れ、あっさりと身を引いた。
(何なんだ、これ…)
 初めて見る竜崎の自分以外の男性との交流の現場に、越前の心が激しく動揺し、波が立つ。
 あんな顔、見せた事ない…あんな声、掛けた事ない…俺には一度も!
 しかし、そう思いながらも桜乃にそれを責める言葉は掛けられなかった。
 何故なら、そう仕向けていたのが自分自身だったという自覚もあったからだ。
 彼女の願いを聞き流し、差し伸べる手を振り払い、テニスばかりに夢中になってた。
 それでも、彼女はいつも自分の後ろを歩いていたから、それを日常の光景と思っていたのに…本当に何なんだ、これ…!
 要らない……見ていたくない!
「…こっちに来なよ、竜崎」
「え…?」
 イラつく顔を隠そうともせず、越前は桜乃に呼びかけて自分達のコートへと身体を向ける。
「テニスの相手、してやるからさ」
「リョーマ君…?」
 不思議そうに尋ねる桜乃の隣で、切原が唇を歪めて肩を竦める。
「いらねーよ。相手なら、俺一人で十分だろ」
「そう言わずに、切原。ここは引いてくれないかな」
「ん…」
 そこに割り込んできた静かな言葉に、切原が身体を向けると、穏やかに微笑む不二の姿があった。
「珍しく越前が彼女の相手をする気になっているんだし…引いてくれるなら、その間は僕が君の相手になるよ。どうかな」
「…ふーん?」
 悪戯好きな猫の目をした少年は相手の誘い言葉に反応を示し、ちらっと越前達を見て唇を歪めた。
「…先輩としての援護射撃ッスか?」
「さぁね」
 惚ける相手だったが、先ず間違いなくそうだろう…そう思いながらも切原は相手の要望を受け入れた。
「…ま、いいッスよ、アンタとの試合ならそれなりの価値があるし…俺の勝手でアイツ縛るのも、何か違うし」
「……ふぅん」
「? 何スか?」
「…どうやら本気なんだね」
 今の若者の言葉に、子供染みた無いものねだりの匂いが感じられない事に対して、不二はそう言った。
 もし力ずくで引き離そうとするようだったら、二人の絆など放っておいてもいずれ崩れただろうが…これはかなり手強いみたいだね、越前。
 きょとんとした切原は、相手の意図するところにすぐに気付き、悪びれるでもなく断言した。
「トーゼンっしょ」


 結局、それからリョーマは一度も桜乃を手放そうとはしなかった。
 先輩達との試合も放棄し、ずっと彼女に付いていた…まるで相手が消えることを酷く恐れるように。
 嫉妬なのか、羨望なのか、欲求なのか…それはきっと本人も分からないのだろう。
 そして分からないままに、コートを使っての越前の桜乃への指導は終わり、青学メンバー達は彼女も含めて全員で帰ることになった。
 無論、神奈川圏であり他校の切原は別行動となる。
 ボールの返却などで桜乃が席を外している間、ベンチに座っていた越前の傍に切原が歩いてきた。
「…おい、越前リョーマ」
「…ナニ」
 正直、相手の顔はもう見たくもなかったが、彼の言葉を聞かない訳にもいかなかった。
 そこに桜乃という少女に関する何かが含まれているのならば…
「本当はすっげぇ不本意だけど、帰りはアンタらに任せるぜ。いいか、桜乃をちゃんと無事に帰せよ」
 続けて、切原は堂々と宣言する。
「俺の女になるヤツなんだから」
「…」
 桜乃本人がいないのを幸いに、越前がぎらっと帽子の下から物凄い殺気を帯びた瞳で相手を見上げたが、彼は全く怯む様子も無く、寧ろ嬉々として睨み返してくる。
 『オメーなんかに渡すかよ』
 言葉にせずとも、目を見るだけでそんな台詞が伝わってきた。
「…ねぇ」
 越前の声が低く響いた。
「…もしかして、俺にテニスで勝てないからって竜崎狙ってんの?」
「へっ、言うと思った」
 明らかな挑発だったが、相手は予想していたとばかりに笑うに留まり、それに乗ってくる様子は無い。
「ワリーけど、俺はそこまで器小さくねぇ…って言うか、別にアイツはオメーのもんじゃねーだろ? 越前リョーマ。勘違いしてるのはそっちじゃねーのか?」
「勘違い?」
「いつも傍にいるからって自分の自由になるなんて思うなよ。オメーはいつもアイツよりテニス、テニスだったじゃねーか…まぁそれは個人の自由だ、好きにしな。けど、俺は少なくとも、オメーの百倍はアイツの笑顔を見てるんだぜ? 知らねぇだろ、アイツがどんなに可愛く笑うのか」
「!」
 俺は知っている…とばかりに切原は口元に笑みを刻む。
「おどおどした顔しか知らねーだろ? オメーがそうさせてたんだから」
 会場で、桜乃に対してつれない態度を取り続けていた越前に、何度怒鳴ってやろうと思ったか知れない…が、結局それは諦めた、と言うよりもっと良い方法を見つけた。
 別に、ヤツじゃなくてもいいんじゃないか?
