痛む想い
『赤也―――――――っ!! 貴様は毎回毎回懲りもせず―――――っ!!!』
『ぎゃ―――――――っ! すんません副部長――――っ!!』
「…また、あの人は……もう」
聞こえてきた怒声と詫びの声に、竜崎桜乃は苦笑しながらそちらを見遣った。
今自分が立っている処は屋根つきの炊事場であるが、壁らしいものはなく吹き抜けなので、外の様子は難なく知る事が出来る。
ここから見える即製のテニスコートの脇で、二人の男性が佇んでいるのが見え、桜乃はすぐに彼らが立海大附属中学の生徒であると察した。
それは、彼らが着ているテニスウェアが同校の指定のものであると同時に、一人はトレードマークでもある黒の帽子を被っており、もう一人はくせっ毛の若者だったからでもあった。
最早、間違いようがない。
黒の帽子の若者は、立海の男子テニス部副部長である真田弦一郎、そしてくせっ毛の若者は同部の二年生エースでもある切原赤也だ。
二人ともテニスの能力に関しては突出したものを持っているのだが、その性格は正に正反対。
鍛錬が趣味の厳格な副部長に対し、切原は普段は昼寝やゲームが大好きで、とにかく隙があればテニスの練習を少しでもサボろうとする。
まぁ、楽をしたいという気持ちは人として多少分かる処も有るのだが、彼については少々度が過ぎている場合もあるので、副部長からこっぴどく説教を受ける事もしばしばだった。
そしてそんな二人の様子を違う学校の桜乃もここに来てから随分見せられているので、今はもう驚きもせず、慣れきってしまっている。
(…ここに来て、結構度胸がついた気がするなぁ…まぁ、遭難なんてそうない経験だけど、あの二人を見ていたら、自分が事件に巻き込まれてる事も忘れてしまいそうだし…)
バカンスに行く予定で乗り込んだ客船が、台風に遭遇して沈没の憂き目を見るなんて、映画の中だけの話と思っていた。
その映画のワンシーンの様に救命ボートに乗り込んで船を脱出し、この無人島に辿り着いたのがつい先日のこと。
せめて自分だけではなく、同じくテニス合宿目的で船に同乗していた多数の学校の男子生徒達と一緒だったのは、不幸中の幸いだった。
一人だけでこんな災難に巻き込まれていたら、きっと心が折れていただろう。
皆がいてくれる…そう思うだけで、どんなに励まされることか。
一緒にいた祖母にはまだ会えてはいないけど、彼らと一緒だと、自然と希望が湧いてくる。
(…まぁ、切原さんに関しては、別の意味で災難を忘れる事が出来るけど…)
あれだけ賑やかに騒がれると、自分が置かれている境遇すら忘れてしまうのだ。
いい方向に働いているのだ…と思いたいが、その一方で別の不安も生じている。
「…あああ、やっぱりまたぶたれちゃってる…うう、痛そうだな〜」
あの常勝立海を掲げている部の副部長はとにかく容赦がなく、これまで何度も彼の切原に対する鉄拳制裁を見せられていた桜乃は、今回もその例外ではなかった事を遠巻きに見て確認していた。
(見ているだけでこっちが痛くなっちゃう…切原さんも、もう少し真面目になったらいいのに)
あれだけ見透かされているなら、諦めて練習に打ち込む選択肢はないものかしら、と思いつつ、桜乃は自分の白いハンカチを水に浸した後に軽く絞ると、それを持ってあの二人の処に向かっていった。
もうすぐ話せる距離に入るかというところで、真田の説教に区切りがついたのか、彼は切原から離れていき、そこには切原一人が残された。
「いててて…あ〜ちくしょ、あいっかわらず容赦ねーなー」
「切原さんが懲りないからですよ」
「んあ?」
桜乃の声に振り返った切原は彼女の姿を確認し、うっと気まずそうな顔をすると、見られていた事を察して舌打ちした。
「何だ、アンタかよ」
「すみませんねぇ、私で…えいっ」
ぴたっ…
「おっ…」
ぞんざいに返事を返されてちょっとだけむくれた桜乃が、手にしていた濡れたハンカチを彼の左頬に当てた。
先程真田に打たれたばかりの場所で赤く腫れていた皮膚に、濡れた生地がひやりと心地良い感触を伝えてくる。
「冷やしていたら、少しはましですよ。使って下さい」
「……サンキュ」
相手の心遣いに、切原は礼を言いつつ今しがたの自分の対応を後悔した。
しまった、つい怒られたばかりで八つ当たりみたいな対応をしてしまった…彼女には何の落ち度もないのに。
「…すまねーな、つい、イラついちまって」
「いいですよ、分かってますから」
鬱々と重い気持ちを抱えるより、早く詫びようとする気持ちは見上げるべきところかもしれない。
「…アンタはいい人なのに、青学の生徒なんだよな」
「……そう聞くと、青学が物凄い問題校みたいに聞こえるんですけど」
「だってよー…そっちの部長サンは無愛想だし笑わないし、越前リョーマは生意気だし…」
「向こうも多分、似たような事言ってますよ」
子供みたいな言い分に、桜乃は口元に手を当ててくすくすと笑った。
手塚先輩はそんな事は言わないだろうが、あの一年生は負けないぐらいの毒舌をかましてそうだ。
「真田さんも凄く厳しそうな方ですし、切原さんもコートに上がったら手がつけられないぐらいに好戦的になるじゃないですか。目が赤くなったら特に」
「そりゃそうだけど…そういや、アンタは俺を恐がらねーのな」
「恐がる?」
何で?と逆に不思議そうに聞き返した少女に、切原がええと、と頭を掻いた。
「こう言っちゃ何だけど、赤目の俺を見た奴…特に女子って恐がる奴も多くてさー。まぁ、分かるけどな…けど、女に暴力揮う程クズじゃねーっての」
「でしょうねぇ…じゃあ、恐がらなくてもいいんですよね」
「おう……あれ?」
話が落ち着いたところで、切原が首を捻る。
そもそも何の話だったっけ、これ…俺をこいつが恐がらないって話で…それで?
