ちび妹の奮闘
立海の男子テニス部二年生エースである切原赤也。
彼の妹である桜乃は、常日頃から非常に温和で人とのいさかいなど滅多に起こさず、寧ろ大人しく引っ込み思案な方でもある。
そして、兄である赤也に対しては率直な物言いをするものの、結構べったりと甘えてしまう一面もある。
しかし、今日の彼女に限ってはいつもと様相が異なり、自宅のキッチンで何故かそこにいる兄に向けて必死に怒りを耐えた表情で、わなわなと肩を震わせていた。
「これは一体どういうことかしら…お兄ちゃん」
「…えーと」
いつもなら、キッチンにはせいぜい冷蔵庫の中身を漁るぐらいの目的でしか踏み込まない切原が、調理台の前で妹に厳しく詰問されている。
その二人ともが珍しくエプロン姿。
桜乃に至ってはトレードマークのおさげに三角巾という完全武装の出で立ちだ。
そんな彼らの前の調理台の隣にはシンクがあり、そこにはごっちゃり!と汚染されつくしたボウルやらが山盛りに積み上げられていた。
「私は『卵を割って』って言っただけじゃない! なのに、どうしてその卵すらまともに割れないのよ〜!! ヒビを入れるだけでいいって言ってるのに、何個握り潰したら満足するワケ〜〜!?」
「うるせー! おめーのにーちゃんはお育ちがいいから、箸とラケットとテニスボール以外の物は持った事がねーんだよっ! んな繊細な作業、すぐに出来るか〜〜〜っ!」
妹に怒鳴って反論した切原だが、すぐに相手から両方のこめかみを拳でぐりぐりぐりと圧迫されてしまう。
「い・ば・れ・る・た・ち・ば…?」
「いでいでいででで!! ごめんなさいごめんなさい!! 反省っ! 反省してますっ!」
「んもー…」
ぱっと手を離してやって、桜乃ははぁと溜息をついた。
「基礎の基礎からつまづくとは思ってなかったけど…目玉焼きとフレンチトーストなんて、そんなに難しい課題じゃないのよ? 一時間もあれば教えてあげられると思ってたけど…」
ここに立ち、既に二時間は経過している…のに、いまだに卵割からすら脱却出来てないとは…
「くっそ〜〜〜、力加減が分からねーんだよな…ヒビ入れるまではいいんだけどさ、無事に入ったら『やったー!』と思うだろ?」
同意を求めるような言い方をした後で、切原は右手でぐっと拳を作る。
「…次の瞬間『ぐちゃ』」
「今からお兄ちゃんの独り立ちが凄く不安だなぁ…」
桜乃は切原の今後を本気で心配している。
料理が苦手だということは知ってはいたものの、まさかここまでとは…
「いや…きっと俺が一人暮らしを始めるまでには、一家に一台、自動卵割り機が…!」
「お兄ちゃん、何十年先まで留年する気なのよ…そもそも家庭科のテストは明日でしょ?」
「ううう」
痛いところを突かれ、がっくりと切原が絶望に頭を垂れる。
そうなのである。
基本的に、立海では家庭科を学ぶのは女子だけではない。
いずれ巣立ち、独り立ちをする時に備えて、自立出来る人材を育成するのも務めであるというスタンスである彼らの学校では、男子もしっかりと家庭科を学ぶのである。
そして明日はその学校で、切原の家庭科実習日…しかもテスト兼実習。
作る食事は…『目玉焼きとフレンチトースト』
家庭科が大得意な桜乃にとってはお茶の子さいさいな課題だが、切原にとっては未知の領域。
大袈裟かもしれないが、『ちょっと月まで行って来て』というのと同レベルなのだ。
流石にそんな状態でテストを受けるワケにもいかないので、彼は帰宅後に妹である桜乃から簡単に教示を受けようと思ったのだが、やはり人生そんなに甘くない…らしい。
「…これはもう、卵を割れるかは運に任せるしかないわね」
「へ?」
きょとんとする兄に対し、桜乃は顔を背けてよよっと涙を浮かべた
「もうウチの卵、在庫がないの……折角タイムサービスで買ってたのに…」
「悪い…」
使い物にならなくなった分もありはしたが、かろうじてこれからの実践で使う何個かの分は、一つのボウルに保管されている。
目玉焼きとフレンチトースト…どちらの料理もシンプルだからこそ奥深くもなる一品。
しかし中学生の実習程度なら、食べられるレベルにさえなれば及第点の筈…
桜乃はそれに希望を見出そうとしたのだが、彼女の実の兄は十分後にはまたも見事にその希望を粉々に打ち砕いてくれたのだった。
結局、全ての卵を使い切った時には、桜乃は全身全霊を使い果たしてぐってりとソファーに身を投げ出していた。
教えても教えても、出来上がってくるのは目玉焼きでもフレンチトーストでもなく、『かつて卵と呼ばれしモノ』としか呼べない物体ばかり…
「お兄ちゃん…一人暮らしを始めても、誰かに手料理なんか絶対食べさせちゃダメだよ」
「し、失敬な」
一応妹に反論はしてみるものの、切原の口調はいつもと比べてとても歯切れが悪い。
やはり、センスの無さは自覚している様だ。
「最後に作った分は何とか食えるぜ?……卵の味はしねーけど」
「ナニ入れたのよ」
自分がつきっきりで見てやっていたのに、どうして納得出来ない味に仕上がるのか…純粋な疑問と、力及ばなかった悔しさが桜乃を更に疲労させる。
「…お兄ちゃんごめんなさい、桜乃はもう限界です。明日、物凄く料理が上手いクラスメートさんと一緒に作って、物凄く味音痴の先生に見て貰ったら、多分、良い点つけてもらえると思うよ…」
「それもう諦めろって事じゃねーかよ」
「あとは根性と思い込みだよ…お兄ちゃん、一番得意じゃない」
「おめーなー…ん?」
ふと目を調理台の上にやると、一箇所に集めていた過去の作品群がいつの間にか無くなっている。
切原自身も味見してのたうち回り、摂取不適と判断したブツの集まりである。
「桜乃? ここにあった失敗作は?」
「………食べた」
「はぁ!?」
あの凶悪な味の物を!?
