おまじない


 今年のバレンタインデーは、見事な快晴。
 普段通りの通学風景の中でも、生徒達はどこか心が浮き立ち、笑顔もいつもより弾けていた。
 特に女子
 毎年、この日の主役は彼女達であると言っても過言ではないだろう。
 無論男子でも主役級の存在はいるだろうが、残念ながら、それは全ての男子に約束されたものではないのだ。
 女性が男性へ好意を伝える儀式…
 何処かの製菓会社の企みで始められたと言われているこの国のこの行事ではあるが、それでも当人達が幸せでいられるのなら、存在する意義はあるのかもしれない。
 そんなバレンタインデーは、無論、立海にも変わらず訪れていた。
 朝から昼、昼から放課後…
 時間が経過するに従って、今年のこの日における『勝ち組』と『負け組』の差が顕著になっていた。
「…うーむ」
 放課後になり、いつもの様にテニス部部室へと移動した仁王は、貰ったチョコレートの山を見つめて気だるそうに唸っていた。
「どうした、仁王」
「持って帰るにはだるいの〜…やっぱりロッカーに保管しとくかの」
 ジャッカルの問いに、目の前の戦利品を見つめたまま答える若者は、それがどれだけ有り難い事なのか分かっているのだろうか?
 分かっていて、それを敢えて隠しているのだろうか?
「お前なぁ…世の中には欲しくてももらえないヤツが山ほどいるんだぞ?」
 ジャッカルが仁王に注意していると、部室のドアが遠慮がちに開かれ、そこから一人の少女がひょこんと顔を覗かせた。
「お邪魔します」
「お、竜崎」
「おう、よう来たの」
 まるでそれが日常の生活の光景であるように、男達は少女の入室をあっさり許可した。
 立海テニス部は全国でもトップクラスの実力を持ち、当然、その活動内容は非常に厳しい。
 それについて来れない人間は部に在籍することすら難しく、ついてこれたからと言ってレギュラーの座が確約される訳でもないのだ。
 更に彼らの練習は、部員達の集中力を高める為に、部外者の来訪を極力控える形になっているのだが、最近、それについては一つの例外が出来た。
 それが彼女…青学の竜崎桜乃だ。
 立海のレギュラー達と非常に懇意な仲になっている彼女は、練習の邪魔をしないという絶対の約束の許で、彼らの練習を見学出来る珍しい存在なのだ。
 浮ついた応援はしない、しかしテニスに対する熱意は自分達にも劣らない桜乃は、部長の幸村を始めとする全てのレギュラーに可愛がられている稀有な女性だった。
「まぁ座れ、今日は早かったな」
「はい、午後が特別課外で、早めに終わったんですよ。ラッキーでした」
 ジャッカルが椅子を引いて彼女に勧めている脇では、仁王ががさがさと貰ったチョコレートの入った紙袋を漁っている。
「何か飲むか? お茶請けならここに幾らでもあるぜよ」
「…仁王さん、それ、バレンタインのチョコでしょう…」
 いいんですか?と笑顔が少し強張っている桜乃に、銀髪の色男は別に構わないとばかりに頷いた。
「名前も知らん奴らからじゃからの〜…まぁ、カードがあればそれでお返しは出来るし…」
「勿体無いんじゃないですか?」
「じゃあ、物々交換で」
 尋ねた桜乃に、仁王はにゅっと自分の左手を差し出し、ひょいひょいとねだる様にそれを振った。
「チョコでええよ?」
「…確かに持って来ましたけど…何だか納得いかないなぁ」
 苦笑しながらも、桜乃は強請られるままに鞄から立海のメンバーへのチョコを取り出した。
