卒業式当日…
幸村が言っていた通り、桜乃はこの日レギュラーの全員を祝う為に、立海を訪れていた。
「えーと…式を終えた後でホームルームがあって…それから部室に集合だったよね」
前もって幸村から聞いていた予定を反芻しながら、桜乃はとてとてとテニス部部室に向かった。
教室までは向かえないし、部室なら全員に会うことが出来るだろう。
まだ誰も来ていないかもしれないけど、少し待てば……
そう思っていた少女の耳に、何か微かに声が聞こえてきた。
近くではない…何処か遠くからだ。
同じく遠くからはホームルームを終えた生徒達のざわめく声が聞こえていたのだが、自分が今耳に留めているそれは、明らかにこちらの方向へ向けられている。
(え…何…?)
『おさげちゃ――――――んっ!!』
「…・あ」
こちらに全速力で走ってくる一人の人影…
確かめるまでもない、自分をあの呼び名で呼ぶのは彼だけだ。
「…丸井さん」
全速力で走ってきた赤髪の若者は、桜乃の傍まで来ると息を切らせる素振りもなく、笑顔で彼女と向かい合った。
「…へへ、一番乗りだぜぃ」
「んもう…そんなに慌てなくても逃げませんよ」
「それは…そうだけどさ」
少し照れた様に笑うと、丸井は一呼吸置いた後にその笑みを顔から消し去り、いつになく真面目な顔で桜乃に言った。
「…あのさ…みんなが来る前に、ちょっとおさげちゃんに付き合って欲しいんだけど…ダメ?」
「え?…いいえ、別に構いませんよ?」
誰もいないなら特にやることもありませんし、と快く引き受けてくれた相手に、丸井は少しだけ緊張した面持ちで続けて願った。
「…じゃ、じゃあさ…ちょっと、こっち…来てくれる?」
「? はい…」
丸井が彼女の手を引いて連れて行ったのは、部室から少し離れた先の木陰だった。
ここからなら部室の様子も伺えるし、且つ、誰にも気付かれない。
それに丁度良く、ベンチも置かれているし…
「…す、座ろうぜぃ」
「はい」
ちょんと座った桜乃と、少しだけ距離を置いて座った男は、手に持っていたバッグからアルミホイルに包まれた円盤状の物を取り出すと、二人の間のベンチに置いた。
両手に乗る程度の大きさで、人の顔ほどもない。
「?」
「…えーと…な、なんつーのかな…その」
「はい」
「…い、いつもおさげちゃんがお菓子作って来てくれてたから、今日は俺がさ…ケーキ、焼いてきたんだ」
そう言いながらアルミホイルを剥がすと、言った通り下から甘い香りが漂うこんがり焼けたパイにも似たケーキが顔を覗かせた。
「わ! 凄いです!…あ、でも、それじゃあみんなで…」
「ダメ!」
「え?」
きょとんとする桜乃に、丸井が酷く真剣な顔で断った。
「これは俺とおさげちゃんだけで分けるんだ! そうじゃないとダメなんだから」
「…はぁ?」
何がどうなっているのかよく理解出来ない桜乃が首を傾げている間に、相手は同じくバッグから準備していたナイフを取り出して、それをケーキの一端に刺し…ゆっくりと直線で二分割していった。
実にゆっくりと…やけに慎重に…
そして分けた内の一方が桜乃の前に来るように円盤を動かした後、ふぅと息を吐いて彼は改めて彼女を見た。
「……あの、さ……」
「はい、何ですか?」
「…り、立海には…卒業式に、ちょっとしたジンクスがあるんだ…」
選ぶようにゆっくりと、丸井は言葉を続ける。
「あの、さ…卒業式に、好きな男子に…校章バッジをねだってそれが貰えたら…その恋が、成就するってものなんだけど…さ」
「あ…『第二ボタン』みたいなものですか?」
「そ、そうそう…」
こくこくと頷いた丸井の襟元を見た桜乃は、そこにバッジが無いのを確認して酷く悲しそうな顔をしたが、それは緊張してそっぽを向いている丸井には気付かれなかった。
「…結構…ロマンティック、だよな、それって…」
「そ、そうですね……心臓に近いから、その人の心を貰うって意味みたいですし…情熱的、ですよね」
もう持っていない彼が、何故そんな話を自分にするんだろう、と沈んだ気持ちのままに桜乃は聞いていた。
『実はさ、俺、さっき渡してきたんだよ』
そんな自慢話は聞きたくない…ゼッタイに。
でも、もしかして…もしかして彼は…私にそれを一緒に祝わせようというのだろうか?
