時間は少々遡る…
「ふぃ〜〜、やぁっと終わったよーい!」
「これで全部だね?」
「全く…たるんどるぞ」
 教室の中で、幸村、真田、丸井という珍しい顔ぶれが頭をつき合わせていた。
 真田からお叱りを受けた甘党小僧は、ぐで〜っと机の上でのびてしまっており、相手の説教など馬の耳に念仏…もとい、丸井の耳に真田の一喝…
「だって、一人じゃどうにもならねーもん…明日までの宿題なんて聞いてないよぃ」
「確かにブン太だけは聞いてなかったみたいだね」
 きっと昼寝でもして聞きそびれていたのだろう、と幸村が笑う脇では、真田は変わらず仏頂面だった。
「精市…お前は何かと部員に甘いのではないか?」
「そうかな。テニスについては妥協出来ないけど…日常生活でも甘くしているつもりはないよ?」
「そのとーり! 真田が厳しすぎるんだよぃ!」
「二度と助けてやらんぞ」
 どうやら、明日までの宿題を丸井が二人に手伝ってもらっていた様で、彼の前には完成したらしいレポート用紙が厳かに置かれていた。
「さ、借りた本を図書室に届けてコートに向かおうか」
「そうだな」
 幸村と真田がそう言った瞬間、がばっと丸井の上体が跳ね上がった。
「っ!!」
 先程までのゾンビのような無気力さは何処へか消え去り、その表情は緊迫感一色に染められている。
 珍しい相手の変貌に、同席の二人も何事かと身体を向けた。
「どうしたんだい? ブン太」
「丸井…?」
 二人には答えず、相手はがたんと席から立ち上がり、最寄の窓際に走った。
「おさげちゃんの声がするっ!」
「え…?」
「…竜崎?」
 そんな声は聞こえなかったが…と訝る二人はもう完全に無視で、丸井は窓際から身体を乗り出し、その表情をさらに厳しいものに変えた。
「おさげちゃん!」
 丸井の視線の先に映ったのは、三人の男子に囲まれ戸惑っている桜乃の姿だった。
 どう見ても、彼女を困らせているのは同じ立海の人間だ。
「あれは…本当だ、竜崎さん」
「何を不届きなことをやっている…っ!!」
 丸井の後ろから同じく下を見た幸村達も、丸井の聴力の良さを再確認し、同時に何が起こっているのかを悟る。
 よりによって、立海の人間が他校の人間に対し、あんな無体を仕出かすとは!!
 非道を許す事が出来ない真田がすぐに廊下へと飛び出すと同時に、丸井も自分達が座っていた机へと飛びついて、そこに置いてあった三冊の辞書を一まとめに抱え込んだ。
 一冊でもかなりの重さの物を軽々と抱えて窓越しに運ぶと、彼はそれらを持ったまま再び下を見下ろす。
「あんにゃろ〜〜!!」
 事態は収拾どころか悪化の一途を辿っており、か弱い少女の腕が相手方に掴まれ、引きずられようとしていた。
「ブン太…?」
 幸村が尋ねる声にも返事をせず、丸井がじっと桜乃と三人の位置を鋭い視線で見つめる。
 互いに引き合う身体は一定の位置には定まらず、常に移動を続けていたが、丸井はその彼らの動きを見切ると同時に、即座に行動を起こした。
「きったねぇ手で触んなぃっ!!」
 ぶんっ! ぶんっ! ぶんっ!