 最初は、桜乃の意志を尊重して気になりながらも放っておいたが、やがてそんな気持ちが湧きあがってきたのだ。
 いつまでもあんな報われない想いを抱えるなら、俺が傍にいてやった方が余程ましなんじゃないか?
 同情じゃない、同情なんかでこんな苦しい気持ちを抱える訳が無い。
 桜乃があの小さなルーキーを必死に追いかける姿を見る度に、自身の胸は押し潰される程に痛んだ。
 だから、思い切って声を掛けた、会場の片隅で。
 最初は警戒しているのが目に見えていたけど、それでも、段々笑ってくれるようになって…心を開いてくれるようになった。
 しかし、自分は知っている、気付いている、まだ彼女の心の中には越前に対する想いも消えていないことを。
 それでも、もう諦める訳にはいかなかった…自分だって本気なのだ。
「テニスについても負ける気なんかさらさらねーけど…桜乃はオメーには渡さねーからな。オメーだけじゃねぇ、誰にもだ」
「……」
 もしかしたら、今にも目が真っ赤に染まるのではないかと疑う程に熱の篭った言葉を発した切原に対し、暫く無言だった越前がすっくと立ち上がる。
 表情は帽子の下に隠したまま口元をしっかりと引き結び、数秒沈黙を守った少年は、ぼそりと呟いた。
「…Don’t mess with my girl(俺の女に手ぇ出さないでよ)」
「…???」
 実に明快な反撃。
 英語が苦手な切原に対し、見事なスラングで返した越前は更に続けた。
「I mean it, too…You’re starting to bug me(俺だって本気…ムカつくんだよね、アンタ)」
「何言ってるかは分かんねーけど喧嘩売ってる事はよーく分かるぜ」
「へぇ…勘はイイじゃん」
 これ以上英語で返しても今度は会話そのものが成り立たない…言いたいけど、そうそう他人に聞かせる訳にはいかない自分の本音を言葉にした事で、ある程度は溜飲が下がったのか、越前は再び日本語モードに切り替える。
「アンタが俺をどう言おうといいけど、そんな願い、俺が素直に聞くと思ってんの?」
「やっぱりかよ。オメーこそあんなにアイツを振り回しといて、今更虫が良すぎるんじゃねぇのか?」
「…アンタが本気になった俺よりアイツを幸せに出来るなら、勝手にどうぞって、言うんだけどね」
 まさかこんなコトで、こんな奴の為に、自分の気持ちに気付かされるなんて思ってもみなかったけど…テニス以外で、ここまで闘争心を掻き立てられることも初めてだけど…
 気付いた以上、俺だってもう遠慮も容赦もしない。
「…へぇ」
 明らかに…切原のプライドに思い切り傷をつけた越前はいつもの様に不敵な笑みを浮かべ、対した相手は、ざわりとこの日初めての殺気を滲ませた。
「……オメーがどんだけ足掻いても、俺はアイツの手を離す気はねぇからな」
「足掻いて沈むのは、ソッチの方だと思うけど」
 バチバチバチッ!!
