オトナの恋?
立海大附属中学の或る日の昼休み…
「すっかり春の気配じゃのう…」
「桜が楽しみだね」
男子テニス部三年レギュラーの幸村や真田、仁王達が集まって、外の景色を眺めながら一緒に昼食を摂っていた。
場所は幸村のクラスの窓際である。
「おや、丸井君がいませんね」
不意にその事実に気付いた柳生がきょろきょろと辺りを見回し、見間違いではないことを確認したが、相棒の仁王は箸を口に含んだまま、あっさりと言った。
「別に集まろうと言っとった訳じゃないからの、今頃何処かで誰かの弁当を漁っとるんじゃないか? それとも、空腹のあまり何処かで行き倒れとるとか」
「それはいけませんね…連れ戻しに行かなくていいんですか? 桑原君」
「お前らの頭の中では、俺がアイツの保護者だというのはデフォなんだな…」
あまりに自然に交わされた会話に、ジャッカルは激しく凹んだ。
正直、あの二年生エースのお目付けというだけでも、日々寿命が削られている気がするのに、この上あの大食漢の面倒まで見なくてはならないのだろうか…
「お前はあの二人に関わりすぎだ、ジャッカル。切り捨てたいのなら、その人のよさを何とかしなければな」
「…何処かで倒れている事はないだろうけど、もしかして、食堂で何かあったのかな」
「どうせ大したことではなかろう。好きにさせておけ」
幸村に、真田が放置を決め込む発言をした直後だった。
『ぎゃ――――――――――っ!!!』
のんびりと昼食をとっていた幸村達の耳に、物凄い悲鳴が聞こえてきた。
あの悲鳴の声、まさしくあれは……
「…丸井君ですね」
「何じゃ、生きとったか」
「良かったね」
「これで安心だな」
「全く心配を掛ける…」
「…お前ら、やっぱり何か、どっか頭おかしいぞ」
聞こえたのは幸せそうな笑い声でも何でもなく、悲鳴なのだ。
こういう場合は、何事か起こったのかを心配するというのが、友人以前に人としての当然の反応ではないか?とジャッカルは激しく思ったが、他のみんなは全く意に介していない。
「多分、おかずでも落としたんでしょう」
「気をつけんと俺らの分が取られるぞ」
「あ、弦一郎。このから揚げ食べる? 美味しいよ」
「む、すまんな…では俺はこの…」
「俺にも一つ分けてくれ」
「だから少しは気にしてやれよ、お前ら〜〜〜〜〜っ!!」
もしかしたら、ジャッカルの敗因はこの立海に入学した事実そのものかもしれない。
このままでは自分の常識が瓦解しそうだ!とジャッカルが思っていたところに、教室の中に話題の丸井本人が入って来た。
物凄い衝撃を受けたのか、表情が殆ど死んでいる。
「ま、丸井? どうした?」
恐る恐るジャッカルが尋ねる間に彼らの円の中に加わると、相手はがくっと目の前の机に突っ伏してしまった。
「作戦が完全に狂った…十四日が試験最終日なんて…」
「試験…?」
問い返す柳生の隣で、ああ、と仁王は頷いた。
「今度の高校昇格試験のことじゃな…そう言えば俺のクラスでも今日発表じゃった」
立海は中学から大学までのエスカレーター式だが、無論、一度入れば誰でも大学まで行く事が出来る程に過保護ではない。
上に上がるにはそれなりの実力があることを、試験という形でしっかりと示さねばならないのだ。
しかし、それは何処の一貫校でも同じ様なものである。
「それが何か…? 或る程度の学力があれば大丈夫でしょう。とは言え、上の順位を目指すのなら、やはり前もっての勉強は必要でしょうけどね」
柳生は既に受かっていると言わんばかりに余裕の発言である。
「今年は例年より少し時期が遅れたね…それで喜んでいる人達もいるけど、どうしてそんなに落ち込んでいるの? ブン太」
首を傾げて疑問を投げかける部長に対し、丸井より先に仁王が答えた。
「十四日というと、ホワイトデーじゃな…どうせコイツのことじゃから、試験よりもそっちの問題じゃろ」
