デザートをご一緒に
立海大附属高校にその年着任した竜崎桜乃は、着任当初から生徒達に非常に注目されていた。
教える教科は家庭科で、あまり目立たず、普段もそう前に出て生徒に指導するような機会はない。
しかし、それでも彼女は生徒達に人気があった。
その理由は、非常に朗らかで優しい性格に加え、着任時から注目されていたその可憐な姿だった。
まだ二十歳で生徒達の姉のような若さ、大人とは思えない幼顔、細く色白のすらりとした身体、そして長く艶やかな黒髪…
何故か本人はまるで自覚がない様子だが、かなりレベルが高い大和撫子。
今時は髪を染めるファッションが流行っているという話だが、桜乃が着任して以降、立海では髪を染める生徒が格段に少なくなったという実しやかな噂まで流れている始末だった。
そんな可憐な女性で、得意なものが家事ともなれば、それはもう男子の憧れ、女子の羨望の的になるのは当然とも言えた。
「先生、おはよー」
「はい、おはようございます。いい天気ですね〜」
その日も、桜乃は生徒達と朗らかに挨拶を交わしながらのんびりと歩き、学校へと向かっていた。
今日も元気に授業を頑張ろうと、学校に着いてからすぐに自分の聖域、家庭科室へと向かう。
ここ最近はまだ残暑もきつく、彼女は部屋に入ると真っ先に家庭科準備室の自分の机脇にある冷蔵庫へと向かった。
普段使用する飲料水やお弁当の一時保存には欠かせない備品である。
「さて、お茶お茶〜〜」
鞄を机に置いて、いそいそと冷蔵庫に向かい…
がちゃっ…
扉をいつもの様に開けて中を覗き込んだ桜乃の身体がぴたりと止まる。
「……」
彼女の視界の前には、いつもと変わらない冷蔵庫の間取り。
しかしそこにはおよそ彼女にとって覚えのないものがずらっと並んでいた。
理科実験でお馴染のビーカー…を器にしたプリン。
試験管立てに入っている複数の試験管…の中にある半透明の茶褐色の液体は、多分、プリンにかけるカラメルソース。
白磁の乳鉢の中にある白い固形物は…杏仁豆腐か。
とにかく、見事なまでの理科と家庭科のコラボレーション作品が、自分の冷蔵庫の中に陳列されていた。
「〜〜〜〜〜〜!!」
わなわなと肩を震わせていたところで、丁度そこに客人が入って来た。
「おっはよーございま〜〜〜す!!」
非常に元気がいい挨拶だったが、桜乃はそれには答えず…
「丸井く〜〜〜〜〜〜〜んっ!!!!」
代わりに、その客人の名前を思い切りよく叫んでいた。
「げっ! 竜崎先生!?」
挨拶はしたものの、それはあくまでも形だけで、どうやら誰もいないと思っていたらしい一人の若者がぎょっとした表情で桜乃を見た。
「んも〜〜〜〜〜っ!! またアナタね!? 実験道具を食器に使わないでって、前にも言ったでしょ〜〜〜〜〜っ!?」
「いいいい、いやそのだってさぁ!」
丸井と呼ばれた若者は、まるで炎の様に赤い髪で、大きな瞳をきょろっと動かし、屈託の無い笑みを浮かべていた。
見た目、いかにもやんちゃ小僧といった感じである。
「ごめん先生、だって俺、若さ溢れる探究心にどーしても逆らえなくってつい…」
「スプーン握り締めてそういう台詞を言わないのーっ!!」
きっと自分がいなかったら、早速ここで彼だけの宴が展開されていたに違いない。
全っ然説得力の欠片もない相手の態度に、桜乃は厳しく丸井を叱る…が、どうしてもその見た目の印象の柔らかさから、迫力は伝わってこない。
無論、その温和な性格からでは体罰など思いもつかない様子である。
「んもう…何度言っても改めようとしないんだから…」
しかし、せめてもの罰として、美しい女性教師は丸井のおでこをえいっとデコピンした。
「ってぇ!」
「あんまりオイタが過ぎると、理科室に報告しますからね」
「へっへー、お許しぃ〜っ」
ふかぶかっと頭を下げる丸井に、仕方ない、と桜乃は苦笑する。
悪戯好きではあるが、実は素直な良い子なのだと丸井を理解している桜乃は、これまでも長々と叱るような事はしなかった。
そういうさっぱりとした態度は他の生徒にも好評で、無論丸井も例に漏れず、数多い教師の中でも特に彼女には懐いていた。
まぁ、そうでなければ彼女の備品である冷蔵庫にこれだけの仕掛けはしないだろう。
「いいわ、今日は黙っておいてあげる」
「やりぃ! 話分かるよな〜竜崎先生、大好きだよぃ!」