「はい、いつもお世話になってます、桑原さん」
「お、悪いな。実はアンタからは貰えるんじゃないかって期待してた」
「あはは…じゃあ、はい、仁王さん。もしかしたら、そっちのチョコの方が美味しいかもしれませんよ?」
「別に比べるつもりもない。実際、知らない奴からよりお前さんから貰った方が嬉しいぜよ」
「そ、そんなものですか?」
「そんなもの」
「…あ、有難うございます…ところで、他の皆さんは…」
 照れた桜乃がきょろ…と辺りを見回すが、他のレギュラー達の姿が見当たらない。
 あれ?と思った相手に、ジャッカルが気にするなと笑った。
「もうすぐ来るさ。俺達のクラスがたまたま早く授業が終わったってだけだ」
「そうですか…」
 頷いた少女に、仁王が、おい、と声を掛ける。
「こないだ話しとったテニス雑誌、今日持ってきとる。俺はもう読んだから、良ければお前さんに貸しちゃるが…?」
「わ、本当ですか! 是非読みたいです!」
「ああ、ええよ…じゃあ、ちょっと待ちんさい」
 優しく笑いながらすくっと立ち上がり、部室の自分のロッカーの前に仁王が立ったところで、また部室のドアが開き、新たな部員が入室してきた。
「あ、丸井さん!」
 レギュラーメンバーの中でも、三年生でありながら一番子供っぽい心を持つ若者が入ってきたのを見て、早速桜乃がにこやかに挨拶した。
「こんにちは、丸井さん! お邪魔してま…」
 すい…っ
「!?」
 いつもなら、自分が挨拶も終わらない内に、
『おう、おさげちゃん!! よく来たなー!』
と元気に抱きついてくる相手が……無言で彼女の脇を素通りした。
(え…?)
 これに驚かない訳がない。
 桜乃は、がーん!と少なからぬショックを受けて呆然とした。
 いつもニコニコと笑っている、あんなに優しい人がいきなり自分を無視するなんて…
 私…そんなに、彼に対して何か失礼な、嫌な事をしてしまったの……!?
「あ…の……」
 ショックのあまり瞳が潤んでしまった少女の様子を見て、流石に穏健なジャッカルもこの時ばかりは怒声を浴びせた。
「丸井っ!! 何だその態度は!!」
「……」
 そう言われても、丸井は相変わらず仏頂面で一言も話さない…謝らない。
「……」
 無言で、そんな彼を見ながら、ロッカー前で屈んでいた仁王がゆっくりと立ち上がり、ジャッカルは更に丸井に詰め寄って相手を非難した。
「何があったか知らないが、挨拶ぐらいはしろ!! 竜崎に失礼だろうが!」
「あ、あの…」
 自分の所為で、皆の仲が険悪になってはいけないと、桜乃がジャッカルの服の裾を引いて止めようとしていたところで、今度は部室に副部長の真田が入ってきた。
「何だ、騒々しい…む? 竜崎?」
「あ、こ、こんにちは、真田さん…」
 桜乃に気付いた相手は軽く少女に挨拶を返すと、部室の中を見渡すことで、騒動の中心が丸井であることを何とはなしに察した。
「…丸井が何かしたのか?」
 質問に、ジャッカルが頷いて真田を振り返った。
「丸井のヤツが、部室に入って来てから何も言わないんだ、竜崎に挨拶もしないで…」
「何?」
 挨拶は人間関係の基本中の基本であると常日頃思っている真田にとっては、当然見過ごせない非礼。
「丸井、何故挨拶をしない」
「まぁ、待ちんさい」
 注意する真田を止めると、それまで傍観していた仁王が、すたすたと丸井の目の前まで歩いて来た。
 そして…

