「お早うございます」
「おあよ…」
 翌日より、早速切原の炊事場業務が始まった。
 取り敢えず、テニスに関わる活動はその学校のメンバー主体で行われるということなので、その時間帯は切原は彼らの許に戻されることになる。
 そして他の生徒達との共同作業の場合も、他の人の目があるので、そちらへの参加も許可される。
 そう考えると、彼が実際炊事場にいるのは決してそれ程長い時間ではないのだが…
「取り敢えず、今日は朝食の準備から始めましょうか。大体の仕込みは終わっているんですけど、切原さん、キャベツの準備をお願い出来ますか?」
「へ…? キャベツ?」
 どうやらまだ意識の半分は夢の世界に囚われているのか、受け答えがはっきりしない。
「サンドイッチと一緒にトマトと千切りキャベツを出そうと思って…私はスープの味付けがありますから、お願いします。こっちが片付いたら、私も手伝えるので」
「あー、ああ、千切りね…はいはい」
 頷いてまな板の置いてある炊事台へと向かった切原を隣に、桜乃は前の鍋の中へと集中し…そして何気なく隣を見ると、キャベツを前にした切原が包丁を握っていた…逆手で。
「きっ! 切原さん!?…だっ、誰を殺るつもりなんですか…?」
「へ…?」
「包丁っ! 包丁っ!!」
「あ、包丁ね…ほうちょ…」

 ぶす…っ

 嫌な効果音が二人の耳に聞こえた。
 何気なく、自分の持つ包丁に、切原がもう片方の手で触れたのだ、よりによって刃の先端を。
 正気の沙汰とは思えない…そして確かに、彼はその時、正気ではなかった。

『……』

 彼らは暫し、意識を現実から逃避させる様に沈黙していたが…
「をわああああああああっ!! 血ィが出た、血ィ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
「きゃああああああっ!! 指振り回しちゃダメです〜〜〜〜〜っ!!」
 朝っぱらから大騒ぎ。
 せめて、朝食当番で朝が早かったお陰で、誰にもこの醜態を見られずに済んだのは不幸中の幸いだったと言えるだろう。
「ちょっ…と、取り敢えず指見せて下さいっ! 傷を見ないと!」
 慌てながらも桜乃は彼が振り回す左腕を押さえて、指先を自分の方へと引き寄せた。
 真っ赤な血液が、もう彼の中指の先端から溢れ、滴っている。
「わ…わっ!」
 その鮮やかな色彩が桜乃の動揺を誘い、彼女は兎に角、流血を止めなければと夢中になった。
「ん…っ」
 ちゅう…
「へ…」
 出血で既に目が覚めていた切原が、再び頭を殴られた様な視覚的衝撃を受ける。
 目の前で、桜乃が自分の中指を咥え、流れていた血を舐め取っていた。
「っ!!!!!」
 まるで血を止める儀式の様に、彼女の滑らかな舌がそっと傷口の部分をなぞり、それに伴って微かな痛みが走る。
 そして、経験した事もない感覚が切原の全身を走り抜け、彼の意識は完全に麻痺した。
(な…何…? 何が起こってんの…?)
 ぼーっとしてしまった彼の意識を再び現実に戻したのは、やはり桜乃だった。
 唇を指から離すと、彼女はぐいと彼の腕を引いて、今度は水の入ったポリバケツの方へと連れて行く。
「み、水で流しましょう、冷やしたら血も止まりますから、さぁ!」
「あ…え…?」
 半ばパニックに陥っている少女は自身の行動になど思い至っておらず、若者は若者で、まだ正常な反応が出来ずに為されるがまま。
 すぐに彼は柄杓で掬った水で傷口を洗い流され、その後に桜乃は近くに備えてあった救急箱を持って来ると、手際よく相手の傷の手当を行った。
「良かった〜…出血は派手でしたけど、傷口はそんなに広くないです。でも、念の為に包帯巻いておきますね、絆創膏じゃあ不安ですから」
「あ…ああ…」
 これはもう完全に、傷口に口付けたなんて覚えてもいないだろうな…
 自分はもうさっきの光景しか目の前に浮かばなくなってしまっているのに…けど、言う訳にもいかないよな。
「……」
 水であれだけ洗い流され、消毒も受けたのだから、彼女の名残など残っている訳もない…が、指先には確かに彼女の舌の感触が残っている。
 それを惜しむように切原は包帯を巻かれた指をじっと眺めていたが、一方の桜乃は大幅に遅れてしまった朝食の準備に大わらわだった。
「きゃ〜〜〜っ! もうこんな時間!? 切原さん! こっちは私一人で何とかしますから、食器を並べておいて下さい!」
「あ、ああ…分かった」
 今度こそ目が覚めた切原は、桜乃の指示に従ってようやく手伝いの仕事に取り掛かり始めたのだった。