「……手作りカップケーキ…二百十三個…作るつもりだったのに」
あー成る程ね、と全員が納得。
試験期間中に、そうそうのんびりカップケーキなど作っていられないだろう。
しかし二百個を越えるカップケーキを作ろうと思うのも、或る意味剛毅である。
「仕方なかろう、今年は市販のもので済ますのだな」
真田が尤もな意見を述べたが、丸井は突っ伏したまま首をぐにぐにと振った。
「そんな予算ない…手作りだから、出費は毎年二十五パーセント以下に抑えられていたのに〜」
「義理を果たすなら出費もやむをえまい」
「俺のお菓子代を削ってまで果たす義理なんかねぃ」
たった一人を除いては…という言葉は飲み込んで。
「じゃあやるな!!」
くわっとイラついた真田が怒鳴る脇で、仁王達はひたすら呆れた視線を向けている。
「ううう〜〜〜〜、でも、絶対お返しはあげなきゃ〜〜〜」
べそべそと尚ゴネる丸井に、実に奇妙だと幸村が表情で語った。
「…何だか矛盾してるなぁ」
その矛盾は、すぐに参謀の柳が実に簡潔に暴いてくれた。
「…一度ホワイトデーにお返しをあげなかった男子には、以降は半数、或いはそれ以上の女子が二度とプレゼントをしなくなるそうだ」
「うわ〜〜〜〜〜〜んっ!! 俺の来年の先行投資計画が〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!」
柳が突きつけた非情の現実に、丸井が一気に感情を暴発させたが、同情する人間は皆無だった。
「精市、ちょっとそこのモップを寄越せ…殴るっ!!」
「備品は大切にしないと駄目だよ、弦一郎」
一見、副部長の暴挙を止めた部長だったが、理由が『丸井が可哀想』ではなく『備品が壊れる』となっている辺りが手厳しい。
「…費用か、次回のチョコか、どちらかは諦めるべきですね、丸井君」
柳生の追い討ちに、丸井はジャッカルのペットボトルの緑茶を一気にあおると、だんっと机に激しく叩きつけて柳に叫んだ。
「マスターおかわりっ!! 涙の数だけっ!」
「俺はそういう意味でのマスターではない」
あっさりと拒否する柳を見遣りつつ、仁王は隣のジャッカルへ忠告をする。
「……心配してやったところで結局これじゃ…お前さんもいい加減、下手な情は捨てた方がええぞ」
「…俺…間違っていない筈なのに…」
人としては自分が勝っている筈なのに…とひたすらジャッカルは己の悲運を嘆くばかりだった…
「とにかく、何とかしねーとな」
「お前立ち直り早いな…」
放課後のテニス部活動時には、丸井はすっかり気を取り直した様子で、次なる策を練っていた。
お金は掛けたくないし、だけど来年のチョコの保証も欲しい。
となるとやはり手作りに限るのだが、今回、自分は試験期間中だし……
「う〜〜〜、堂々巡りじゃんか」
このループを何処かで断ち切る事は出来ないものか、と丸井が頭を抱えていた時だった。
「こんにちは、丸井さん?」
「えあ?」
ひょこんと顔を上げると、表情にまだ幼さを残した一人の少女が、こちらを見つめていた。
「あ、おさげちゃん?」
「お久し振りです…頭痛いんですか? そんなに抱え込んで…」
心配そうに見つめてきたのは、青学の一年生、竜崎桜乃だった。
立海にも頻繁に訪れて自分達の練習を見学しに来る少女だが、すっかりレギュラーの自分達とは顔馴染で、部長を始めとする全員に可愛がられている存在である。
無論、丸井も例に漏れず、桜乃には自分が好きなお菓子以上に甘いのだった。
「あ、大丈夫大丈夫。そういう意味での頭痛じゃねえから…ん?」
「え?」
答えかけた丸井が、不意に不思議そうな表情を浮かべると、おもむろにずいっと桜乃の傍に寄った。
そして……
「んん…?」
くんくんくんくんくんくんくんくんっ!
