「荒れていますね、丸井君。球筋がいつもとまるで違います」
「ああ…まぁ、当然じゃろうな。俺も驚いた」
 道路を歩いて行く桜乃をコートから見つけた丸井が、いつまでたっても待ち人が来ないことを訝ってコートを飛び出して行ったかと思えば、今度は泣き腫らした目をした彼女を手を引いて連れて来たのだ。
 一体何事かと部員は驚いたが、丸井は理由を知らないと言い、桜乃本人は彼以上に口を固く閉ざしたままだった。
 部員の中でも一番桜乃を可愛がっていた丸井が、相手を泣かすという暴挙に出たとは思えない。
 仁王は、人の心を読むことには異常な程に長けている。
 おそらく丸井の球筋の乱れは桜乃の涙によるものだろうが、それより大きな理由は、桜乃本人から理由を語られなかったという事実だろう、と彼は確信していた。
 語られないということは、言い換えたら、そこに心の垣根が存在しているということ。
 人間、誰しも知られたくない秘密というものは存在するし、それに対して他人が無闇に土足で踏み込むという愚行は、それなりの覚悟がない限りは犯してはならない。
 それでも人というのは欲張りだ、やってはいけないと知っていても、それに手を伸ばしたくなる事もある。
 丸井も、彼女の心を思うからこそ自分を抑えているのだろうが、実際は面白くないのだろう。
「…竜崎さんは確かに非力な女性ではありますが、芯は強い方と見受けます。その彼女があんなに心を乱すとは、何があったんでしょう」
 不思議そうに考え込む相棒の柳生の言葉を聞きながらも、仁王は相手の方へは目も向けず、桜乃の様子をじっと伺っていた。
「…鍵は丸井だな。本人にその自覚はないのが不思議だが」
「え?」
「あの子…今日に限って丸井を見ようとせん。いつもならあいつばっかり見とったのに、故意に目を逸らしとる…丸井も気付いとるみたいじゃの、あいつも竜崎に敢えて目を向けようとしとらん」
 その丸井へと視線を移した仁王は、彼の背後の光景に何かを見つけた瞬間ぴくっと僅かに肩を震わせ、それからすぐに丸井に向かって走り出した。
「? どうしました、仁王君」
「ちょっとヤバイ」
「は?」
 それ以上は答えず、彼はジャッカルと打ち合いを続ける丸井に駆け寄ると、半ば強制的にそれを終わらせた。
「何だよ、仁王」
「すまんの丸井、俺の目が悪くなってたら謝る…あれはお前の知るヤツじゃないのか、覚えがある」
「え…」
 仁王が敢えて指ではなく、さりげない仕草で顎を使って示した先…そこへ同じく目を向けた丸井の表情が、これ以上ないという程に凍り付く。
「っ! あいつ…」
 搾り出すような声は含まれる嫌悪を隠そうともしていない。
 睨み付けるその視線の先に、立海の女生徒がいた。
 木の陰に隠れているつもりなのか知らないが、全身は見えなくてもはっきりと輪郭は分かる。
 彼女が少し前に桜乃と擦れ違った女子の集団にいたことなど丸井は知るはずも無く、また、彼女が桜乃に対し、暗に丸井の過去の彼女であると自負していたことも知らなかった。
 しかし、以前の彼女に対してにしては、あまりにも今の丸井の示す感情は不釣合い過ぎる。
 まるで親の仇を見つけたかのような、激しい憤怒すら感じさせる表情だ。
 その彼にとって更に由々しき事態…それはあの女が、木陰から桜乃を手招いているという決定的な事実だった。
 普段、練習に夢中になっている他のテニス部員達は、桜乃が少し席を離れたとしても気に留めることはなく、それは今も例外ではない。
 丸井も、仁王に示されていなければ気付かなかっただろう。
 当の桜乃は、相手の手招きを無視することもなく、立ち上がって歩いてゆく…怯えたような、痛みに苛まれているような顔をして…
 その様子からは、到底、二人が元々の知己であった、或いは友好な関係とは思えなかった。
「やっぱりそうか…何か、嫌な感じがするのう…丸井、あの子を一人で行かせん方がええぞ」
「仁王、あと頼む!」
 忠告を聞くまでもない、と言わんばかりに、丸井はラケットを放り出して走り出し、桜乃を連れて校舎の方へと向かっている女生徒を追い掛けた。
「お、おいっ! 丸井!?」
 ジャッカルが何事かと相手の姿を目で追ったが、視線はすぐに仁王の呼びかけによって断ち切られた。
「ああ、すまん。ちょっと先生から丸井に頼まれとった伝言を伝え忘れとってのう。用事が済んだら戻るじゃろ、少しばかり待ってやってくれ。幸村達には俺が伝えとく」
「はぁ?…そうなのか?」
 ちょっと腑に落ちないところはあるが、そういう事なら待つしかないだろう、とジャッカルは頷いた。
 取り敢えずはその場を誤魔化した仁王は、自分の言葉に従いすぐに幸村達がいる所へと足を向けたが、最後まで『嫌なものを見た』といった渋い表情を消すことはなかった。


「何で呼ばれたか、大体分かってるわよね」
「……」
 斜陽の射す校舎の一室に呼ばれた桜乃は、呼んだ相手と向き合ってそう切り出され、身体を震わせる。
「…」
 答えなかったが、その態度から大体察していると感じ取った相手は、高圧的な態度で桜乃に言う。
「丸井君と別れて。大体アンタが途中で割り込んで来たんだから、譲るのは当然よね」
「! ゆ、譲るって…私、丸井さんの彼女じゃありません…そんな事、言われたことないし…」
「じゃあ尚更簡単じゃない。アンタが来なくなったらいいだけよ。これからはもう立海じゃなくて、同じ学校で貢ぐ相手でも探したら?」
「…っ!」
 何でもないことのように喋る相手に、桜乃の顔が厳しくなり、その小さな拳が固く握られる。
 違う…別に私は貢ぐ相手を探していたんじゃない…!