『キャベツの千切りをマスターする』
「……」
 その日の夜、真田は火の番をしながら、山側の合宿メンバーの中で気付いた点、書き手の目標などを書き込むための日誌を前に、無言で腕を組んで渋い顔をしていた。
 そこに、同じ学校で部の参謀を務める柳が通りかかる。
「どうした、弦一郎」
「…日誌に、赤也が合宿中の抱負を書き込んでいたのだが…」
 それ以上は口にしたくないと彼は柳に日誌を見せ、相手もその開いたページを目にすると、顎に手をやり沈黙する。
「……うーむ」
「少しでもサボる悪い癖を直そうと竜崎に助力を頼んだのだが……少々早まってしまったかもしれん」
 自分達はあくまでテニスの合宿に来たのであって、料理学校に来た訳ではないのだが…
 とは言え、監督権をあの少女に譲ると言ってしまった以上、こちらから更に口出しをする事も憚られる。
「…あいつが妙な趣味に目覚めないといいのだが…」
「確か、赤也は家庭科は大の苦手だった筈だ、まぁその可能性は低いだろうが…ところでその本人はどうした?」
「ああ、今はあそこで…」
 真田が指し示した先は、例によって炊事場。
 そこでは、桜乃と一緒に肩を並べた切原が、明日の仕込みか何かを行っていた。
 今日は誰の食事も抜かれた事実はなかった…という事は、切原のサボりも陰をひそめていたという事か。
「……」
 柳は、じっと桜乃と何かを話しながら作業を行う切原の様子を熱心に見つめている。
 相手の気合の入り様に、真田も彼と炊事場を何度も交互に見ながら首を傾げた。
「…どうした? 何か、気になるところが?」
「いや、当初は赤也の行動を把握し易いことを期待して、炊事場での作業を勧告したのだが…もしやしたら、期待していた以上の効果が望めるかもしれん」
「ん?」
「……少なくとも、竜崎にとって不利益になる真似は、もう奴には出来ない筈だ…これについては意外な誤算というものだな」
 そう言われても、依然理由が分からないでいる真田が眉をひそめている隣で、柳は微かな笑みを口元に浮かべていた。


「驚いた、じゃあ切原さん、家庭科以外で包丁握った事ってなかったんですか?」
「いや、まぁ…年に何回かぐらいは…」
 柳達がそんな会話を交わしている一方で、桜乃に指導を受けながら、切原は改めて包丁の握り方から切り方の基本を学んでいた。
「でも逆手はあんまりですよ…」
「いや、あれは流石に俺もやらねぇ…つかやったけど…完全に寝惚けてた」
「危なかったですね…あ、また肩が力みすぎてますよ?」
 もう少し力を抜いて…とアドバイスしながら桜乃の手が相手の肩に優しく触れると、切原は内心どきりとしながらも、気付かれないように素直に頷く。
「わ、分かった…」
「手伝いに前向きになってくれるのは嬉しいですけど…テニスの方を第一に考えて下さいね?」
「おう、そりゃやっぱな…けど、それ以外の時は…その、ちゃんとやるからさ」
「やっと二年生エースの自覚が出てきました?」
「ちぇっ、んな言われ方されても嬉しくねーっての」
「うふふふ…」
 そんな会話を交わしながら何とか仕込みを終えたところで、桜乃は思い出した様に、包丁を片付ける若者に声を掛けた。
「あ、切原さん。包帯を替えましょう」
「へ?」
「新しい傷ですから念の為にもう一度消毒しましょう。利き手じゃありませんけど、化膿したら大変です」
「あ……ああ」
 また、彼女が指を咥えた姿が目の前にちらつき、曖昧な返事を返してしまったが、向こうはやはり気付いていない様子で再び救急箱を持ち出してきた。
「じゃあ、包帯外しますね? 痛かったら言って下さい」
「そんなヤワじゃねぇって」
「…限界に挑戦してみます?」
「いい! いい! フツーにしてくれていいからっ!!」
「ふふ…冗談ですよ」
 にこにこと笑いながら、少女は言葉の通り、細心の注意を払いながら再び傷口の消毒を行い、包帯を巻きなおしてくれた。
 その間、切原はずっと自分の手に触れてくれる相手の柔らかな手の感触を感じていた。
 白くて小さな手…自分のそれより華奢なのに、包丁を握ったら自分より全然器用に動いて、魔法の様に美味しい食事を作り出してゆく。
 調理なんて退屈なものだと思っていたけど、こいつが作っているところだけは何故か目が惹き付けられる。
 何だか…今日の朝から、俺…ヘンだ…
「はい、終わりです」
「えあ…? もう?」
「もうって…切原さん、もしかして…」
「…………ち、ちがっ!! マゾじゃねぇから俺っ!!」
 あらぬ誤解を受けそうになり、慌てて若者はそれを否定すると席を立った。
「あ、明日も同じ時間にここに来たらいいんだよな!? じゃ、俺行くから、お休みっ!!」
「あ…はぁ、お休みなさい…」
 きょとんとする少女に構わず、切原はそのまま自分に割り当てられたロッジに引っ込み、早々にベッドに潜り込んでしまった…


