甘いスリル


「おっさげちゃん、おひさ!」
「あ、丸井さん、お元気そうで何よりですー」
「おう、元気元気! おさげちゃんが持ってるものくれたらもっと元気!」
「…本当に正直なんですから…今日はフルーツロールケーキです」
「やっりぃ!!」
 或る日の立海大附属中学テニスコートにて、男子テニス部レギュラーの丸井は、一人の少女を歓迎していた。
 青学から来た一年生、竜崎桜乃である。
 夏以来、ずっと立海テニス部レギュラーと親密な彼女は、彼らが卒業を控えた今でも足繁くここへ通ってくれている。
 いや、そういう時期だからこそだ。
 三年生が卒業して高校へと進学したら、近い棟とは言え、今までの様に気軽に会える事は出来なくなるかもしれないのだ。
 だから、彼らがここにいる今を大切にしようと、桜乃は自分が来られる時には積極的に立海へと足を運んでいた。
「はい、どうぞ?」
「うわ、でっけー!」
 そしてそういう時には、彼女は大体手土産を持参していた。
 その殆どは食べ物…お菓子だ。
 運動をした後には甘いものが栄養補給源として好ましいということと…この若者、丸井ブン太が好物だからという理由が大きい。
 丸井ブン太は切原を除いた他のレギュラーと同じく三年生であるのだが、学年の割には非常に人懐こく甘えん坊な一面を持っており、また、甘いものが大好物という事実も彼を更に幼く見せていた。
 そんな彼にとって、人当たりが柔らかく料理が大得意の桜乃は、まさにお気に入りになって当然の女性だったのである。
「ちゃんと皆さんとわけっこですよ?」
「うん…一番おっきなのもらうから」
「もーう、またそんなお子様みたいな事言って」
 二人が仲良く話しているところに、幸村が彼らに気付いて歩み寄ってきた。
「やぁ、竜崎さん」
「あ、幸村さん、こんにちはー」
「最近はよく来てくれるよね…君の部活動は大丈夫なの?」
「あ、今はお休みが多いんですよ。やっぱり時期が時期ですから、他に学校もやる事が多いからでしょうね」
「そうか…まぁ、この時期だからね」
 桜乃の言葉に、幸村は何処か感慨深そうに微笑んだ。
「君も、本当にここまでよく来てくれて、俺達も凄く楽しかった…俺達が高校に進んでも、是非君には向こうのコートにも来て欲しいな」
 相手の言葉に、ふわんと桜乃の顔が美しい花の様に綻んだ。
「うわぁ…そう言ってもらうと、本当に来てしまいますよ?」
「ふふ、いいよ、歓迎してあげる」
 そんな二人のやり取りが展開していると、傍でロールケーキを抱えていた丸井が、不機嫌も露に桜乃の腕に縋りつき、幸村を見据えた。
「何だよぃ、幸村―。今はおさげちゃんとは俺が話してたんだぜぃ?」
 いきなりの理不尽な責めだったが、幸村は全てを察している様子ではいはいと笑って頷いた。
「ああ、ごめんごめん、ブン太」
「ちょ、ちょっと丸井さん? そんな言い方したら…」
 発言した丸井よりも桜乃の方が慌てて彼の発言を嗜めるが、相手はぷーっと頬を膨らませて不機嫌な顔を隠そうともしない。
「何だよぃ、お前も幸村の味方かー?」
「そういう意味じゃなくてですね…」
「いいんだよ、俺が邪魔したんだから…ブン太、後で俺達にもケーキ分けてよね」
「おっきいのは俺の!」
 宣言した若者を苦笑して眺めた後、相手はまた部室の方へと戻って行った。
 とても優しい男性だから、本気で怒ったりはしていないだろうが……
「ん、もう…丸井さんってば、あんな言い方はなしですよ?」
「だって、俺が話してたのにさぁ…それなのに、お前までアイツの肩持つようなコト言うんだもん」
「そんな事しませんよ…皆さんは私にとって大事な先輩方なんですから。丸井さんを除け者にしようなんて思ったこともありませんよ」
「…本当?」
「当たり前です」
「…うー…じゃ、いいや」
 桜乃の言葉に少しは機嫌を良くしたのか、丸井は気を取り直した様に頷いたが、彼女の腕とロールケーキはがっちり掴んで離さない。
「じゃあさ、早速ケーキ食お!?」
「はい、じゃあ、私達も部室に行きましょうか」
「ちゃんと俺の、大きめに切ってくれよな」
「そこは『平等に』って言うのが正解なんですよ?」
 言い合いながらも、とても仲が良い二人は揃って部室へと向かって行った。


