涙の理由


「おさげちゃんのお菓子ってすげぇ美味いのな、俺、アンタのお菓子なら幾らだって食えそう!」

(確かに、そう言われたんだけど…)
 その日も、桜乃は手作りのクッキーを持参して立海へと向かっていた。
 立海の男子テニス部メンバーと桜乃は、或る切っ掛けで知り合いとなり、今もテニスを通じての交流を続けている。
 特に立海レギュラーメンバーの丸井ブン太は、桜乃の作るお菓子の味に惚れ込んだ様子で、暇があっては彼女の側に纏わり付き、あれを作ってこれを作って、とおねだりを繰り返していた。
 神奈川と東京では日本地図上では近距離の範囲ではあるが、人一人が移動するにはなかなかの距離。
 しかし桜乃は、自分の時間と金銭的ゆとりがある限りは、丸井のリクエストに出来るだけ答えている。
 何故だろう…
 今も、電車の中で自分の膝の上に乗せたクッキーの包みを見下ろしながら桜乃は他人事のように考えている。
(まぁ、あのテンションに引っ張られているのは間違いないかな)
 いつでも元気、とにかく元気、ひたすら元気…をまさに地でいく先輩さんである。
 いつもおっとりしていると言われる自分など、あっという間に相手のペースに巻き込まれてしまってもおかしくない…と言うより、その自覚もあったりする。
 しかし、それだけで自分はこんなことをしているのだろうか…?
(…でも、丸井さんって、年上なのに何だか可愛いって思えるトコロあるし…)
 確かまだ小さい弟さん達がいると聞いたが、その所為もあるのかもしれない。
 時々…いや、結構頻繁に彼が子供っぽいと感じる事があるのだが、それが自分の気に掛かっているというのもあるのだろう、きっと。
(弟…とは違うけど、何だか放っておけない感じ…って、私が言うことじゃないかな)
 年下なのは明らかに自分なのに、ちょっと図に乗りすぎたかな…と一人苦笑いして、再びクッキーの包みを大事そうに持ち直す。
 今日のクッキーは自分の予想以上の出来だった。
 これなら、舌の肥えた彼も満足してくれるだろう…そして、またあの笑顔で騒ぐのだ。
『すっげー美味いっ! ありがとな、おさげちゃん!! また次も宜しくっ!』
 遠い距離でも、難易度が高いお菓子だったとしても、あの笑顔と言葉だけで報われてしまう気がして、また頑張って…そして新作が出来上がったらまたあの笑顔と声に会いたくなる。
 きりがない…けど止める気もない。
(丸井さんって、本当甘え上手だよね)
 自分の気持ちに気付いていない様子の少女は、そろそろ目的の駅が近づいたことを確認し、早めに席を立った…


 今日は少し早めの到着になったが、道路沿いからコートを覗き込んだ時には既にテニス部はいつものように練習を開始していた。
 桜乃はそのまま道路を真っ直ぐ歩いてゆき、正門へと入って少し進んだ辺りで、女子のグループに追い抜かれた。
「…ねぇ、あの子だよ。今度の丸井君の…」
(え…? 丸井…さん…?)
「ああ、知ってる。何かぱっとしない子だよね、すぐ飽きて捨てられそう」
 あっさりと言い放つ声に侮蔑の色が滲んでいることを感じ取っている間にも、他の生徒達の声が重なって聞こえてくる。
「彼女とか言ってもお菓子が貰えたら誰でもいいのよ、私もそうだったんだから」
「とか言って〜、実はカノジョの座、まだ諦めてないんでしょ?」
(…えっ?)
 どんなに無意識でも、耳は忠実に自分の周囲の声を拾い上げてしまうものなのだと知った。
 いつしか桜乃の足は動きを止め、まるで根が生えてしまったかのように動けなくなってしまい、そんな少女の反応を嘲笑う様に、向こうは全員が皮肉の笑みを浮かべて通り過ぎていった。
 後にはただ呆然と立ち竦む少女だけが残り、自分一人だけになっても、しばらく彼女はそこから動くことすら出来なかった。
「……」
 知らなかった…
(丸井さん……彼女、いたんだ…)
 何だか全然そんな素振りもなくて、考えもしなかったけど…そうか、いたんだ。
 関係ないと言われたら、確かに返す言葉はない。
 自分はあくまでもテニスを通しての、学校さえ違うただの後輩でしかなく、お菓子を作ってあげているからといって、それが二人の仲を恋人にまで高めているということもない。
 ただの…知人に過ぎない、彼の交友関係に口を出せる立場ではないのだ。
 前の彼女という人が自分を今の丸井の彼女と看做しているようだが、それ自体が筋違いと言えばそれまでだ、なのに…
(何だろう…胸、痛い…力、抜ける……)
 胸が空っぽになってしまった感じがする…空っぽになっているのに、痛む。
 何故かは分からない、けど、物凄く嫌な感じがした。
(私…彼女じゃないけど…それでも丸井さんが優しくしてくれてたのは…お菓子をあげてたから?)
 出来れば否定したい…出来ることなら、でも…考えてみたら。
(…そうだよね…何で気が付かなかったんだろう…私みたいな取り得の無い子に、丸井さんみたいな人があんなに優しくしてくれるはずない…)
 丸井さんの笑顔が好きで、煩い程に元気な声が好きで…頑張ってきたけど…その向けられた先は私ではなくて、お菓子だったのかもしれない。
 何だろう、もう全ての事がショックだ。
 丸井さんに彼女がいたことも、あの笑顔が自分に向けられていなかったかもしれないことも。
(どうしよう…動けない)
 電車の中ではあんなに楽しみにしていたコートへの道のりが、今はこんなに辛く苦しい。
 そして何より、会うのが恐い。あの人に。
 でも帰ってしまったら、これを渡さなかったら…私はもう捨てられてしまうのだろうか?
 あの人が言っていたように、飽きて捨てられてしまうのだろうか…?