いつの間に、何で、勝手に、話が落ち着いてんだ…?
「ん?…」
若者がまだ悩んでいる間に、桜乃は自分の仕事を思い出した様子で、あっと炊事場の方へと身体を向けた。
「ごめんなさい、切原さん。私、夕食の仕込があるから行かなくちゃ…あんまりサボっちゃダメですよ? 今のところ、真田さん相手じゃ勝率ゼロです」
「むぐっ!……よ、よけーな世話だっての!」
「うふふ…じゃあ、失礼しますね」
忠告の後で向こうへと小走りに駆けて行った少女の後姿を見つめながら、切原はまた少しばかりふてくされていたが、やがてその意識は頬に当てていたハンカチへと移った。
「あ…」
しまった、つい、返しそびれちまった…
(…ま、いいか)
すぐに返すのも、何だかよく分からないけど勿体無い気がするし…と思いつつ、切原は既に乾きつつあるそのハンカチをポケットの中にしまい込み、夕食時に返すまで大事に持っていた。
その日の夕食が済み、桜乃が炊事場で片づけを行っていた最中のこと…
「竜崎、ちょっといいだろうか」
「はい…?」
食器を洗っていた時に背後から呼びかけられ、何気なく振り向いた桜乃の視界に映ったのは……
「きゃ――――――っ!! 切原さんっ!?」
真田の片腕で抱えられ、きゅう…と完全にのびた状態の二年生エースだった。
「心配要らん。俺の鉄拳で少々眩暈を起こしているだけだ」
(あああああ……勝率ゼロ記録更新…)
真田の無情な一言に、桜乃が切原を哀れんで心の涙を流すが、相手は無論そんな事実を知る由もなく、淡々と彼女に用件を述べた。
「竜崎、すまんが暫く、こいつを預かってくれんか」
「はい?」
抱えた若者へと視線を向けた真田が憮然とした表情で事の次第を説明する。
「何度言っても、こいつは隙あらば練習をサボろうとする。最早、並の監視では埒が明かんので、それならばいっそ、普段は目の届きやすいここで仕事をやらせておけばいいとの蓮二の判断だ。無論、預かるお前に監督権を任せるので、サボりさえしなければ自由にこき使ってくれて構わん」
「…それって、聞き様によっては態のいい奴隷発言ですよ…」
「お前がそういう真似をする女性である確率はゼロパーセントとの蓮二の判断だ。それと、もしその間にも赤也がサボっていたら、一回につき、こいつの食事を一回抜かせてもらう」
「え!? そ、それはあんまりなんじゃ…切原さんもれっきとしたスポーツマンだし、何よりレギュラーでしょう?」
一食を抜いても、それは彼の身体に大きな影響を与えるのでは?という桜乃の異議申し立てに、察していたとばかりに相手の副部長は返した。
「お前ならばそう言うだろうと思っていた…そしてそんなお前なら、おそらくそういう事態になったら自分の食事を赤也に与えるだろう…違うか?」
「…」
既に考えていた最悪事態での対処策をあっさりと看破され、桜乃が言葉に詰まると、真田はにやりと笑って付け加えた。
「しかしそれは竜崎の自由だ……つまり、今度からサボると、お前が竜崎を飢えさせる事になる…分かったな、赤也」
どうやら今のは、既に目が覚めていると踏んだ後輩への念押しだったらしい。
「マジで鬼ですかアンタは〜〜〜〜〜〜っ!!!!」
目が覚めていた切原が顔を上げ、真田に向けて抗議の声を上げたが、向こうは全く意に介していない。
「聞こえんな」
「ンなコトしたら、竜崎、餓死しちゃうっすよー!」
「自分が行いを改めるという考え方は出来ませんか〜…」
これは重症だな、と思いながらも、桜乃は少しだけ考えてみた。
真田が、安易に相手をこちらに任せるという事はあり得ない、これはこれで向こうが考えた末での結論なのだろう。
確かに切原は今まで真田の目を擦り抜けて…実際は擦り抜け切れなかったが、休憩に走る事もよくあったが、今までの対応を繰り返したところでおそらく結果は変わらない。
今は、環境を変えてみるのも一つの手なのかもしれない。
自分も、幾ら何でも本当に素直に餓死するつもりはないし…何より、彼のサボり癖は確かに何とかしないといけないだろう。
「…私は別にいいですよ。働き手が増えるのは歓迎ですし」
「いい!?」
てっきりこちらは断るとばかり踏んでいたのだろう切原が、ぎょっとした顔で振り向き、桜乃はにっこりと朗らかな笑顔で彼に答えた。
「一緒に餓死しましょうか、切原さん」
「……マジ?」
そして見事、切原は暫し桜乃の許に、丁稚奉公に出される事になったのである…
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