 そんな或る日の立海…
「あ〜〜〜、ねみ〜〜〜〜」
 もう卒業も近くなると、授業もあまり身が入らない…と、丸井は休み時間に机に突っ伏してうとうとと程よく睡魔に誘われていた。
(あー…今日は昼飯何にしようかな〜〜〜)
 いつもと同じ悩みを今日も同じ様に繰り返していると、傍にいたクラスメートの女子達の雑談が耳に入って来た。
 どうして女子の声っていうのは、興味がなくても耳に障るんだろう…と思いつつ、会話を咎める訳にもいかないので、彼はひたすらに睡魔の誘いに乗ろうとする。
(…そういや、おさげちゃんの声はそんなことないな…すっげぇ可愛い声だし、何が違うんだろ)
 不思議だなーと思っているところに、また耳障りな方の声が聞こえてくる。
「もうすぐ卒業だねー。何だか緊張するー」
「あー、じゃあ、やっぱりアタックするつもりなの? あんなに悩んでたのに」
「うん…ちょっと、先輩達の話を聞いてね…これは絶対バッジを貰わないとって思って」
 ぼんやりとした頭の中でバッジという単語が巡り、丸井はああと納得した。
(そーいや、そういうイベントがあったっけな〜〜)
 立海でも、他の学校と似たような、卒業式特有のイベントが存在する。
 その代表的なものが『校章バッジ』の授受。
 これは男子から女子へという形で渡されるものであり、本来は『第二ボタン』という形で世間で知られているイベントなのだ。
 女子が、卒業式に巣立ってゆく想いを寄せる男子に彼の第二ボタンを望み、受け入れられたら、それは愛の告白の受諾を意味する…
 何ともロマンティックなイベントである。
 しかし立海では制服が詰襟ではなくブレザーなので、第二ボタンの代わりに校章バッジがその地位に納まったのだ。
(俺は誰にもやる気はねーけどな…っても、どうせ当日は凄い騒ぎになんだろうけど…あーヤダヤダ)
 うんざりしている丸井の耳に、更に女子達の声が頼んでもいないのに届けられる。
「だって、それなりにイイ関係でもやっぱり恋人になってないと、段々疎遠になっちゃうんだって…どんなに仲良くても、そうなる可能性が高いっていうから、これはもうアタックしかないよね」
「あー、分かる。結局はトモダチで終わるってことでしょ? 高校に行ったらやっぱりそこの人間関係っていうのも出来るし、こっちも構ってもらう理由がなかったら、遠慮しちゃったりするもん」
「でしょ?」
(へー、そうなんだ)
 ぼーっとした頭の中で丸井が思い浮かべたのは、あのおさげの少女だった。
(アイツは他校の生徒だし、この習慣については知らないだろうしなぁ…何も知らない奴にやるってのもお門違いだし、いきなり言われても戸惑う場合もあるだろうし……ま、でも、俺とおさげちゃんならもう…)
 そう丸井が脳裏で呟いて…
(…………)

 約一分間経過

 若者が突っ伏したままの間、空では白い雲がのんびりとゆっくりと風に流されるままに流れていた。
「…っ!!!!」

 がばっ!!!

 いきなり…突然丸井が何の前触れも無くがばちょっ!!と机から起き上がり、爛々と目を光らせる様に、周囲の生徒達がびくっと肩を竦めて注目した。
 しかし、そんな周りの様子は完全に無視して、丸井は物凄いショックを受けたような表情で、起き上がった後は微動だにしない。
(……あ、あれ…俺…もしかして…)
 とんでもない事実に気付いてしまった……
 そして何より最悪なのは…気付いたタイミングが…遅すぎる!!
(俺…俺っ…おさげちゃんと…まだ、トモダチのまんまだ…!)
 ずぅっと長く立海に来てくれてて、ずぅっと俺(とその他のメンバー)にお菓子作ってきてくれてて、ずぅっと仲良くお喋りしてたから…もうてっきり恋人同士だと思って…たのに…
(そういや、俺……まだ告白も何もしてねー!!)
 あまりに居心地が良すぎて、それにずっと浸ってて、やるべきことをやってなかった―――――っ!!!
「ヤバイ…」
 ぼそっとそれだけ呟いて、がたんっと椅子に崩れるように座ると、丸井は再び机に突っ伏した。
 しかし、今回は眠気など微塵も感じず、ばくばくと激しく打つ心臓の鼓動ばかりが耳に障った。
 もし自分が高校に進んで……恋人という立場ではない二人が、会う機会が少なくなっていったら…或る日彼女が見知らぬ男子を連れて、
『丸井さん、この人、私の彼氏なんです』
なんて笑顔で言うかもしれない……
「うわ、どうしよ!! ダメだって、それはダメ!! ゼッタイ!! 嫌だ!!」
 考えるだけで鳥肌が立つ程に怖気が走る。
 そんな現実は到底受け入れられないだろう、思考さえも拒絶しているぐらいなのだから。
 彼女は…彼女はずっとこれからも、俺の傍で…笑っていてほしい…のに…
 周りの生徒達が、独り言を続ける丸井を怪訝そうに見つめるが、声を掛けるまでには至らない。
 その代わりに、丁度教室の外の廊下を歩いていた幸村が、一人悶えている丸井の姿を見て室内へと入って来た。
「…ブン太? 気分悪いのかい? それなら保健室に…」
「違うっ!! ものっすごく大事なコト思い出したんだよぃっ! おさげちゃんのコトで…」
「竜崎さん…?」
「う…アイツに言わなきゃいけないコトがあったんだけど…まだ、言ってねぇ…」
 流石に具体的な内容は言うのが憚られたが、そこまで言ったところで相手はそう、と頷いた。
「じゃあ、卒業式の日に言えばどうかな?」
「へ…?」
「彼女、卒業式の日には俺達をお祝いしてくれるって言ってたからね…来てくれると思うよ」
「…卒業式…?」
 卒業式…当日じゃんか……
「……」
「…間に合わないのかい?」
「……わかんねぃ」
 間に合うかどうかではなく…受け入れてくれるかどうか…それも問題だ。
 喧嘩なんてしたことないし、ずっと仲良しだったけど…それは相手が俺を男と看做してくれた上での事だっただろうか…?
 もし、トモダチとしてしか…認めてくれてなかったら…卒業式の日に、俺は見事に失恋確定だ。
 いや、それよりもっと大きな問題がある、そもそもアイツは…
(……恋人がいるのかいないのか…それさえ知らないんだ…俺)
 そんな事、思い至らないぐらいに、近くにいると思っていたから…
「……俺って…救いようがない」
「え?」
「…お菓子について話す時間の少しでも使えば…とっくに聞けてた事なのに…」
 今更ここに来て慌てて告白なんて…虫が良すぎる話かな……



丸井編トップへ
サイトトップヘ
続きへ