 むぎゅっ!!

 徐に、相手の両頬を思いっきり横へと引っ張った…途端

「ひぎゃあああああああ〜〜〜〜!!!!」

 部室中に響く、凄まじい悲鳴。
 びっくりして数歩引いた桜乃達の前で、唯一動じなかった詐欺師は、呆れ顔で悲鳴の持ち主の口を覗き込んでいた。
「…やっぱり虫歯じゃったか」


「歯ぁ、いてぇ〜〜〜〜〜!」
 結局、誰にもばれないよう無言で防御する作戦も失敗に終わり、丸井はう〜っと涙目で椅子に座りながら右頬を手で押さえていた。
 部室にはまた新たなレギュラーが顔を見せ、いないのは幸村と柳だけだった。
「いつから痛むんですか?」
「一昨日…今日から酷くなった」
「二日も経ってるぞ、歯医者、行って来い」
「やだ」
 柳生やジャッカルにもようやく言葉を返してはくれるが、その表情は痛みに耐えて辛そうだ。
 そこに、桜乃が氷嚢を作って、丸井に手渡した。
「これで冷やしてみて下さい…あ、やっぱり熱もってる」
「あー…サンキュ、おさげちゃん…さっきは悪かったな」
「いいえ、気にしないで下さい」
 ひたりと頬に氷嚢を当てつつ、桜乃に詫びている丸井に、真田が厳しい視線を向ける。
 挨拶云々については不問にしたとしても、問題が解決された訳ではなかった。
「しかし丸井、どうせその状態ではロクにラケットも握れんだろうが。今日はもう部活は参加しなくていいから、歯医者に行って治療を受けて来い!」
「嫌だ!!」
 がぁっと大声で丸井が真田に反抗する。
「だって、歯医者行ったら注射されんじゃんか!!」
「行け!!」
 あまりにも馬鹿馬鹿しく、論争する価値すらない相手の反論に、真田が負けじと怒鳴り返した。
「ま、丸井さん。早く行かないと、歯の神経が腐ってしまうんですよ?」
 桜乃が何とか相手を歯医者に行く気にさせようとアドバイスしても、彼は頑固に首を縦に振ろうとしない。
「…腐ってもいい」
「え?」
「腐ったらもう痛まなくなるから、それまで我慢する」

 ぶちっ!!

 その一言で、真田の堪忍袋の緒がぶち切れた。
「歯を食い縛ってそこに立て!! 麻酔抜きで、俺が神経ごと砕いてやるわ―――っ!!!!」
「ぎゃ〜〜〜!! 人殺し―――――っ!! 助けておさげちゃんっ!!」
 本気でやりかねない鬼の副部長の鉄拳から逃れようと、丸井は桜乃を盾にして小さく隠れてしまった。
「真田副部長…それじゃあ誰でも逃げるッスよ」
 俺だってそうだ、と思いつつ切原が相手に進言しているところで、ようやく部室に部長の幸村と参謀の柳が現れた。
「やあみんな、揃ってるね」
「外の部員に聞いたぞ。丸井、歯が痛むそうだな。早めに歯医者に行くといい」
 まだ真田の殺気を感じている丸井は、ひょこっと桜乃の後ろから顔だけ出して、尚も意固地に反抗を試みた。
「…神経腐るまで待つ」
「……」
「……」
 し―――――ん……
 呆れ顔で幸村と柳が暫しの沈黙を守る。
 やがて柳がつと動いて丸井…ではなく、桜乃の手を引いて丸井から引き離し、その三人で輪を作った。
 ぼそぼそぼそ…
 何やら、怪しい密談…
 やがて話が決まったのか、三人が同時にうんうんうんと頷いた後、
「じゃあ、竜崎さん」
「どうぞ」
 幸村と柳が、掌を上に向ける形で少女に発言を促した。
「丸井さん、今日は楽しいバレンタインデーです。勿論、丸井さんにも、美味しい手作りチョコを持ってきました…が!」
 訥々と語っていた桜乃が一度言葉をそこで切り、厳しい顔できっぱりと断言する。
「虫歯をほっとくような悪い子には、一生あげませんからっ!!」
 途端、丸井が自分の携帯が入っていたバッグへと猛ダッシュ。
「もしもし!? 至急歯の治療を受けたいんで検索をっ!!」
 どうやら近所の歯医者をサービスで探してもらおうとしているらしい。
 それにしても先程までの強情さとは打って変わって……
「効果覿面だね」
「まぁ、竜崎のチョコが掛かっているからな…」
 丸井の為を思い、二人の策士に言われたとは言え、相手にある意味暴言を吐いてしまった桜乃がおろおろと彼らの間で視線を泳がせている中、幸村はよしよしと可愛い功労者の頭を撫でてやりながらにこりと微笑んだ。
「今日は、丸井はそのまま帰すよ。悪いんだけど竜崎さん、彼がちゃんと歯医者に行くようについていってあげて……敵前逃亡しないようにね」
 優しく笑っていながらも、さらりと結構きついことを言う部長に、はぁ…と桜乃は素直に頷いた。



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