(き……来てしまった…)
それから数十分の後…
丸井は桜乃と二人で、駅前にある一軒の歯医者の前に立っていた。
桜乃の宣言に背中をつつかれて来てしまったものの、今更、丸井の背中を恐怖と悪寒が襲っている。
「や…やっぱり明日に…」
「ダメです」
ホラ来た、とばかりに、若者の提案をすぐに却下した桜乃は、もーうと困った口調で相手を見上げた。
「歯は早く治さないといけませんよ。スポーツでも、歯の存在は重要視されているんですからね?」
「お前、嫌な知識持ってるなぁ〜〜」
「丸井さんの為に言ってるんです」
むっと胸をそらして応えると、桜乃は相手の手を取って、歯医者の入り口のドアに手をかけた。
「ほら、治してもらったら、痛みも治まり…」
ぎゅいぎゅいぎゅい〜〜〜〜ん!!
『うわぁ〜〜〜〜〜ん!! 痛いよ〜〜〜〜っ!!』
開いたと同時に、中から聞こえてくる治療真っ最中の音の数々…
「やっぱりパス〜〜〜〜〜ッ!!」
「丸井さ―――――んっ!!!」
何とか逃れようと逃亡を図る相手の腕を、必死に掴みながら桜乃はそれを阻止した。
年上の人についてきている筈なのに、どうしてこういうお母さんみたいな役をしなければならないのだろう…
「こ、子供でしたからっ! 恐くて泣いてるんですよ、あれはっ!!」
今の丸井と殆ど変わらないが、無論、それについては伏せておく。
「わ――――――っ!! ムリムリムリ! ぜってー痛いってば!! ガキの時にめちゃくちゃ痛い思いしたんだ俺っ!!」
「んも〜〜〜! 昔の話なら大丈夫ですよ! 今は随分進歩してますから、麻酔も殆ど痛くないんです! 最初にお願いしたら、向こうも気をつけてくれますから〜〜〜!!」
これではどちらが年下か分からない…
何事…とこちらに目を向けてくる周囲の視線に必死に耐えながら、桜乃は相手を優しく宥めた。
おそらく真田だったら、殴って気絶させてから医院へと放り込んでいただろう。
「折角、予約したんだし…行かないといけませんよ。それに、そんなに痛がってたら、ずっとテニス出来なくなっちゃうじゃないですか…いいんですか?」
「う……」
肩で息をしながら諭す桜乃に、若者は気まずそうにしながらも、逃亡は思い留まった様子で大人しくなった。
「ね? ちゃんと終わるまで待ってますから」
「…けど…やっぱ、痛いのヤダ」
「……」
テニスだったら例えボールが直撃しても、泣き言一つ言わずに向かっていくのだろうに…
男の子って分からないなぁ、と思いつつ、桜乃はやれやれと肩を落とした。
これは……本当に最後の手段なんだけど…仕方ないかな。
「…じゃあ、丸井さん。おまじないをしてあげます」
「…おまじない?」
胡散臭そうにこちらを見る視線を敢えて無視して、桜乃は相手に説明した。
「お母さんから教えてもらったおまじないなんですけど…これをやったら、どんな辛いことでも我慢出来るし、歯の痛いのもなくなるんです。今から私が丸井さんにしてあげますから、ちゃんと治療を受けるんですよ?」
「何か、嘘っぽいな〜…何やるんだよ」
「……」
ちう…
「っ!!!????」
突然…不意打ちだった。
虫歯がある右の頬に、桜乃が軽く唇を触れさせたのだ。
柔らかな唇の感触が頬に触れ、離れざまに彼女の微かな吐息が右の耳元をくすぐってゆく。
一瞬のことが、何秒にも感じられた……
「え……」
「…これでもう痛くないですよ」
呆然と…
柔らかな感触を感じたばかりの頬に手を触れて、丸井が少女を見下ろす。
今のって…おまじない…っていうか…
「頑張って下さいね」
「う…」
尋ねようとしたが、相手の笑顔にそれも閉ざされ、男はふらっと言われるままに一歩を踏み出した。
痛いとか何とか言っていた意識が、遠くに飛ばされていってしまった。
今自分が感じることが出来るのは…頬に感じたあの柔らかな唇だけ…
気を抜いたら倒れそうになるところを必死に堪え、若者はゆっくりと医院の中へと入っていった。