 そしてそれから、切原は桜乃に家庭科の手ほどきを受けつつ傷の手当てもしてもらうようになったのだが、無論、傷が塞がり、小さくなっていくに従って、手当ての程度も軽くなってゆく。
(相変わらず大きいな、切原さんの手…傷もすぐに小さくなっちゃったし、男の人の手って、凄く力強い。それとも切原さんだから、そんな事を考えるのかしら)
 日々長く接して、手当てを行っている内に、桜乃は相手に知られる事のない想いを抱くようになっていた。
 最初は、真田から願いを受けて責任を持って引き受けた仕事だったが、今はもうそんな事実を抜きにして、純粋に彼との一時を楽しいと感じている。
 最近はサボり癖もすっかり息を潜めて、真面目にここにいてくれるようになったし…
(傷が小さくなって、技術も上がって、そろそろ私の手当てもお手伝いもここまでかな…寂しいけど、でも、気付かれないようにしなくちゃね…)
 しかし、そんな寂しさを感じているのは、桜乃だけではなかった。
(なーんか最近は物足りねーなー…そりゃ確かに、もう殆ど塞がってるけどさ…)
 切原もまた、桜乃同様、触れ合う時間が削られていくのを好ましくないと感じていた。
 今更こんな事を思うのは不謹慎極まりないが、もう少し傷が深くても良かったとすら思う程に。
 しかし、彼もまたそんな素振りを見せることもなく、今も静かに相手の手当てに自分を委ねていたのだが…
「…うん、傷も殆ど良くなったし…これならもう絆創膏でもいいかも」
「!」
 耳を疑う台詞に、若者の全身が一瞬、強張った。
「切原さんの包丁捌きも、まぁまぁ上手くなってきたし…野菜を切るぐらいなら、もう私がいなくても任せられるかな。頑張ったら上達も早いんですね、切原さん」
「……」
 微笑みながらそう言う少女に、しかし切原は笑えず、相手を見つめる。
 いなくてもって…何だよ、それ。
 しかしその時には、桜乃は箱の中から絆創膏を取り出すのに視線を逸らしていた為、彼の表情には気付かなかった。
「ええと、じゃあ、絆創膏…」
 両手を使って探そうと切原の手を一旦離そうとした桜乃は、しかし一向に離れてくれない相手のそれに、不思議に思って目を向けた。
「あれ…? 切原さん…?」
 見ると、自分の指に、しっかりと彼の指が絡まり、離そうとしてくれない。
 そっぽを向いている若者に、少女はえ?と疑問の顔を向けた。
「あの…?」
「傷…増えた」
「え!?」
 向こうの告白にびっくりしていると、更に男は指を絡めてきた。
「…どーしてくれんだよ…アンタがつけたんだぜ、この傷」
「え、え…わ、私っ!?」
 何処に…!?と慌てる少女は本気で彼の新しい傷を探したが、そんな場所はどうしても見当たらない…と、男は徐に握っていた桜乃の手を引き、己の胸に押し当てた。
 どくんどくんと、確かに彼が生きている証の鼓動が伝わってくる。
「ここ!…アンタがいなくなっても、なんて言うからすっげぇ傷ついた! 見えねぇけどな、痛かったぜ、マジで」
「え…」
「……」
 憮然とした切原は、今度は彼女の手を握ったまま胸から離し…己の唇に寄せて口付けた。
「ちょっ…切原さん!?」
 当然、桜乃は大いに驚き、声を上げた…が、切原は構わない。
「…傷が治ったら…もう触れてくんないわけ?」
「え…?」
「アンタが俺の傍からいなくなるんなら…あんな目標なんて、立てない方が良かった」
「…っ!」
 それって、と一つの可能性に行き着いた桜乃が真っ赤になる間に、かたんと切原は椅子から立ち上がって、少女を上から見下ろした。
「……責任取れよ」
「え…」
 一言、そう願うと、切原は朝の食堂で桜乃を思い切り抱き締める。
「っ!?」
「…胸の傷…アンタが離れると思ったら、痛い…」
「切原、さん…」
「傍にいろよ…コレ治せるの……アンタしかいねーんだから」
「……」
 熱烈な告白を受けて、桜乃は暫し動くことも出来ず、せめて相手の胸に縋った手で相手のシャツを握り締めるのみだったが、やがて、くす、と小さく声をたてて笑った。
「!?…竜崎…?」
「一緒にいられるなら……これからも色々と教えてあげられますね」
 そう言いながら、彼女はゆっくりと顔を上げ、相手のすぐ傍で柔らかな笑みを浮かべた。
「でも、本当は…あまり大した事は教えてないのかもしれませんけど…」
 自信のない相手の言葉に、切原は激しく頭を振った。
「そ…そんなコトねーって! アンタは…色々教えてくれたじゃん…その、包丁の持ち方とか、切り方とか料理とか…それと…」
「?」
「…大好きに、なる気持ちとか…アンタが初めてだ」
「!!」
「だから、さ…」
 ちょっとだけ、アンタに触れて…甘えさせてくれよ…
「あ…」
 早朝の、まだ涼しい風と薄い陽射しが降り注ぐ中で、小鳥達の囁きが二人の噂をしているように響いていた……






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