「あ…」
 幸村がぽつりと一言だけ呟いた前で、丸井が勢い良く続けざまに辞書を投げ落とし、それらは投げられた方角へと落下しながら加速度をつけ、あの三人の頭上へ直撃を果たしたのだった。
 四人が激しく揉み合っていた中での、見事なコントロールによるピンポイント攻撃。
「……」
 幸村が見つめる中、丸井は僅かな無言を守った後、
「いいぜ、幸村。殴ってくれ!」
 一言だけ言った。
 王者たる立海男子テニス部の部員にあるまじき加害行為に対し、甘んじて制裁を受けようとした丸井だったが、幸村は制裁を加えるどころか逆にぱちぱちと拍手をしつつ苦笑した。
「いや…寧ろ天晴れだった。ナイスコントロール、ブン太」
 それより早く彼女に声をかけてあげて、という相手に、丸井もまた、にかっと笑い、その日初めて桜乃に声を掛けたのだった……


「同じ立海の人間として詫びる。不快な思いをさせてしまったな…あいつらにはきついお灸を据えてやった。もう二度と馬鹿な真似は仕出かさんだろう」
「は、はぁ…私は大丈夫ですから、真田さんも気にしないで下さい」
 コートで全員揃った後で、桜乃は改めて風紀委員長から謝罪を受け、その時に初めて騒動の顛末を聞いたレギュラー達は一様にひええぇと身体を震わせた。
「そ、その三人、生きてんのか?」
「ご愁傷様じゃな…」
「謹んでお悔やみ申し上げます…ついでに二度と顔を見せてほしくないものですが」
「真田副部長の声が聞こえたのは、その所為だったんスね…こっちまで肝が冷えたッスよ」
 話がひと段落ついたところで皆が解散し、その場に丸井と桜乃が残った。
「無事で良かったな、おさげちゃん」
「はい、丸井さんのお陰です、有難うございました」
 嬉しそうに礼を述べた桜乃に、丸井はえ、と戸惑い、何とかその場を誤魔化そうとする。
「い、いや、俺のはホラ、偶然だったんだよぃ…別に礼を言われる程の事じゃあ…」
「あんなにぴったり、偶然目標に連続で当てられる人なんかいませんよ」
 くすくすとお見通しとばかりに桜乃は笑う。
「それに、狙ってもあれだけ正確に当てられる人なんて、丸井さん以外にいないでしょ?」
「う…」
 しっかりばれてしまっている事実に、丸井がらしくもなく照れて赤くなり、ちぇっと視線を逸らせた。
「…な、内緒にしとけよぃ」
「はい! でも嬉しかったです…助けて下さったのが丸井さんで」
「!……へぇ、そうかぃ?」
「はい」
 自覚があるのかないのか…あっさりと言い切った少女に、男の方が面食らう。
「そ、そっか…俺で…良かった?」
「はい!」
「ふぅん…ウチでも人気のアンタだったら、誰でも助けてくれそうな気がするけど…」
「え? 人気?」
 不思議そうに繰り返す桜乃に、少しだけ自己嫌悪に陥った丸井がぶすっとした顔で答えた。
 コイツは全然悪くないのに、何で俺、こんなコト、コイツに言ってんだろう…
「結構アンタが人気あるんだって幸村のヤツが言ってたぜぃ? 立海の誰かがアンタと話して、凄い良い子だって褒めてたってよ」
「そうなんですか?」
 丸井の感情の揺らぎにはまるで気付いていない様子で、少女はん〜と考え込む。
「全然覚えてないです…丸井さんにお世話になっていることはよく覚えていますけど…あれ?」
「俺…って…」
「きっと皆さん、からかっているんですよ〜」
「……」
 本当に気付いている様子がない……コイツ、完全に、予想以上の天然だ!!
「でもでも、私、丸井さんに助けてもらったり、テニス教えてもらっていることはずーっと覚えていますよ?」
「そ、そう…? そりゃ、良かった…」
 ボールや自分の身体のコントロールには絶対の自信がある若者は、初めて心にはそれが通じない事実に気が付いた。
 さっきの意味不明な苛立ちも、単に自分で自分をコントロール出来なかっただけだ。
 世の中ではそれをヤキモチと呼ぶらしいけど…
 けど、ボールを完全にコントロールしている時より、コッチの方がわくわくする!
(コイツ…なんでこんなに気になるのか分かった…)
 可愛いだけなら他にももっと上がいる。
 優しいヤツも多分…同じだ。
 自分がこんなに気になっていたのは、これまで会った女性達にはまるでなかったこの感じ…これを与えてくれるヤツだったからだ!!
「……はは」
「? 丸井さん?」
「…なぁ、竜崎」
「はい? 何ですか?」
 呼びかけた相手に、少女がきょと、と顔を上げると凄く楽しそうな顔をしている彼と目が合った。
「俺、お前好きー」
「え!?」
 びっくりする彼女の表情も楽しくて、嬉しくて、丸井は更に笑顔を深くする。
「お前は、俺のコト、好き?」
「え…っ…は、はい…」
 あまりに突然…しかし飾りのない真っ直ぐな質問に、桜乃の心は戸惑いながらもあっさりと真実を言葉に乗せた。
 嫌いということは有り得ないし…自分が彼のことを好きなのは、確かだから。
「そっか…んじゃ、これからもっと俺のコト、好きにさせてやるよぃ!」
「ま、丸井さん!?」
 何だか、わくわくが止まらない!
