「何となく分かります〜」
「だろぃ?」
それも失礼かもしれないのだが…とぼんやりと考えていると、丸井がなぁ、と桜乃に呼びかけた。
「は、はい?」
「そう言えばさぁ、俺、アンタの名前聞いてない」
「あ、名前ですか…そう言えばそうですねー…竜崎桜乃って言います」
「ふーん…桜乃ちゃんね…」
既に幾つものお菓子の箱を空にして、尚もばくばくばく、と相変わらず口をせわしなく動かしている若者は、暫く考えた後にびしっと相手を指差した。
「おさげちゃん!」
「はい?」
「何か、名前よりそっちのが覚えやすいし呼びやすそうだからさ、おさげちゃんでいい?」
「はぁ…別に構いませんけど…」
じゃあ、名前を聞いたのにはどんな意味があったんだろう…
(それに、私は青学だし、そんなにこれから会うことも無いと思うんだけど…)
相手の心中も知らず、丸井はお腹が膨らんでいくに従って上機嫌になってゆく。
「おさげちゃん…か、へへ、ぴったりだな。アンタ、優しいし見た目も可愛いしさ」
「っ!!」
手放しで褒められたことで、桜乃はぽっと頬を染めながら顔を俯ける。
「あ…有難う、ございます…」
本当に不思議な人だなぁ…無邪気の塊と言うか…
「……あ、そうでした」
「んあ?」
「あのう…私も、あなたのお名前を知らないんですけど…宜しければ教えて…」
「あ、俺の名前? 俺は…」
『丸井―――――――――――っ!!!』
「あら?」
「げっ! ジャッカル!?」
遥か彼方から怒声が聞こえてきた…とそちらへと目を遣ると、色黒の若者がこちらに疾走してくる様子が見えた。
向こうも立海のテニスウェアを着ている…が、それより桜乃を驚かせたのは、
(うわぁっ! も、物凄く速いっ!!)
俊足に驚いている内に、向こうはあっという間に自分達の座っている椅子まで辿り着くと、ぐいっと丸井の襟首を掴み上げた。
「何やってんだ! もうすぐ試合だぞ、早く戻れっ!」
「けっ、なーに偉そうにぃ、どーせ俺なんか餓死したらいいって思ってるくせによぃ」
宙に吊り下げられながらも、丸井はまだ手にした箱からスナックを口に放り込んでいる。
殆どやけ食い状態の相棒に、ジャッカルははぁ、と深くため息をついた。
「どうやったらそういう思考に辿り着くんだ…ん? 何だお前、その菓子の山は」
「やんねーよぃ」
「要らん…んん?」
よく見ると、丸井の隣に座っている一人の女子が…
「…アンタは?」
「あ、あの…青学の応援に来た者ですけど…」
「もしかして、この菓子って、アンタのか?」
「はぁ…そうです」
頷いた相手に、ジャッカルは済まなそうに頭を下げて詫びた。
「す、すまんな、ウチの相棒が迷惑を掛けた。どうせ物欲しそうな目で見てねだってたんだろう? コイツ」
「いえその…まぁ…私一人では食べられませんでしたから、いいんです」
素直に『そうです』とも言いづらい質問だったので、上手く言葉を誤魔化した桜乃は、二人を交互に見つめてにこりと笑った。
「…相棒という事は…ダブルスのパートナーさんですか」
「ああ…ったく、今から試合だってのに、何処で油を売ってるかと思えば…」
「もーお前なんかパートナーでも何でもねぃ。今日は幸村の為にプレーはするけど、オメーのコトなんか気に掛けてやんねー」
相変わらず丸井は拗ねてお菓子をぱくつくばかり。
「お前なぁ…」
そんな事を断らなくたって、普段から気に掛けてもらっている覚えはないぞ…?