 ぱたたっ…

「っ!!」
 気付いたら、涙が溢れて零れ落ちていた。
 折角のクッキーの包み紙を濡らしてしまい、慌ててそれをふき取ると、続いて自分の瞳も腕で拭う。
 思い切り泣いてしまえたら良かったけれど、今いる場所が桜乃を思い止まらせる。
(やだ…こんな顔じゃ、会えないよ…)
 どうしよう、と思っていた時、そこで彼女を呼ぶ声がした。
「おさげちゃーん!」
「え…っ」
 聞きなれた呼び名を叫ぶ元気な声が響き、たたーっとそこに走ってくる一人のテニス部員を見つける。
 本来ならば、会って嬉しい筈の人だったのだが、今のタイミングは最悪だった。
 どうして、コートじゃなくてこんな所に丸井さんが…?
「こんなとこで何…え?」
 丸井はにこにこと上機嫌で走って来ていたが、桜乃の様子が明らかにおかしいと見た途端にその表情を一変させ、更にダッシュ速度を上げた。
「おさげちゃんっ!?」
「あ…ま、るいさん…」
 どう言い訳しても、最早泣き顔であることを誤魔化すことは出来ず、桜乃はせめて頬に残っていた涙を手で拭う。
「…泣いてんのかぃ、おさげちゃん」
「その……これは…」
 説明しようにも、こればかりは理由が理由だけに上手く説明など出来そうにもない。
 うろたえる少女の前に立つ丸井は、いつもの笑顔とはまるで違う怒りを露にした表情で相手を見下ろし、声のトーンを下げて言った。
「…誰に泣かされた? 俺がぶっ飛ばしてやる」
 その声の中にも明らかな怒りが含まれており、もし話したら本当に相手が女性であっても実行に移しかねない何かを感じてしまう。
 しかし、自分がもし正直に話したとしても、何も解決には至らないことぐらいは桜乃にも十分に分かっていた。
 何より、一度でも彼の恋人になった人をそんな目に遭わせるのはあまりに心苦しい、それにきっとどちらもが傷つくだろう。
「いえ、何でもないんです…」
「何でもないワケないだろぃ!? 目ぇ真っ赤だぞ、お前」
 ぐい、と肩を強く掴まれて、顔を覗き込まれると、桜乃は強く目を閉じてそれを隠す。
 丸井の優しさが今は心に痛くて、受け取るのさえ辛い。
「ほ、本当に何でもないですから…!」
「おさげちゃん……俺にも言えないのか?」
「……ご、めんなさい…」
「……」
 謝罪による拒絶は、下手な暴言よりも追及の手を頑なに阻む、丁度、今の少女の様に。
 決して言うつもりがないのだと察した丸井は脇へ視線を逸らし、少なからず不満そうな顔をしたが、それ以上は何も言わず、代わりにぐい、と掴んでいた相手の肩を引いた。
「…?」
「どうせ今日はそのまま帰るとか言い出すつもりだろ、お前…ちゃんといろよ、終わるまで」
「……」
 強い相手の言葉にそれでも桜乃が逡巡していると、相手は肩から手を離す代わりに少女の手をぎゅっと強く握り締めた。
「あ……」
「そのぐらい…聞いてくれたっていいだろい?」



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