私が彼の…トモダチだから…
(でも…っ…私は…友達のままじゃ嫌なのに…)
友達というのは人生の貴重な財産だと言うけれど…友達じゃ駄目な人だっている。
友達のままで終わるなんて…嫌なのに…
「あ、あの…丸井さん…私、そういう話は…」
認めたくなくて、聞くことを断ろうと口を開きかけた時だった。
「実はさ、俺…本当は渡したい奴…いるんだよね」
「!!」
びくんと身体を震わせて、口を閉ざしてしまった桜乃に、丸井は視線を逸らしつつ一言一言、ゆっくりと…
「ずーっと仲良くて、滅茶苦茶可愛くてさ…遅かったけど最近になって、すっげぇ好きなコトに気付いたんだ…けど、ソイツ、もしかしたらもう恋人、いるかもしんないし…なかなか面と向かってはさ…」
「…そ…うですか」
「…だから、さ…」
青くなってただ聞いているだけの少女に、丸井は彼女の心中を知らないままに目の前のケーキを指し示した。
「……中に、焼き込んでみたんだよね、バッジ」
「……はい?」
それって?と不思議な展開に顔を前に向けると、何となく赤い顔をした丸井がこちらをじっと見つめていた。
「…ヨーロッパではさ、ドルチェとか、天使の飾りとかを焼き込んで、当たった人間に神の恩恵があるとか…そういうお菓子があるんだ…ガレット・デ・ロアっての、知らない?」
「あ…いえ、聞いた事は…あります、けど…」
丸井さんのバッジがこのケーキの中に入っている…?
じゃあ、二人のケーキの内のどちらかに、そのバッジが…でも、どうして…
「……俺、決めてきた」
「はい…?」
「今の話を全部聞いて…それでアンタが全て承知でケーキを受け取ってくれて、さ…もし、その中に…バッジが入っていたら…」
「……」
「…アンタを、俺の恋人に…ってさ」
「っ!!」
男の言葉を聞いて、桜乃の顔が彼の髪の色にも負けないぐらいに赤くなった。
(恋人……!?)
私が…丸井さんの恋人に…?
「もし、もう恋人がいるとか…やだった場合は、止めとけよな…けどバッジが当たったら、そん時はもう言い訳なんかきかねーぞぃ」
この賭けにやり直しは効かないことを忠告して、丸井は二本のフォークを取り出すと、一本を少女の前のベンチにことりと置いた。
「俺は食うけどな」
そして、さく、とフォークを使って自分のケーキを切り取り、口に運ぶ若者の姿を、桜乃がじっと見つめる。
(…丸井さんのバッジが私のケーキに入っていたら…じゃあ、もし向こうに入っていたら?)
彼が、自分のケーキの中にバッジを見つけてしまったら…
(…恐い…どうか、そんな事…ありませんように)
バッジは一つだけ…まだ彼は、見つけたとは言ってない。
高鳴る胸を抑え、桜乃は震える手でフォークを取り、自分のケーキにそれを入れた。
「……!」
その娘の行為を見た丸井が、相手の覚悟を確認し、動かしていた手を止めてじっと見入る。
彼女がフォークを取り、ケーキを切った。
つまり桜乃には、恋人はおらず、自分の想いを受け取る気持ちがあるという事だ。
丸井の前で、桜乃は彼の視線を感じながらも、じっとケーキを見つめて、フォークを入れていった。
一つ一つ、小さい欠片にしていきながら、慎重に指に伝わる感触を確認してゆく。
五つ目の欠片…六つ目の欠片…七つ目…
かつん…
「……っ!」
ケーキにそぐわない固い感触が確かに指に伝わり、どきんと桜乃の胸が一際大きく高鳴った。
今のって…もしかして…
もう一度…七つ目の欠片の中にフォークを差し入れると、下のプレートに辿り着く前に、固い何かで阻まれた。
前後にフォークを動かすと、それに倣って中の固い物体も揺れる。
「…」
丸井がじっと凝視する中で、桜乃は七つ目の欠片をフォークで分解し、その正体を確認した。
円形の金属の物体…裏には小さな止め螺子…正面に見慣れた立海の校章…
「…バッジ…」
何年も…何年も、深海の奥に沈んでいた財宝を捜し求めていた探求者が、ようやく目的のものを探し当てた様な台詞だった。
こんなに小さな物体なのに、どうしてこんなに感動しているんだろう…
私だけじゃなくて、彼もそう感じてくれているだろうか…?