「えっ!?」
ジャッカルの発言を聞き、桜乃がぎょっとした表情を浮かべて、再度二人を見た。
「あのっ…ま、さか、立海の…レギュラーの方、なんですか!?」
「ん、ああ…ダブルス1のな。俺はジャッカル桑原」
「丸井ブン太だよぃ」
二人の自己紹介を聞き、暫く呆然としていた桜乃は、いきなりがばっと深く頭を下げた。
「すっ、すみませんっ!! 私、そんな事知らなくてっ…ど、どうしよう…!?」
「…へ?」
桜乃は辺りに散乱する空の菓子袋を見渡し、事態の重大さを今更ながらに自覚した。
「私…知らなくて…あんなに一杯お菓子あげちゃった…もし丸井さんが試合して、沢山動いてお腹の調子悪くなっちゃったら…私の所為です…!」
「は…あ? いや、その…」
「大事な試合なのに…どうしたら…」
青学側でありながら、本気で丸井の体調を心配しているらしい少女が青い顔をしながら詫びると、ジャッカルと丸井はぶんぶんぶんと激しく首を横に振った。
「い、いやいやいや! 少なくとも菓子ぐらいでコイツが腹壊すことは無いから、マジで!!」
「別にアンタの所為じゃないって! 俺が自分の意志で食べたんだからさ…何でアンタが責任感じるんだよ!」
「だって……あの、本当に大丈夫なんですか? お腹…」
気遣ってくれる桜乃に、丸井は普段よりかなり気合を入れて返事を返す。
「う、うんうんうん! へーきだぃ、全然へーき! 見てろぃ、すぐに俺の天才的プレーで青学の奴らを負かしてやっから!」
それは確かに彼なりの元気付けだったのだろう…が、
「丸井っ!」
相手も青学なんだっとジャッカルの目線での訴えに気付き、再び狼狽してしまった丸井がおろっと桜乃に視線を向けた。
しまった、墓穴を掘ったか、と思ったが…
「…!?」
「……良かった」
意外にも、心から安心した様に桜乃は笑っていてくれた。
「…なら、いいです」
「!」
いいですって…青学なのに?
普通、敵方の人間が不調になったら、逆に喜ぶのが普通じゃないのか?
なのに、アンタは…俺の身体の方を心配してくれるの…?
本当に意外な反応に丸井が返答に窮している間に、桜乃は残っていたお菓子をまたビニル袋に入れると、丸井へと差し出した。
「もう…試合前にあんなに食べちゃ駄目ですよ。これは試合が終わってからにして下さいね」
「え…?」
「足止めしたみたいで、ごめんなさい…丸井さんも早くベンチに戻った方がいいですよ、パートナーの桑原さんも迎えに来てくれたんですから」
「……」
「良い試合…見せて下さいね」
「あ…」
にこ…と優しい笑顔を残し、桜乃はぺこんとお辞儀をしてから青学側のベンチへと去っていった。
そしてその場には、ジャッカルと丸井が、ぼんやりとしたままに少女の後姿を見送り、佇んでいた。
「…何だぁ、青学って、あんな良い子がいるのか…テニスに関しちゃ譲れねぇけど、それについては認めてやってもいいなぁ」
と言うより、立海にもあんな気立ての良い子はそんなにいない…少なくとも今までの自分の人生の中ではトップレベルだ、とジャッカルは確信する。
「俺…あの子…」
ぼそっと丸井が何事かを呟きかけたが、それはぐいと腕を引っ張ったジャッカルによって止められてしまう。
「丸井、取り敢えず戻るぞ! あの子も言ってただろう、良い試合を見たいって。こっちが揃わずに棄権なんて、見せる顔がないぞ! 彼女にも幸村にも」
その指摘に反論することもなく、丸井はジャッカルに腕を引かれたまま走り出した。
ただ、心の中で言葉に出来なかった想いを呟きながら…
(…あの子…滅茶苦茶気に入った!)