医院に入って、治療を受けて……
二人が揃って外に出た時には、もう日が落ちていた。
「どうでした?」
「注射した…けど、神経は大丈夫で、歯も抜かなくていいって」
「良かったですね」
「……サンキュな…おまじない、効いた」
本当に効いた。
歯科医の腕が良かったのかもしれないが、丸井が桜乃の唇の感触を思っている間に、疼痛処理の処置が全て済んでしまっていたのだ。
まだ数回通う必要はあるが、もうあれ程の痛みは起こらないだろうと歯科医は言ってくれた。
ぼそりと呟いた丸井の頬が赤いのは、外の冷気によるものか、それとも……
そんな相手のささやかな変化に気づいていないのか、桜乃は相変わらず優しい笑顔を浮かべていた。
「でしょ? とっておきなんですよ」
「とっておき?」
「簡単に、誰にでもやるものじゃないんです…内緒ですよ」
「……」
照れ笑いを浮かべている可愛さ満点の相手が、ごそ、と開いた鞄からチョコレートの箱を取り出した。
「じゃあ、お約束でしたから、チョコ、あげますね」
「あ、ああ…」
確かに、ここに来た時には、チョコが欲しくて…だから予約もしたけど……
今は、チョコより……そんなのより…
「…な、おさげちゃん…あのさぁ」
「はい?」
「次の受診日…来週の月曜なんだ」
「そうなんですか」
「でさ…」
「はい?」
「…そん時にまたさ…おまじない、してくんない?」
「え…」
ぽ…と少し頬を赤らめてこちらを見つめる相手に、丸井が照れ臭そうに脇へ視線を逸らせながら続けた。
「だって…マジで効いた…あれしてくれたら、俺、歯医者だけじゃなくて、テニスでも何でも負けない気がする…」
「丸井さん…」
「なぁ、ダメ? 俺だけに、とっておき、してくんない?」
おまじないという意味でも構わない…その行為を、俺だけの為にしてくれない?
「あ…」
真っ直ぐに、縋るような目線で射抜かれた桜乃は、更に頬を赤らめながら相手を見つめ返していたが…やがてそろそろと視線を外すと、ゆっくり、こくんと頷いた。
「い…いいですよ…丸井さんなら…」
「マジ!?」
「…はい…」
「すっげ―――――嬉しいっ!! サンキューな、おさげちゃんっ!!」
貰えた嬉しい返事に、丸井はその場で飛び上がって喜んだ。
「俺、虫歯になって良かった〜〜!」
「もう! そういう事じゃないですよ」
たしなめる少女の言葉にも構わず、丸井はそれからもこの上も無く上機嫌で、二人はそのまま駅の改札口へと歩いて行く。
丸井はここから徒歩だが、都内に住む桜乃は電車に乗って帰宅するのだ。
「…じゃあな、おさげちゃん。気をつけて帰れよ、最近は物騒だし」
「はい、大丈夫ですよ。じゃあお休みなさい、丸井さん」
「……あ、ちょっと」
「はい?」
不意に桜乃を呼び止めて、丸井がたたーっと彼女へと走り寄り…
「ほい、無事に帰れるおまじない」
ちゅ…
「!!!」
同じ様に…今度は丸井が唇を桜乃の右頬に触れさせる。
あの時感じた様に…少女の頬も柔らかな感触を返してきた。
「ま、丸井さんっ!?」
「へへ…とっておきだろぃ?」
びしっとピースサインをした丸井が得意げに微笑んだ。
「俺も、お前以外にはやらねーよぃ。またな」
「……はい」
恥ずかしそうに…しかし嬉しそうに微笑んで、改札の向こうに消えてゆく少女の姿を、丸井はずっと見つめていた。
おまじない…
今はそういう言葉で、そういう意味合いしかないかもしれないけど…
けどいつか、別の意味で、お前にしてみたいな…
おまじないじゃなくて……好きなヤツだけにしかしない、とっておきのキスを。
もう少しだけお預けかな、と思いつつ、踵を返しながら丸井は白い息を吐き出した。
「…サイッテーだったけど、サイッコーのバレンタインだった」
了
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