まるで犬や猫の様に桜乃の身体に鼻を近づけて匂いを嗅ぎ始める。
「きゃ―――――っ!」
真っ赤になった顔を覆って恥ずかしがる桜乃の声を聞いて、ジャッカルが慌てて相棒の行為を止めに入った。
「こらこらこらこらっ!! 何セクハラまがいなことやってんだ!!」
「何か食べ物のニオイするっ!」
「犬かお前はっ!!」
「あ…」
取り押さえられながらも主張する丸井の一言に、はた、と思い当たった桜乃が自分の鞄を開けた。
「そうでした、今日家庭科で調理実習があったんです。カップケーキ作ったので、皆さんにもお裾分けにと思って…」
本当に犬じゃないのか、この男…と丸井を眺めつつ、ジャッカルは桜乃に確認する。
「俺達にもか?」
「はい、一個ずつですけど、宜しかったら…」
彼が丁寧に礼を述べている隣では、まだ首根っこを掴まれて確保されたままの丸井がカップケーキに手を伸ばして捕らえようとしていたが、他のレギュラーも集まってきたところで解放され、無事に自分の取り分を得る事が出来た。
「有難う、わざわざ持って来てくれるなんて」
「感謝するぞ竜崎。疲労回復には甘いものがいいからな」
部長や副部長のみに限らず、他のレギュラー達も嬉しそうに差し入れを受け取る。
こういう小さな事を、普通に、自然にしてくれるから、彼らは桜乃を気に入っているのかもしれない。
「お菓子作りはちょっと自信あるんですよ」
ぴくん…
桜乃の言葉に丸井の肩が反応を示し、そうしている間にも、カップケーキの試食会が始まった。
「んまい! やっぱいいなー、手作りって感じ」
切原の賛美に始まり、男達は文句なく、桜乃のケーキの出来に満足そうに頷いた。
「確かに、これまで竜崎からは色々と差し入れを頂いたが、どれも非常に出来がいいな。繊細な作業を要求される菓子も、見事な出来栄えだった」
「料理教室にでも通っとるんか?」
「あはは、まさかぁ。全部おばあちゃんの教育ですよ。でも私もこういうの好きですから作るのは苦じゃないし、美味しいって言ってもらえたら、それだけでやりがいがありますよね」
「…あなたは本当に優しい方ですね」
ぴくんっ…!
再び、丸井の肩が跳ねる。
(…確かに美味いや…俺の作ったものとタメ張れるぐらいのモノってそうないのに)
もぐもぐとケーキを頬張りつつ、丸井が他の部員と談笑している桜乃へと視線を移す。
(…さっすが、俺の見込んだ女っつーか…う〜〜ん)
可愛いし、優しいし、その上料理が上手いなんて、マジで理想じゃね?
「……」
ちょっと考えた後に、丸井は解散してゆく部員達を他所に、桜乃に近づいて声を掛けた。
「なぁなぁ、おさげちゃん」
「はい? 何ですか? 丸井さん」
「サンキュな、ケーキすっげー美味かった! で、その腕を見込んで頼みがあるんだけどさ」
「え?」
耳元で何事かをごにょごにょごにょ…と囁かれた少女は、全てを聞いた途端にぎょっとした顔をした。
「二百個!?」
「正確には二百十四個! 頼むっ!! 材料費は払うし、貸しにしてくれていいからっ!!」
ぱんっと両手を合わせて伏し拝まれてしまった桜乃は、頼まれた事象そのものより、その数に吃驚していた。
(さ、流石、丸井さん…しかもそれを自慢するどころか、まるで凄さに気付いていないっていうのも驚き…)
きっと、彼の目線では、二百人分の女性の想いは…二百個分のチョコの大群にでも見えているに違いない…
想像すると、ちょっとホラーテイスト。
(それでも恨まれてないっていうのは、やっぱりキャラかなぁ……)
ここまであけっぴろげにされると、バレンタインが只のチョコレート贈呈式でも、納得されるかもしれない。
そう理解を示しつつも、ちょっと悔しい気持ちになった少女は、心の中で相手に呼びかける。
(…鈍いんですから……私があげたチョコは、義理なんかじゃありませんよー?)
本命なんですよーと言ったところで、それが聞こえた様に若者がにょっと顔を上げた。
「わ…」
「どお? 引き受けてくれない?」
これが一部の女性であれば『ふざけんじゃないわよ』の一言で突っぱねたかもしれないが、幸いと言うべきか、桜乃は相手の立場を理解する程度の冷静さは備えていた。
バレンタインのチョコをあげるのはその女性達に許された自由である。
そしてそれにお返しをすることは、丸井にとってはある種の礼儀なのだ。
どんな形であれ、自分が彼の役に立つという事は喜ぶべきことかもしれないと、桜乃は相手の希望を受け入れた。
「…いいですよ。じゃあ、腕によりをかけて頑張りましょう」
「サンキューッ!! すっげぇ感謝な! おさげちゃんっ!!」
「も、もうっ、その代わり、ちゃんと試験は頑張って下さいよ!?」
「やるやる! 頑張るっ!!」
桜乃に思い切り抱きつきながら、丸井ははしゃいだ声を上げた。
(やりぃ! これで、今年のホワイトデーは何とかなりそう!…後は…)
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