先輩以上兄未満
或る日、桜乃は母親に呼ばれた。
青学の中学一年生であり、最近ようやく学校にも慣れてきた少女は、自分を呼んだ母の言葉に大いに驚いた。
『貴女に会ってほしい人がいるの、桜乃…貴女の新しいお父さんになるかもしれない人よ』
(そりゃあね…お母さんは十分頑張ってきたと思うわ。私が小さい頃にお父さんがいなくなっちゃって、それからはお祖母ちゃんの助けは借りながらだけど、ちゃんと私を育ててきてくれたんだもん…私ももう中学生だし、そろそろお母さんの新しい人生を応援してあげてもいいかな、とは思う…思うけど…)
運命の日…自分の新しい父親になる人物と会う段取りになっていた一軒の料亭で、桜乃は自分の母親と並んで、相手方と相対する形で座っていた。
向こうにいるのは背広をきちりと着こなした、母親とそう年齢も変わらない人の良さそうな男性。
そして、彼の席の隣には、空になったままの席が一席…設けられていた。
そこに座る予定の人物を思い、桜乃は必死に暗い顔になりそうな自分の表情筋を奮い立たせたものの、心の中では悲痛な叫びを上げていた。
(殆ど同い年の『息子』がいるなんて、今日の今日まで知らなかったわよ〜〜〜!!)
最初に相手の人の話を聞いた時には、てっきり未婚の男性だとばかり思っていたのに…今日になって、女子高生の娘と中学生の息子がいるだなんて…
娘さんの方は今は遠方で一人暮らしらしいけど…それにしたって問題じゃないの?
(あうう…今更、私が『嫌』なんて言ったところで悪者になるのは自分だし…相手の人はいい人みたいだけど、年頃の見ず知らずの男女がいきなり他人から兄妹になるって…そりゃあ小さい頃にはお兄ちゃんが欲しいなって思ってはいたけど…)
頭の中でぐるぐると思考が回っている桜乃に、久し振りに向こうの男性の声が聞こえてきた。
「すみません。僕の息子はテニスに夢中で、今日という日にも部活に参加しているんですよ…遅くなりそうですから、先に始めていましょうか」
「あら、でも悪いです。もう少し待ちましょう」
桜乃が何事か考える前に母親がそう即答する…まぁ、間違ってはいないのだろうけど。
(んもう…私の意見も聞いてくれたっていいじゃない…ん?)
何か、廊下が騒がしくなってきたけど…と桜乃が気付いて間もなく、どたどたどた…っと賑やかな足音がこの部屋に向かって近づいてきたかと思うと、思い切り良く襖が開かれ、一人の若者が飛び込んできた。
「悪い!! 遅れたーっ!!」
「赤也っ!! 行儀良くしなさいっ!!」
男に叱られたのは、くせっ毛で、瞳が大きな男子学生だった。
手には鞄とテニスバッグを抱えており、見るからにやんちゃそうだ。
「わ、わり…じゃなくて、すみませ…ん?」
相手の若者は先ずは男性に謝り、続けて桜乃達へと視線を向けたのだが、それが桜乃に留まった時、向こうの瞳がきょろっと更に大きく見開かれた。
あれ?と疑問を呈す瞳の表情に、桜乃もん?と首を傾げる。
私、顔に何かついているのかしら…?
疑問が脳裏に浮かんだのとほぼ同時に、赤也と呼ばれた若者は、男性に向かって大声を上げていた。
「ちょ…っ! 女の子供がいるだなんて、聞いてないぜ!? どういう事だよっ!?」
(え!? 向こうも!?)
桜乃が驚いている間に、男性…赤也と呼ばれた若者の父親は再び彼を叱りつけ、取り敢えずはその場に着席させた。
そしてようやく、男性と桜乃の母親が、そして桜乃と赤也が向き合う席が整ったのである。
「驚かせて申し訳なかったね、桜乃ちゃん。こちらは切原赤也…僕の息子で、現在、立海大附属中学の二年生だ…君の、その…お兄ちゃんになる」
賑やかな登場をしてくれた相手に唖然としている桜乃の隣で、今度は彼女の母親が赤也に娘を紹介していた。
「初めまして、赤也君。貴方にはまだ言っていなかったけど、こちらは私の娘の桜乃…今年、青学に入学した中学一年生なの。でも、いずれは切原桜乃になるのね…学校も多分、一緒になるわ。同じ家に住む事になるんですもの」
「……」
「……」
物凄いインパクトのある初対面に、二人は互いに呆然としながら顔を合わせた。
しかし、そう長々と互いの顔を見つめるワケにもいかず、彼らはほぼ同時に視線を逸らし、顔を俯ける。
この時、二人の気持ちは見事に一致していた。
『ちゃんと言え(ってよ)――――――――っ!!』
誰に…と言うと、当然、自分達に、である。
年頃の男女に互いが兄妹になると知らせたら、反対されるかもしれない、だから伏せていたのかもしれない。
それとも、自分達を極力、親の再婚のストレスから解放してやりたくて、敢えて必要以上に情報を与えなかったのかもしれない。
それにしても、いきなり兄妹が出来ると言われた方が、よっぽどグレたくもなる!!