そしてダブルス1の試合は、見事に丸井達の勝利で終わる。
「俺の天才的妙技、たっぷり見て帰れよ」
そんな不敵な台詞と自信満々な態度、そして決してこけおどしではないテニスの実力は、確かに立海のレギュラーを張るだけのことはあった。
青学だけでなく試合を見ていた全ての人々を魅了した丸井は、試合が終わった後でベンチに戻ると、すぐにまたロビーの方へと飛び出して行った。
「丸井? 何処に行く」
「青学ベンチ! そこのお菓子、手ぇ出したらシメる!」
「?」
一体どうして敵方のベンチに行く必要があるのかと副部長が怪訝な顔をしたが、相棒のジャッカルだけは何となく察して頷いた。
「…ま、借りと言えば借りだからな」
「どういう意味だ?」
「…今日の丸井の元気の素をくれた奴が、青学側にいたんだよ…その礼に行ったんだろ」
「尚更分からんな」
「…まぁ、いいんじゃないか? 俺達ダブルス1は勝った。それが全てだ」
「ふむ…」
真田達がそんな会話を交わしている間に、丸井はてってってーと宙を飛ぶように軽やかな足取りで青学の生徒達が応援するベンチへと向かった。
『あれ? あの人…』
『さっきの試合の選手じゃないか? あの赤い髪…』
入り口のところでにょっと顔だけ出して辺りを見回した彼に気付いた数人が、そんな会話を交わしていたが、本人は全く気にしない。
(試合の時に見つけたのは…確かあそこ辺り…)
あのおさげの子を、試合の合間に視線で探していた彼は、すぐに彼女を見つけ出した。
「いた…! おさげちゃん…」
「…?」
丸井の声が聞こえたのか、ほんの数メートル先にいた少女がきょろっと辺りを見回す仕草をして、彼の姿を見つけると、すぐに立ち上がってこちらへと向かってきてくれた。
丸井本人が行っても良かったのだろうが、やはり青学の生徒ばかりがいるベンチだと目立ち過ぎると、彼女もすぐに察してくれたらしい。
「丸井さん…凄かったですね! あんなの初めて見ましたよ」
「へへ…だろぃ? アンタのお菓子のお陰だな」
「あはは…負けたのは悔しいですけど、丸井さんの身体が何ともなくて良かったです」
「うん…」
悪びれることもなく、素直に気持ちを伝えてくれる桜乃を、丸井は眩しそうに見つめる。
「? 丸井さん?」
急に黙り込んでしまった若者に、首を傾げて桜乃が声を掛けるのと、相手がゆっくりと両手を彼女に伸ばしたのは、殆ど同時だった。
ぎゅっ!
「はい…?」
「アンタ…すっげーイイ人だな。こんな言い方、青学のアンタにはおかしいかもしれないけど…おさげちゃんのお陰で勝てた、サンキュ」
「い…いいいいいえっ! そんな…大したコトは…」
心からの謝辞を述べられたものの、桜乃の返事は浮ついたそれになってしまう。
無理も無い、男子に思い切り抱擁されてしまった状態では、うら若き乙女は冷静ではいられない。
「…へへ」
ゆっくりと身体を離しながら…しかし両手は桜乃の肩に乗せながら、丸井は相手の真っ赤になった顔を覗きこんでにっと笑った。
「それに、やっぱ可愛いし」
「!?」
「…俺、アンタ好きになった」
「!!!!!」
あっけらかんと言われ、少女の脳が混乱する。
今のは…告白…なんだろうけど…
果たして、友情とか、親愛の気持ちに基づくものなのか……それとも、まさか…
「…竜崎桜乃…青学の顧問、竜崎先生の身内、だよな。ウチの参謀が教えてくれた」
「え、は…はい」
桜乃が動揺している間に丸井本人はひょっと手を離し、先程までとはまるで違う笑みを浮かべた。
子供らしいあどけなさを完全に払拭させた、男性を感じさせる笑みを。
「じゃあきっとまた会えるな。お互いがテニスに関わっている限り…俺、楽しみにしてるから、会えたら声掛けろよぃ。俺も、遠慮なく掛けるからさ」
「……は、い」
思わず返事をしてしまった…
勢いに呑まれてしまったのかもしれない…或いは、彼のもつ、不思議な雰囲気に惹かれたのかもしれない…
『好き』だと言われたからかもしれない……
「よし、約束なー」
しかし何れにしろ、これで彼と約束を交わしてしまった。
不思議な人との約束を…
それから彼との付き合いが、自分が想像している以上に深く、長くなることを、桜乃はまだ知らなかった……
了
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