 本日二度目の火花合戦。
 その近寄りがたい雰囲気に、遠くにいた桜乃は何が起こっているのか、何が理由なのかも分からないまま、二人の様子を見ていた。
「あうう……何か恐い…」
 その原因がまさか自分だとは思いもせず、彼女はきっと彼等がまたテニスで張り合っているのだろうと考えた。
(……切磋琢磨するのはいいけど、もう少しフレンドリーに出来ないのかなぁ)
 フレンドリーに一人の女性を奪い合うなんて事は先ず不可能なのだが、無論、桜乃はそんな事は考えていない。
「どうしたの、竜崎さん」
「あ…不二先輩…いえ、あの二人がまた」
 そこに来た不二の質問に桜乃が彼らを指し示し、促されてそちらへと目を向けた男は、暫く自分の後輩の様子を眺めて薄く笑った。
「…おや、どうやらやっと気が付いたみたいだね」
「…え?」
「いや…越前がね」
 やっと、手許の花を奪われようとしているコトに気付いたかって事…
 心の中でそう答えると、彼はすっと桜乃を見下ろして一つの質問を投げかけた。
「…竜崎さんは、越前が好きかい?」
「えっ!?」
 あまりに唐突な質問に、桜乃はかぁっと真っ赤になりながら言葉に詰まる。
 それって、一体、どういう意味での…
「ああ、御免…あまりそう深く考えないでいいよ。意地悪な質問だったかな、嫌いな相手にあそこまでアプローチすることはないよね」
「〜〜〜〜〜〜」
 淡々とそう分析され、言葉も無い少女に、更に天才は質問を重ねた。
「…切原はどう?」
「はい!?」
「切原のことは、好き? 嫌い?」
 一体、どうしていきなりそんな質問ばかり…
 疑問は尽きることが無かったが、この穏やかな笑みを称えている先輩は、多分こちらがそれについて問うても答える事はないだろう…
「…好き、ですよ」
 仕方なく、桜乃は正直な感想を述べた。
 いつかの公式試合でその会場で会った時は、どうしてもあの赤目の印象が強くて自然に笑う事は出来なかったが、それでも自分の事を気遣ってくれていた彼の優しさには気付いていた。
 きっと向こうも女性の相手は慣れていないだろうに、何故かとても良くしてくれて、優しくしてくれて…コートの中の彼と同一人物とは思えない程に。
「…じゃあ、二人のウチ、どっちが好き?」
「…えっ…?」
 意外な問いに、桜乃の脳内の時計が止まった。
 どっちがって…それって…二人のうち一人を選ぶってコト…?
「越前と切原と、どっちが好きなの?」
「それは…」
 言われ、桜乃は視線を彼らの間で何度も彷徨わせる。
 初めて突きつけられた、思いも寄らない難問だった。
 どっちだなんて…考えたコト、無かった…
(え…どうして…? 私、選べない…)
 リョーマ君も赤也さんも…大好きだけど…どっちがなんて…
 そんな事、考えたことなかったのに…ううん、確かに好きだって思ってた…前は、一人だけを…でも今は…
「……昔の君なら、迷わずに越前を選んだだろうね」
「!!」
 的確に指摘され、少女は言葉を失い、不二を見上げた…明らかに戸惑いの色を滲ませた瞳で。
「不二…先輩?」
「切原もやるね…君の心にそこまで食い込むなんて、よっぽど執着したんだろう…君に」
「え…」
「そして、執着に気付いたのは切原だけじゃない…」
 あの様子だと…越前も今までみたいに黙ったままではいないだろう…
 先輩として心配していたけど、これはある意味その気持ちが報われたと言えるのかな?
 この子は……慌しい時を迎えるだろうけど…
(…嵐が来るね)
 テニスじゃなくて…恋の嵐が。
 自分の心の揺らぎと惑いに翻弄されている少女を見遣り、そして相変わらず向こうで無言の戦いを繰り広げている二人の若者達の様子を見つめ、不二は新たな見えない勝負が始まった事を悟っていた……






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