「本当に調子良いんだから…」
「じゃあ早速…」
「こらこらこらっ!!」
すぐさま冷蔵庫に突進をかけた若者の襟首を掴んで、桜乃は相手の行為を止める。
「何だよぃ! 黙ってくれるって言ったじゃんか〜〜!」
「それとこれとは話が別! 少しは反省の気持ちを見せなさいってコト!」
「う〜〜〜、じゃあ、どうしろって言うんだよぃ」
襟首を掴まれたまま、ぶーっと丸井が唇を尖らせ、ついでにガム風船を膨らませる。
「……そうね、じゃあちゃんと午前中の授業を受けること。それまではここにあるデザートはお預け」
「え〜!?」
「文句があるなら、全部他の先生達とでわけちゃおっかな〜〜〜?」
「うぐっ!…謀ったな武蔵!」
「観念めされい小次郎」
「くっそ〜〜〜〜」
「うふふふ」
悔しがる丸井に思わず声を出して笑いながら、桜乃は彼の前に顔を寄せて、そっとその頭に手を乗せた。
「っ!!」
どきり…と若者の胸が一際強く脈を打つ。
「大丈夫、ちゃんとここに保管しておいてあげるから…生徒の本分を果たしてらっしゃい。ね?」
「う…っ」
艶やかな笑顔を間近で見せられて丸井が僅かに顔を赤らめたが、相手はそれに気付く様子もなく、そっと顔を離した。
「分かった? 丸井君」
「わ…分かったよぃ!」
「はい、いいお返事ね」
結局、朝のデザートにはありつけなかった丸井だったが、それ程にふてくされた顔もせずに家庭科室を後にする。
「ちぇっ…反則だろぃ? あんな優しい顔して笑うなんてさ…」
年上のクセに…同級生の女子なんかよりよっぽど無邪気で可愛いじゃんか…
ふてくされる代わりに、視線を横に逸らしながら誰にも聞こえない呟きを漏らすと、丸井はゆっくりと自分の教室へと歩いて行った。
「まぁお菓子作りってのは芸術にも通じるトコロがあるわけで、そう考えると俺ってなかなかの芸術家だと思うんだけど」
「…ビーカーに乳鉢の芸術ですか…」
昼休み
桜乃との約束をそれなりに果たした丸井は、再び家庭科室へと特攻をかけ、彼女と一緒に弁当を開いて昼食を摂っていた。
「芸術ってのは、固定観念に捕われたらいけないんだぜぃ?」
「はいはい」
箸を振り回して語る教え子に、桜乃が笑いながら緑茶入りのコップを差し出した。
「それにしてもよく食べるわね、相変わらず」
「育ち盛りだからさ」
「そうね、美味しく食べることは元気な証拠」
「へへ〜…あ、先生の弁当、今日も美味そ〜〜」
自分の分の弁当やパンを大量に食べておきながら、丸井は更なる食欲を見せ付けて桜乃の弁当をじっと見つめた。
流石に家庭科の教師だけあって、その手作り弁当のレベルはかなり高い。
女性なので量は然程多くはないのだが、何より彩が良く、味加減も抜群なのだ。
既にそれも知っている丸井は、きゅ〜んと犬がねだる様な瞳で桜乃に迫った。
「ちょっと分けてー」
「もう、いやしんぼさんなんだから…」
「じゃあ、俺のお手製ビーカープリン一個でどーだっ!」
「うーん、のった」
「やりぃ!」
結構、桜乃本人も思考の柔軟性はあるようである。
了解を取り付けた丸井は早速、彼女のお手製弁当に箸を伸ばして舌鼓を打っている。
「んまい!」
「昼休みに家庭科室に来る男子生徒なんて珍しいんじゃない? 普通は同じクラスの男子と食べたりすると思うんだけど…」
「アイツらの弁当のレベル、そんな高くねーんだもん」
「いえ、もっと友情を深めるとかコミュニケーションの問題でね…」
「いいのいいの」
困惑している家庭科教師に、あっさりと笑いながら生徒は首を振って心の中で付け加えた。
(竜崎先生の手作り弁当じゃなきゃヤだもんな…プリン一個なら全然安いって)
貴重な桜乃の『手作り弁当』を満喫したら、いよいよデザートである。
「わ、おいし…」
「だろ? 結構自信作なんだぜぃ? 先生だけに分けてやるんだからなー」
「お弁当と交換でね」
「それはいいっこなし」
試験管のカラメルソースをかけて、ビーカーから直接プリンを掬って食べる…なかなか出来ない体験である。
最初は奇妙な感じがしたが、それにも慣れると、純粋にプリンの味を楽しめるようになってきた。
「私も結構料理には自信あるけど、丸井君の腕もなかなかよね…」
「料理限定だけどな、裁縫や掃除は全然ダメ」