「丸井さ…」
相手に顔を上げた瞬間、桜乃はがばっときつく抱き締められていた。
「わ…っ!」
「すっげ―――――っ!! アンタ最っ高だよ! おさげちゃん!!」
覚悟決めて、その上、最高のエンディングを引き当ててくれた!
「ま、丸井さん…っ」
「俺、すっげぇ嬉しい! 大好きだ、おさげちゃん!」
「は、はい…私もです…それで、あのう…」
「え?」
「ち、ちょっと痛いです…丸井さん。力、強過ぎ…」
「あ…ご、ごめんな…じゃあ」
はたっと気付いた丸井は、しかし彼女を手放すことはなく力を緩めて相手を拘束したままで、すりっと顔を相手の肩口に擦り付けた。
「…へへ、これでいいだろぃ?」
「は、はぁ…ちょっと、恥ずかしいですけど」
「いーんだよぃ…アンタはもう、俺の恋人なんだからさ…言ったろ、言い訳なんか聞かねーって」
「い、言い訳なんかしませんよ…嫌じゃないんですから」
ぼそっと言った桜乃の一言に、丸井がひょこっと顔を上げて間近で彼女を見つめ、にっと笑う。
「そーゆー時は、好きっていうんだろぃ?」
「う…」
「俺も言ったんだから、おさげちゃんも言わないとなー」
「う…す、す…」
促され、言葉を継ごうとした桜乃だったが、間近から見つめられると、どうしても羞恥が勝って継げなくなってしまう。
「あう…ご、ごめんなさい…恥ずかしくて、ちょっと無理です…」
「……ふーん」
「…え?」
何か…いつもと違う口調の相手に桜乃がふと顔を上げると、そこには不敵な表情で自分を見下ろしてくる丸井がいた。
普段の仲睦まじい時の朗らかな笑顔とも違う、まるで大人への成長を遂げつつある男性の様な…
「丸井…さん?」
「じゃ、もっと恥ずかしいコトしたら、平気だな」
「え…」
何の話…と思った瞬間、桜乃の両手が掴まれたかと思うと、ぐいっと男の方へと引き寄せられ…
ちゅ…
「っ!」
前触れも無く、少女は唇を塞がれてしまった。
(ま、丸井…さん!?)
動揺する桜乃に構わず、丸井は更にきつく唇を押し当てる。
「…っん」
唇を塞がれ、優しく抱き包まれると、力が全て抜けていってしまう…
身体だけではなく、心の中の緊張の糸も緩むどころか切れてしまうような気がした。
切れてしまってもいいと思った…このまま彼の胸の中に抱かれるのなら……
「…ふぁ…」
「ん…おさげちゃん…」
熱い囁きと共に、離れたと思った男の唇が、また重ねられる。
何度も、何度も…
「なぁ…俺のこと、好きって言って」
「ふ…ぅ…」
ようやく唇を離された後、丸井の指が、そっと桜乃の小さな唇をなぞる。
それが、甘く優しく桜乃を脅迫し、彼女の唇を開かせた。
「あ…す、き…丸井さん……大好き…ですっ」
さっきまではあんなに恥ずかしかったのに、どうしてこんなに大胆になってるんだろう…今も、抱きついてしまっているし……離れたく、ないし…
いつの間にか、自分からだけでなく桜乃からも抱きつかれる形になり、丸井は身を委ねてくる少女をひたすらに見つめていた。
「…ごめんな、おさげちゃん……俺、全然分かってなかった」
「え…」
唇を離されても、まだ朦朧とする頭のままで桜乃は相手の告白を聞く。
「アンタがこんなに可愛かったなんて…全然知らなかった…もう好きで好きで、俺までどうにかなっちまいそう…」
苦しそうな声で言いながら、丸井は桜乃を離すまいと抱き締めた。
「アンタは俺が絶対に守ってやるから…傍にいろよな」
「…はい…丸井さん…」
丸井が、新たに高校へと巣立つ卒業式…
しかし、この日、彼と共に桜乃もまた卒業を迎えた。
互いのトモダチから……最愛の恋人として……
了
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