桜の涙
「む〜〜〜…」
その日は非常によく晴れた日曜日。
丸井ブン太は、非常に悩んでいた。
場所は街角の洒落たカフェの入り口。
中は、と言うと、まだ時間は昼の少し前ということで、満席ではないようだ。
「う〜〜〜む…」
そんな店の前で、心から悩んでますと言わんばかりの唸り声を上げている若者が見ている先は、その店のメニューがカラーチョークで書かれているミニ黒板だった。
様々な色のチョークで鮮やかに書かれている食材やケーキのイラストと共に並んでいるのは、その日のお薦めメニュー。
丸井の視線はその内の二つの名称を忙しそうに行ったり来たりを繰り返していた。
『本日のお薦めスウィーツ
A 大粒の苺をふんだんに使用した、満足度満点の絶品パフェ
B 季節のフルーツも色鮮やかに ふんわり焼き上げたクレープを当店自慢の生クリームで
人気メニューの為、売り切れ御免! どちらもセットで飲み物が付きます』
「うう〜〜〜〜む」
入れば間違いなく座れる筈だし、明らかにメニューに食指を動かしている筈の男は、しかしいまだに店の中に入ろうとはせず、黒板と睨めっこを続けている。
その眼差しは、この決断で人生が変わる!と言う程に真剣そのものだった。
「…えーと」
不意にその視線を外した丸井は、自分のポケットへと注目しながら中から愛用の財布を取り出し、中身を確認すると、はぁ〜と肩を落としながら溜息をついた。
「くっそ〜〜〜油断した〜〜。こんな美味しいメニューに会えると分かってれば、さっきの店でおニューのテニスシューズの注文なんかするんじゃなかった! っつってももう手付金は払っちまったし、キャンセルしたところで金は戻ってこないし…あーでも、どっちも美味そうだし片方なんて決められないな〜…」
どうやら…ほぼ間違いなく、AとB、どちらも甲乙つけがたく、迷いに迷っているらしい。
しかし、両方を楽しむには多少手元の軍資金が足りてない様子で、彼はどちらか片方を選ばざるを得ないという残念な事態に陥っていた。
「う〜う〜…ジャッカルがいてくれたらなー」
この場合、おそらく彼の頭の中にあるのは『金を一時的に借りる』という殊勝なアイデアではなく『無理やりにでも奢らせる』という強硬手段だろう。
今頃、その引き合いに出された相棒は、何処かの空の下で派手なくしゃみをしているに違いない。
「……或いはピザみたいにハーフ&ハーフにしてもらう様交渉してみるとか…」
先ず聞き入れてもらえないだろうことは本人も分かっているが、考えずにはいられないらしい。
結局は脳内妄想に終わるに留まる訳で、自分の希望が叶えられない分ストレスが増加してしまった丸井は、あ〜〜っと自慢の赤い髪をわしゃわしゃと軽くかき回した。
「くそー! パフェとクレープの神様っていねーのかよい! ここで迷える子羊ちゃんが困ってるってのに!!」
幾ら八百万の神がいると言われる日本でも、そんな神様がいるかどうかは不明であるのだが、そんな丸井にふと後ろから、
「何しているんですか? 丸井さん」
と、細く耳に優しい声が掛けられてきた。
「ん?」
くるり…
反射的に振り返った若者の視界に映ったのは、私服姿のおさげの少女。
青学の女子、竜崎桜乃だった。
自分含めた立海のレギュラー達と懇意にしている女性で、今年から中学二年生。
出会った当初よりは若干背も高くなり、顔立ちも大人びてきた様な印象を受けるが、やはり二年年上の自分から見たらまだまだ子供。
その見覚えのある顔を確認したとほぼ同時に、丸井の視覚の中で、彼女の背中に純白に輝く羽と、頭に浮かぶ光の輪っかがサービスオプションで付いてきた。
「おお、神の使い来た!!」
「はい?」
たまたま見かけた若者に、何も知らずに声を掛けた少女にとっては当然、何の話であるかは分かりもしない、が、構わず相手はそんな彼女にずいっと迫った。
「おさげちゃん、お茶する気とかない!?」
「はい…?」
「お茶だけじゃ何だから、ちょっと甘いもの食べたり!」
「はい…?」
「女一人で入りにくいなら、俺付き合うけど!」
「はい…?」
矢継ぎ早に言葉を浴びせてくる丸井の気迫に、桜乃はやや間の抜けた返事しか出来なかったが、徐々に時間が経過するにつれてその理由が脳裏に浮かんできた。
「……」
ひょこ、と上体を横に傾げて、彼の体の向こうにあったミニ黒板の中身を確認。
「……」
メニューのお薦めに二種類のデザートが書かれている。
「……」
どちらもほぼ同額であるが、そこそこのお値段。
「……」
どちらも丸井が喜びそうな甘味たっぷりの一品。
「……」
そして何より、この期待に満ちた、輝き効果フルスロットルの若者の眼差し…!!
(ここまであからさまだと、突っ込む気もなくなるなぁ…)
やれやれーと心の中で苦笑した桜乃は、改めて黒板へと目を遣る。
自分は別にそれ程空腹でもないのだが…
(……ふぅん)
しかし、女の子にとっても甘く美味しいデザートは魅惑のアイテム。
更に、お菓子に関しては普段から目が肥えている若者が執着しているだけあって、かなりのレベルの高さと見た。
値段的にも、まぁ一品なら出してもいいかな、と思えるくらい。
(むぅ…美味しそう)
これは相手の罠に嵌ってしまったかなーと思いつつ、改めて彼を見ると、相変わらず瞳孔が開きまくりのキラッキラ状態。
(……このまま嵌められるのは何となく悔しい気がする…)
大体向こうはあんなに美味しいお菓子とか食べているのに全然太って見えないし、寧ろテニスの試合でもあんなに敏捷に動いて筋肉もあるし…まぁ育ち盛りの男子と比べること自体が不毛だと分かってはいるけれど。
(でも格好いいよね…ファンの人とかも多いし。私なんかその内の一人に過ぎないんだろうけど…やっぱり憧れちゃう)
そんな事を考えた桜乃が、ちょっぴり悪戯心を覗かせ、丸井に下から見上げるようにして尋ねた。
「…うふふ、もしかして、奢ってくれるんですか?」
「……」
瞬間
丸井の瞳から輝きが消え失せ、その背後のオーラが見えるほどに真っ黒になった。
多分、マンガだったらどよーんとした効果の中に『がーんっ!!』という擬音付き。
「……」
無言のまま背中を向けて沈黙してしまった丸井が、こちらの勝手な思い込みなのだろうが、『ぐすん…』と涙ぐんでしまうのではないか、と本気で思ってしまった桜乃が、大慌てで彼のフォローに回った。
「ごめんなさい、冗談です! 割り勘、割り勘でいいですからっ! 私、Bセットにしますから、丸井さんAセットでわけっこしましょ、ね、ね!?」
結局、桜乃がぽっきりと折れる形で丸井の策略(?)に乗り、共にティータイムを過ごすことになったのである。
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