「男の子はねー…でも、一人暮らしとかするようになったら必要に追われてやるようになるわよ。でも女子は、それらをやれて当然って思われたりするし…まぁ強みにはなるけどね」
「強み?」
「うふふ、可愛いお嫁さんになる為の、ね」
「!!」
小首を傾げ、頬に手を当てて微笑む桜乃に、丸井はごきゅ…と含んだばかりのプリンを味わう前に飲み込んだ。
「う……そ、そっか…そういう…へぇ」
「やっぱり男の人からしたら、ちゃんと家事が出来る女性は魅力的みたいだからねー、丸井君みたいにそつなくこなすタイプは、あまりこだわりがないかもしれないけど…」
「や…俺は…別に…」
せわしなく視線を泳がせつつ、若者はしどろもどろになって口を濁す。
家事は出来る方がそりゃいいかもしんねーけど…先生ぐらいに出来るんなら問題ないっつーか、先生以外の人なんて、家事出来てもやだっつーか……先生だったら、別に家事出来なくても…
「……」
「あれ?」
黙りこんでしまった相手の顔を覗きこんで、桜乃はあ…と気付いた様に笑った。
「ごめん、ちょっと男の子には合わない話だったかな。大丈夫大丈夫、丸井君なら、きっと今に素敵な恋をして、素敵な恋人も出来るわ」
「お、俺だって…!」
笑う相手に、丸井が声を少しだけ大きくして反論する。
「俺だって、恋ぐらい…」
恋ぐらい、してるさ…アンタが気付いてないだけで……
「え?」
桜乃が聞き返すと同時に、家庭科室のドアがこんこんとノックされると、それが開かれて一人の女性教師が入って来た。
「ごめんなさいね、竜崎先生、今いいかしら」
「あ、はい…何ですか?」
どうやら固い話らしい…と思った丸井は、さりげなくビーカーを隠しつつそっぽを向いた。
教師達の話に生徒が割り込んでも、あまりいい事はない…
「少し早いんだけど、次期の転勤希望者についてね…竜崎先生は特に何の希望も無かったからこのままでいく事になりそうだけど、最近は家庭科の教師も転勤が多いみたいだから、準備はしておいて」
「は、はい…でも転勤って…私、今年ここに来たばかりですけど、それでも対象になるんですか? 確か対象は三年以上勤務の場合だと…」
「そこはやっぱり委員会の匙加減ね、学校だって質の良い教師を欲しがるのが当然だし、何処かの学校が強く希望したらその対象だけとも限らないの。若い教師には出来るだけ多くの場数を踏ませたいって話もあるし…実は竜崎先生の人気は、結構他所でも噂になっているのよ。候補としても可能性は十分」
「そんな…」
それから二言三言話した後で、女性教師は特に丸井には声を掛けることもなく出て行った。
「…転勤…ね」
「……」
「丸井君?」
ふと振り返ると、座っていた筈の若者が立ち上がり、じっとこちらを見つめていた。
先程までの穏やかな会話の時とは程遠い、鬼気迫る表情で…
「…転勤すんの? 竜崎先生…」
「え?」
「何で断らなかったんだよぃ!! アンタ…来たばっかじゃん、今年、ココに来たばっかだ!!」
「し、仕方ないよう、新米の私が我侭言うわけにいかないもの…何処の学校にも教師は必要なんだから…それにまだ確定じゃないわ、私だって出来ればここにいたい、折角慣れてきたんだもの」
「……」
確かにその通りだ、と丸井は唇を噛んでそれ以上の発言を控えた。
でも、納得は到底出来ない。
(そりゃさ…学校には教師は必要だ……分かってるさ、けど…俺にはアンタが必要なんだ)
初めてこの家庭科室で彼女と会った時、びっくりした…こんな場所には不似合いな程に眩しくて、綺麗な人だと。
幻ではないと知った瞬間、ここに来る楽しみが増えた…いや、変わった。
自分は毎日学校に通う…アンタに会う為に。
アンタに会う時間を削りたくなくて勉強だって頑張ってる、補習なんか受けない為に。
いつの間にか、自分の住む世界全てが、アンタを中心に回り出した。
その中心にある軸を…たった一年で引き抜くだって?
天変地異どころの騒ぎじゃない!
「丸井君…?」
「俺…やだ…」
いつもの彼らしくない気弱な言葉を吐き出して、丸井はそのまま家庭科室を飛び出して行ってしまった。
「丸井君!?」
追いかけようと思っても、スポーツ万能の若者に追いつく事は同年代の男子であっても難しい。
桜乃はただ、その場に佇むしかなかった……
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