(どういう…意味?)
 心に沸き上がる小さな怒りが、自分の塞いでいた気持ちを持ち上げてくれると同時に、至極簡単な疑問を今更ながらに思い出させた。
 おかしい…
 こんな酷いことを他人に簡単に言える人が、丸井さんの恋人だった…?
 違う…あの時は動転してたけど、少なくともそれは考えられない…
 この人に初めて会った時に、確かにショックも受けた、嫌な感じもした、けど…嫌な感じを受けたのは丸井さんの件じゃなくて…この人自身に対してだったんだ…
 もし恋人だったのなら、丸井さんを蔑む様な台詞を言える筈がない。
 ああ、だから私…あの時、凄く嫌な気持ちになったんだ…丸井さんが、あんな言われ方をしたから…
 冷静になったことで、桜乃はようやく掛けられていた金縛りを解くことに成功する。
「丸井さんが…一度でも貴女を選んだとは思えません…すみません、でも私は、そうは思えない」
「なん…」
「…確かに私は、取り得なんか何もないけど…お菓子で丸井さんを元気付けられるなら、それでもいいです。丸井さんが、もし、来るなって私に言ったら、私は来ません……でも、私からは来ないって、言いたくはない、です…」
「ふざけないでよ! 人の彼氏、横から掠め取っておいて、よくもそんな事が…!?」
 ガラッ!!
 高圧的な言葉から一気にヒステリックな口調で桜乃を責めた女子の言葉を、突然開かれた教室の扉が問答無用で止めると、続けて大きな叱責の声が教室中に響いた。
「や・め・ろ!!」
 いきなりの乱入者に、桜乃だけでなく、女生徒も驚いて扉の方を見ると、そこには扉に手を付け、こっちを睨んでいる丸井の姿があった。
「丸井…さん…」
「…もう大体分かった。おさげちゃん泣かしたのはお前だな!?」
 そう断罪するとずかずかと教室の中に入り、丸井は『過去の恋人』ではなく、桜乃へと真っ直ぐに歩いて行くと、ぐいっと相手から隠す様に彼女を抱き締めた。
「ま、るい…さん!?」
「もう止めろ、二度とこいつには近づくな、泣かすな!」
「ちょっと…あんまりじゃないの? 恋人ほっといて、あげくに他の女を庇うワケ!?」
「…俺、お前を恋人だなんて言った覚えはないぜ?」
「…え?」
「お前が勝手にそう言いふらしてただけじゃねぇか…迷惑してたよ、こっちは。大体、俺、あんたの名前も覚えてないけど」
 女性として、あまりに屈辱的な言葉を続けざまに受けて、相手の女子が真っ赤になる。
 しかし、咄嗟に口ごもってしまったのは、確かに彼からそういう事を言われた事がないという事実の所為だった。
「…何よ! こっちが物あげてた時にはへらへら笑ってたクセに!! 思わせぶりな態度とってて、それでいきなり縁切るなんて都合良過ぎるんじゃない!?」
「美味いモンは美味いし、別に笑ってもいいだろ。大体、俺にモノくれるヤツなんて山ほどいるぜ。それに恋人ぉ? お前、俺のコト、陰でペット呼ばわりしてたじゃねーか。知ってんだぞ、俺」
「…!!」
 丸井の直球の指摘に、相手が明らかに動揺し、顔が青ざめてゆく…が、少年は容赦なく続けた。
「『丸井君は餌さえあげとけば繋いでおける』って、他のお友達に自慢げに言ってたってな…確かに美味いモンは貰ったかもしんねーけど、心がこもったモノは貰った覚えはないね。どうせ犬でも繋いでおくための餌だったんだろ? 付き合えねーよ、そんな悪い趣味。俺、美味いモノ貰うのは好きだけど、ペットみたいに扱われるのは大っ嫌いなんだよ!!」
「っ!」
「そんな奴に付き纏われるなんて御免だね。男をペットやらコレクションにするのはそいつの勝手だけどさ、天才的な俺まで巻き込まないでくれる? 俺の大事なおさげちゃんも」
「丸井…さん」
「…お前さ、どうせこいつに変なコト吹き込まれたんだろ? けどまぁ、普通言えないよなぁ、こんな話は」
 自分に打ち明けてくれなかった少女の心中を思い、丸井は仕方ない、とため息をつく。
 まぁいいか、この女にあれだけ啖呵切ってくれたんだし…嬉しいことも言ってくれたしな。
「〜〜〜〜!」