しかし残念な事には、二人とも、グレる程に性格が曲がっているワケでもなく、親を不幸にさせる程に悪い子でもなかった為、結局…
「…桜乃、です…」
「あ…赤也っす」
何となく互いの境遇を察しつつ、そつの無い挨拶を交わし…二人は兄妹になることが決まったのであった。
二人の親が再婚をしてから約一月後…桜乃は親達の予言の通り、青学から立海へと転校を果たしていた。
再婚に当たって彼女の母親が望んだのは、再婚しても仕事を続けたいということ。
それは向こうにも受け入れられ、現在、父親、母親共に働きに出ている状態なので、家事については今までの生活通り、桜乃がほぼ一手に引き受ける形になっていた。
「ええと、味付けは…うん、これでよし。後はこれを詰めて…あ、御飯も多めに…」
朝食の他には家族のお弁当作り…それも大体が仕上がったところで、桜乃は家族を起こしにかかる。
とは言え、彼女が起こすのは一人だけ。
義兄となった赤也だ。
彼はテニスの名門校とも言われている立海の男子テニス部に所属しており、しかもレギュラーで活躍しているらしく、毎朝かなり早い時間に朝練に参加する為に出て行くのだ。
両親は一緒に寝室でまだ眠っているが、彼らはもう少し遅く起きても出勤には十分に間に合う。
(お弁当作りも、二人分も四人分もそう変わらないと思ってたけど…スポーツしている人のって難しい)
栄養も考えないといけないし…と思いながら、桜乃は赤也が眠っている彼の私室前に来ると、とんとんとドアをノックした。
「朝ですよー、お…」
言いかけて、桜乃は一瞬唇を閉ざし…少し小さな声で言い直した。
「赤也さん、起きて下さい。朝ですよー」
そして、暫くの無音の後…向こうから人の動く物音が聞こえたかと思うと、慌てた様子の声が届けられた。
『わ、わりっ! すぐ行くから…!』
「はい、宜しくお願いしますね」
そして、桜乃は再びキッチンに戻りながら…一人で溜息をついた。
(ああ…今日も駄目だったな…)
何度も繰り返して、挑戦しようと思って、でもまだ実現出来ない…
一度、タイミングを逸してしまったから、どうにも思い切りがつかない…
(赤也さん…ちょっと落ち着きはないけど、凄くいい人なのに…)
明るくて、元気で、乱暴そうに見えるけど、凄く優しくて…自分が長年夢に見ていた『お兄ちゃん』そのものなのに…
(いざとなったら、呼べないなんて…『お兄ちゃん』って)
はふ、と溜息を再度ついたところで、赤也の部屋のドアが開き、相手がばたばたといつもの様に賑やかにリビングに走ってきた。
「お、おはよ…」
「あ…お早うございます…赤也さん」
「…うん」
桜乃の言葉に、赤也の表情が微かに強張り…すぐに元へと戻る。
しかし、その僅かな変化は、桜乃の瞳に明らかなものとして映った。
元々向こうも、嘘をつく事はそう得意ではないらしい。
そう、桜乃は赤也の表情の変化の中に、明らかに『落胆』を感じ取っていた。
その理由も、分かっている。
「い、いつも早いんだな…アンタ」
「ずっとしてきた事ですから…あ、御飯、よそいますね」
義理とは言え、兄妹となって一月経過するのに、まるで他人行儀である二人は、慣れないままごとをやらされている様な違和感があった。
もっと自然に振舞おうとしている、その不自然さが、更なる違和感を呼んでいる。
「サンキュ…」
御飯を盛られた茶碗を受け取り、早速食べ始める赤也は、キッチンに再び立って色々とこなしている桜乃をちらちらと横目で見ていた。
(…いい子…なんだけどなぁ…何つーか、余所余所しいからどうにも話し辛えって…せめて…)
一つの希望を、赤也はこっそりと胸で呟いた。
(…『お兄ちゃん』って呼んでくれたら、もう少しは距離が縮まると思うんだけど)
しかし、実の兄妹ではないし、そもそも兄妹という立場になったのも最近だ。
その上、向こうが自分と同じ思春期の女子であれば、やはり色々と気を遣わなければならないだろうし、無理強いすると却って関係が悪化してしまうかもしれない。
(いつから『お兄ちゃん』って呼ぶのが正しいのか、なんて答えがある訳でもないしなぁ…)
そんな事を考えている間に、桜乃がいつもの様に準備したお弁当を赤也の前のテーブルに置いた。
「あの…今日のお弁当です、どうぞ」
「あ、ああ、サンキュ」
折角話し掛けてくれても、それからの会話がどうにも続かない。
赤也は仕方なく、沈黙を埋める様に食事を口に運ぶ事を最優先とし、食べ終えたら早々に席を立った。
「ごっそさん、じゃ、行って来る」
「はい…行ってらっしゃい」
朝練に遅れずに行かなければならないという口実が、まさか役に立つ時が来るとは…