 きっと、自分は今、これまで生きてきた中で一番ドキドキしてる!!
 コントロール出来ない心が暴走するのも悪くない…と思いながら、丸井は周りのレギュラー達が注目する中、大好きな少女に抱きついていた……


 丸井の宣言から数日が経過した立海…
 そこでは相変わらず平和な時が流れているかと思いきや…
「…竜崎の人気は相変わらずじゃのう…」
「まぁ、幸村部長の言う通り、素直で優しい女性ですからね」
 テニスコートで相変わらず練習に打ち込んでいるレギュラー達が、校舎脇を歩いている少女を見つめていた。
 どうやら青学から今ここに到着し、コートへと向かってきているらしい彼女は、立海の見慣れない男子生徒から話しかけられていた。
 相変わらずぽやぽやした空気を振りまいている彼女は、相手の言葉を素直に聞いて、それに答えている様子である。
 これはもう、彼女の存在が更に認知されていくのは確実の様だ。
 その少女の表情が、何か困った様な、照れた様なそれに変わったのを、レギュラー達は見逃さなかった。
「ありゃ…またアプローチされてんのか?」
 ジャッカルの困ったもんだ、という口調の台詞に対し、柳がすっぱりと断言する。
「『今度、一緒にお茶でもどうですか』…そう言っているな、あの男」
「見ず知らずの人間に頷くほど軽い女性ではないぞ、竜崎は…」
「そうだね…」
 柳の言葉に同じ意見を述べた部長と副部長がふと隣を見ると…
「……」
 むっと唇をへの字型に引き結んだ丸井が、ラケットとボールを持って、向こうの男子生徒を睨みつけていた。
 それからすぐに彼がサーブの姿勢に入ったところで、慌ててジャッカルと切原が止めに入る。
「待て待て! 丸井!!」
「流石に昨日と同じパターンはマズイっす!!」
「うるせー!! 離せぃっ!!」
 相手を二人がかりで羽交い絞めにしたところで、仁王がやれやれと丸井に野球ボールを手渡した。
「せめてコレにしとけ…ほれ」
「仁王君…何処から出したんですか、それ」
「秘密」
 打つの打たないの、賑やかな仲間達を見つめながら、副部長の真田は深い深いため息をついた。
「…竜崎には悪意が無いだけに、来るなとも言えんのだが…」
「流石に、『流れ玉、注意』って貼り紙を貼らせてもらいたいくらいだね…俺もそろそろ注意した方がいいかな」
 幸村も同じくやれやれと苦笑する。
 実は、あれから桜乃に近付く男達は、片っ端から丸井の怒りの一撃の犠牲になっているのだった。
 昨日も彼女に言い寄っていた男子が、丸井によってボールによる攻撃を受けてしまった。
 流石にコントロール力抜群の男だけあって、百発百中の腕前であるが、やはり心のコントロールはまだまだ難しい様だ。
「んも〜〜〜! 丸井さんっ! それはやっちゃダメですー!」
「だ、だってお前がさぁ…」
 結局打ってしまった丸井は、後でコートに走って来た桜乃にしっかりとお叱りを受けてしまう。
「お気持ちは嬉しいですけど…今度からは、やっちゃダメですよ?」
「う…分かったって」
 桜乃に諭される若者の様子を伺い、幸村はくす、と小さな笑みを零した。
「…やっぱり、もう少し様子を見ようかな」
「精市…?」
 不思議そうにこちらを見る真田に、幸村は確信にも似た言葉を付け加えた。
「…どうやら、俺が言うより効果があるみたいだからね」
「ふむ…?」

 彼が精神をも上手くコントロール出来るようになるのも、近いかな……
 穏やかな笑みを浮かべる部長が見つめる先で、抜群のボールコントロールを誇る若者は、渋い顔をしながらも少女の言葉に笑みを浮かべて聞き入っていた…






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