 自身の後ろめたい過去を暴露された女は、明らかに取り乱した様子で忌々しげに二人を睨みつけ、高圧的な態度だった時とはまるで違う醜い顔をしていた。
 もう、丸井の心を引き止める事はどうしても出来ないことは分かっている筈である、なのに、その場に尚残るのは、既に目的そのものが摩り替わってしまっているからだろう。
 だがそれも、最早己に向けられた剣の様に、自身を傷つけることにしかならなかった。
「何よ…っ、その子はあんたの恋人でも何でもないって言ってたわよ。あんたこそ独りよがりでその子を勝手に独占したつもりなんじゃない!! 同じよ!!」
「同じじゃねーよい。こいつは俺のコト、ペット扱いしねーし、俺はこいつのコト、ただモノくれる奴だなんて思ってねーもん」
 けろっとした顔で丸井は桜乃を抱き締めたまま言い返す。
「え…?」
 驚いて見上げた桜乃の眼に、今度はう〜んと唸ってこちらを覗き込む少年の姿が映った。
「うーん…でもまぁ、俺もそんなこと言った事なかったよなぁ。それじゃあ、確かに何でもないって言われるよなぁ…よし決めた。おさげちゃん、今、恋人っている?」
「は? い…いえ」
 答えを聞き、にぱっと笑った丸井は、更にぎゅうっと桜乃を抱き締めて嬉しそうに爆弾発言をかます。
「じゃあ、おさげちゃん、俺の恋人にする!」
「はいぃ!?」
「独りよがりがダメなら、同意を貰えばいいんだろ? 俺、おさげちゃんのコト、好きだし。今すぐは無理でもさ」
「ちょ…ちょっと丸井さん!」
「〜〜〜〜〜〜っ!!」
 彼女の座を奪うどころか、過去の前科を暴露された上に、自分の取った行動で二人の仲を深めてしまうなど、散々な目に遭った脅迫者こそ、いい面の皮である。
 きっと心の傷が目に見えていたら、相当悲惨な状態の筈だ。
「最っ低!! もう勝手にしたら!?」
 せめてもの捨て台詞を吐いて教室を飛び出して行った姿は、滑稽であったが何処か哀れでもあった。
「ん、勝手にする」
「ま、丸井さんってば…」
 捨て台詞に律儀に反応しながら、丸井は借りてきた猫の様にごろにゃんと桜乃に抱きついたまま離れようとしない。
「あ〜、理由分かって良かった〜〜、おさげちゃん、もう泣くなよ? 泣きたくなったら俺に言えよな…何とかしてやるからさ」
「…はい」
 心底安心した口調の相手に、桜乃はくす…と笑って頷き、そんな少女を見て、丸井は更に嬉しそうに笑ってようやく彼女を解放する。
「じゃあ、戻ろう。戻ったら後であのクッキー食おう、一緒に」
「え?…まだ、食べてなかったんですか?」
「だって俺、おさげちゃんと一緒じゃないと食べないぜ? 今までもそうだったろい? だから今日はさー、ホント悩んでたんだぜ? 泣いてるおさげちゃんの隣で食べても、美味くなかっただろうからさ」
「……」
 言われてみたら、確かにそうだった。
 この人は、お菓子ばかりに夢中になっていると思っていたけど、よく思い返してみたら、いつも私の隣で食べてくれていた…
 だから私、この人の言葉と笑顔を、こんなに覚えていたんだ……
「…あは」
 嬉しい…嬉しくてたまらない……
「おっ、おさげちゃん!?」
 約束の後で早速泣かれてしまって、丸井は何事―っ!!とびっくりする。
「えっ!? 何!? 何!? 俺、泣かした!? おさげちゃんのこと、泣かせちゃった!?」
「…丸井、さん…」
「はっ…はい?」
「…好き、です」
「えっ……マジで?」
「はい…」
 泣きながらも笑って頷いてくれた少女に、涙の理由が悲しみではないのだと察した丸井は、今度は歓声を上げて桜乃を抱き上げた。
 やった! 同意が貰えた…ってことは、彼女はもう、俺の恋人だっ!!
「きゃっ!!」
「ああ! 俺も大好きだぜっ!!」
 こんなに俺のこと想ってくれるいい子、嫌いなワケがないだろ!?

 まるで子供のようにはしゃぐ丸井は、それからもしばらく、桜乃を独り占めするために教室から出ようとはしなかった……






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