複雑な心境のままに、赤也は慣れた通学路を通って、立海へと向かって行った。
「おはよーっす」
「む、赤也か。今日も遅刻せずに来るとは、ようやくレギュラーとしての自覚が出てきた様だな」
コートに到着して挨拶した赤也を迎えたのは、厳格で知られるテニス部副部長の真田だった。
先頃までは赤也の寝坊による遅刻癖に散々悩まされていたのだが、どうした訳か、最近はきっちりと朝練の時間通りに登校してくる後輩に、彼は満足げに頷いた。
「は、はぁ、まぁ…」
言葉を濁す赤也に、真田の隣にいた部長の幸村が柔らかな笑みを浮かべつつ尋ねた。
「…新しい家庭には慣れてきたのかい?」
朝から違和感ありまくりの朝食時間を過ごしてきたばかりの赤也には耳の痛い台詞であり、彼は思わずぐ、と言葉を詰まらせてしまう。
「? 切原?」
「だ、大丈夫ッスよ! ち、ちゃんと慣れてますから、問題ないッス!」
(…これは素直に騙されてやるべきなのかな)
どう見たってそうは思えないんだけど…と考えている幸村の背後から、にゅ、と銀髪の若者が顔を出してにやりと笑った。
「…義妹を『アンタ』としか呼べんヤツが上手くいっとるんかのう」
「に、仁王先輩っ!?」
正に核心を突かれ、赤也がうろたえる間に、相手は更に付け加えた。
「向こうも未だに『赤也さん』呼びじゃし…かなり余所余所しかったぜよ。お前さん、ちゃんとあの子の方を向いてやっとるんか?」
「ち、ちゃんとって…当たり前でしょ!? 血は繋がってなくても、俺、兄貴なんスから、ちゃーんとそれらしく振舞ってます」
「…振舞う、か、やれやれ、メッキが剥げるのも遠くないのう」
くっくと薄い笑みを浮かべる先輩に、赤也が顔色を青くして訴えた。
「ちょっ…仁王先輩!? アイツに変なコト吹き込まないで下さいよね!! 俺もうアイツには、自分の説明はちゃんと済ませてるんですから」
「説明?」
尋ね返したのは、部の参謀とも言われている柳だった。
「どんな説明したんだ、お前」
更に質問を重ねたのは、赤也の目付け役でもあるジャッカルだった。
「……」
暫く無言だった赤也だったが、先輩達に下手な暴露をされる事の方を恐れたのか、仕方なく視線を逸らしつつ、居心地悪そうに白状する。
「えーと…テニス部ではレギュラーで大活躍してて、先輩の期待も大きくて、女生徒にもモテモテで、品行方正の人気者だって…」
『……』
その場にいたレギュラーの先輩全員が沈黙し…物凄く冷たい視線で相手を射抜きながら声を合わせた。
『ウソツキ』
「ちょっとぐらい肯定してくれたっていいでしょ―――――――っ!!??」
うわーんっと赤也が先輩方の仕打に悲惨な声を上げる。
「つまりお前はそういう下らん見栄を張る為に、最近定時に来ていたという訳か…下らん」
「万歩譲ってレギュラーだって事は認めるけどよい…オメー、閻魔様に思い切り喧嘩売ってるぜい?」
「どうしてそういうすぐにバレるような嘘をつくんでしょう…理解出来ません」
真田や丸井、柳生が揃ってそんな事を言っている間に、柳は冷静な判断を下す。
「最初に見栄を張れば、後に己の首を絞めることになる…間違いなく大失態だな、赤也」
「うぐ…」
「……」
その後輩に対し、部長の幸村が少しの沈黙の後、確認した。
「…君の見栄はこの際どうでもいいけど、義理とは言え自分の妹に『アンタ』は酷いな。せめて家では名前を呼んであげているんだろうね」
「………」
「…切原?」
「………」
背中を向けてがっくりと項垂れる相手に、幸村は今度こそ呆れた視線を向けた。
「妹だろう?」
「だって、アイツにとっては俺はまだ『赤也さん』止まりなんスよ…それなのに、俺だけ馴れ馴れしく名前で呼ぶなんて…嫌われるじゃないスか。俺だって、アンタなんて呼びたかないッスけど…」
「……」
がっくし…と肩を落として朝練から去ってゆく赤也を見送った先輩達が、心配そうな表情で顔を見合わせた。
「どう思う〜?」
「お互いに遠慮しあって、退き過ぎていますね」
「じゃの…早い内に解決せんと気まずさばかり残ることになるし、塀もどんどん高くなるぜよ」
丸井達がそう語る脇では、ジャッカルもうんうんと頷いた。
「…少なくとも嫌われてはいないと思うぞ? 昨日一緒に昼メシ食った時、あいつ随分豪華な弁当持ってきていたからな。その妹さんの手作りらしいが、嫌っているヤツに作るようなモンじゃなかった」
「…妹か…同年代なら思春期でもあるからな。親でも扱いが難しい時期だし、赤也の戸惑いも分からんでもない」
或る一定の理解を示した副部長に、参謀も頷いて同意を示した。
「…女心はそれでなくても理解不能だ。これはタイミングが肝要だな」
切原編トップへ
サイトトップヘ
続きへ