「お前、そんなに腹減ってた…っいて!」
言いかけたところで、こつーんっと割られた卵の殻半分を投げつけられる。
「本当は頼まれても食べたくない味だったけどね……勿体ないじゃない。それに、お兄ちゃんも一生懸命頑張ってたし…努力は無駄にしたくないもん」
「!…」
自分への心遣いで、あれだけ不味い物を口に入れて、食べたのか…
作った本人でも匙を投げる程に不味かったのに…こいつは本当に、いつもやり過ぎるぐらいに、相手の事を思い遣ってくれるんだから…
「〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
不器用な兄は何も言えず、ただ、ソファーに伏せている桜乃の身体を照れ隠しにぺしぺしと軽く叩いた。
「なによぅ〜」
「何でもねーよ!」
そしてその夜、何とか妹の気遣いに報いようと、切原は結構遅くまで家庭科の本を開いて復習に勤しんでいたのだった……
翌日…
『お兄ちゃん、お兄ちゃんっ!!』
「ん〜〜〜…」
『お兄ちゃん、起きて! お兄ちゃんっ!!』
「ん〜…あと五分〜〜〜むにゃ」
『お兄ちゃんッてば!!』
「ふえ?」
短かったような、長かったような夢でのやり取りが終わった。
閉じていた瞳が朧気に開かれ、切原の意識が夢から現実へと浮かび上がる。
「……ん〜〜」
眩い陽射しに包まれた自分の部屋…ああ、今日もいい天気みたいだな。
目覚まし時計は…って…あれ?
「…?」
目の前で、自分をじっと見つめてきている一人の少女…
桜乃…の様なおさげ姿だが、随分と幼い少女だ、小学生ぐらいか?
でも、どっかで見たことあるよなぁ…てか、何で俺の部屋に幼女が…
「…へ?」
中学生男子の部屋に、幼女…?
夢…でも認めたかねぇぞそんな光景っ!!
拒絶の意志が、切原の寝惚け眼の思考に派手に蹴りをかます。
「うおおわああああああああっ!!!! 違うっ! 断じて違うっ!!」
がばっと飛び起き、その妄想が消え失せる事を願った若者だったが、残念ながら現実はまるで逆だった。
消えるどころか、よりくっきりはっきりと、自分の視界の中に現れたのだ…その少女が。
しかも、何故か、初対面である気がしない…自分はいつか何処かでこの娘と会っている。
「…へっ…?」
何で…こんなデジャヴが?と思っている切原の前で、小さな子供はこちらをじっと見上げながら、はっきりとした口調で呼びかけてきた。
「お兄ちゃん、分かる? 私…桜乃よ」
「は!?」
桜乃!?
桜乃って…俺の妹で、現在中学一年生の桜乃!?
確かに…着ているだぶだぶのパジャマは妹のものに間違いないが…
彼女が、何でこんなに小さくなってんだ!? これも夢か!?
夢なら…夢なら…そうだよな、いつかは醒めるよな…うん。
「…じゃ、じゃあ、もう一度お休み〜…」
「お兄ちゃんってば!!」
再び眠りに堕ちようとした兄の頭に、枕元にあった家庭科の本でごっつん!ときつい一撃。
「いでーっ!!」
「夢見てないでよ! こっちが現実! どうしてか分からないけど、私、どうやら小さくなっちゃったみたいなの!!」
「いつつ…え…?」
痛みと相手の話でまだ混乱の最中にあった切原だが、そんな彼でも流石にこれが現実だという事実は分かってきたらしい。
確かにこれだけ触れて、痛みを感じる事が出来るのなら、夢ではないのだろう。
それに、この娘も何処かで見たことがあると思った理由が分かった…間違いなく、幼い頃の桜乃の姿そのものだったからだ。
正しくは分からないが…小学校に上がるぐらいの年の頃だろうか…
しかしそれだけ分かっても、切原が困惑を避ける事は出来なかった。
「な、な、な、何でそんな格好になっちまってんだよ、桜乃!? さっさと元に戻れって!!」
「戻りたくて戻れるならとっくにやってるわよ。出来ないから、どうしていいのか困ってるんじゃない」
混乱の最中にありながら、切原は身体を起こしてベッド上に座り、桜乃もそのベッドに乗りあがって彼の前にちょこんと座った。
「昨日までは何ともなかったんだけど、今日目が覚めたらこの状態だったの…お母さん達が出張中で良かったわ。きっと卒倒モノだもん」
「そりゃ、そうだろうけど……ど、どーすんだよこんなになっちまって」
「どうするって言っても…こんな身体で中学一年の切原桜乃ですって言っても大騒ぎになるだけだもん…大人しくしておいて、元に戻るのを待つしかないわよね」
「うーん…まぁ、なぁ…けど、本当になんでいきなりそんな格好に…お前、もしかして昨日、変なモノ拾い食いでもしたんじゃないか?」
「失敬なコト言わないでよね。そんな浅ましい真似しないわよ、大体昨日私が食べたモノの中で一番危険なモノって……」
「………」
『……………』
次の瞬間、唯一の答えに行き着いた二人は同時に物凄い叫び声を上げることになった。
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