「丸井―、一緒にメシ食おうぜ」
「……いらね」
 それから数日、明らかに丸井は調子を崩していた。
「おいおい、大丈夫か? お前、昨日もその前もずっと昼飯、食べてないだろ」
「…欲しくね」
「?…お前、最近おかしいぞ」
 丸井の様子を訝ったテニス部仲間のジャッカルが、机に伏して顔だけ横に向けている相手の様子を伺う。
 元々それ程に色黒ではなかった相手だが、最近はその顔色が明らかに芳しくない。
 昼食を抜くだけでも相手にとってはかつてない事態だったのに…まさか彼は、他の食事もまともに摂取していないのではないか?
「いいじゃんか…練習はちゃんと参加してるだろぃ」
「まさかお前にこんなコトを言う日が来るなんて思わなかったけどな…ちゃんと食えよ」
「…気持ち悪いんだ」
 食べたいかもしれない…でも、彼女の…竜崎先生のことが思い出される度に、耐え難い不快感がこみ上げてくる。
 全ての欲求を、押し流してしまう程の。
(う…マジで気持ち悪い…)
 昨日から、何だか嫌な気分が酷くなってきているんだけど…どうしよう…
(…水でも飲むか)
 少しでも何か腹に入れたらマシになるかも…と思い、丸井は外に出て、水飲み場へ向かおうとした。
 角を曲がり、真っ直ぐ歩き始め、少し進んだところで足が止まる。
「…先生」
 ほんの少し先に、あの人の後姿があった。
 途中の教室から出てきたのか、彼女はこちらに気付く様子も無くそのまま自分の先を歩いてゆく。
 この短い距離…でも手が届かない距離…それが今の自分と彼女の距離を示している様だった。
 そして一番恐れているのは、あの後姿が消えてしまうことだ。
「先生…」
 気持ち悪い…考える程に吐き気がする……そして…痛い…
「先生……先生…っ…!」
 そのまま家庭科室に戻ろうと思っていた桜乃が足を止めた。
 何か…今誰かに呼ばれた様な気がしたけど…?
 軽く振り向いた先に見えたのは、真っ赤な色…赤い髪の若者だった。
「丸井君…!?」
 最近、全然家庭科室に来なくなっていた相手を久し振りに見た彼女は、振り返ってすぐに相手の異変に気付いた。
 前かがみになり、壁に手を付き、俯いて…僅かに覗く表情が、苦痛に満ちていた。
「先生……嫌だ…」
「え…」
「…痛い……本当に、痛いんだ…先生…っ!」
 ずるっと壁に付いていた手が滑り、男の身体がそのまま床へと倒れこんだ。
「丸井君!!」
 周囲でその瞬間を見ていた生徒達の声が上がり、一気に騒がしくなる。
「丸井!?」
 やがてその場に騒ぎを聞きつけたジャッカルが現れ、生徒達をかき分けると、円陣の中央に友人の身体を必死に抱き起こして呼びかけている桜乃の姿があった。
「丸井君! 丸井君っ! しっかりして…!!」
「竜崎先生! 俺が運ぶから先に保健室に行って、救急車呼んで下さいっ!」
 この状況が普通じゃない事は明らかだ。
 非力な女性である桜乃に、彼女に出来ることを頼むと、ジャッカルは軽々と丸井の身体を引き受けて大急ぎで移動した。
 人を抱えても全くスピードを落とすこともなく、ジャッカルは軽々としたフットワークで三分もかけることもなく保健室へと飛び込んでいた。
 保険医は席を外しているのか、姿が見えない…いるのは桜乃一人だった。
「先生! 救急車は!?」
「すぐ来ますって…丸井君は…!?」
「ちっと朦朧としてるみたいだけどな…寝かせよう」
 備え付けのベッドに丸井を寝かせた後、ジャッカルは救急車の到着を確認する為に保健室をまた飛び出して行く。
 そしてその場には、丸井と桜乃しか残されなかった。
「丸井君…?」
 一体、彼の身に何が起きたというのだろう…?
 想像も出来ない桜乃は、ただ、彼の傍に寄り添い、真っ青になってしまったその頬に優しく触れた……


「……う?」
 目を開くと同時に意識が戻り、丸井はしぱしぱと数回瞬きをした。
「よーし、気が付いたか欠食児童」
 覚めたと同時に、上から呆れた口調の台詞が降ってきて、にょきっと視界に銀の色が飛び込んできた。
「…におう?」
 相変わらず人を食った様な皮肉の笑みを浮かべている友人は、すらすらと自分の病状について説明した。
「診断の結果、ストレス、欠食、睡眠不足による急性胃炎じゃとよー。鉄の胃袋も無敵じゃなかったってことかのう……どうじゃ、気分は」
 という事は、見覚えの無いこの場所は…病院か。
「…さいあく」
「じゃろな。珍しいもんを見られた俺はとーっても楽しいが」
「…なぐる」
「幸村も他の奴らも散々心配させたんじゃ、少しは反省することじゃよ…何でそこまでなったんかは予想はつくが、自己管理もお前さんの義務じゃろ」
「……」
「…それとな、心配したんは俺達だけじゃないからの。俺らはもう戻るが…ちゃんと礼、言うんじゃぞ」
「?」
 言いたいコトだけさっさと言って、仁王はぴらっと手を振りながら部屋を出て行ってしまった。
「……」
 改めて部屋を見回すと、本当に面白みの無い部屋だ。
 真っ白で、何も無い。
 申し訳程度に備わっているベッドサイドの収納ケースとその上のテレビ以外には。
 きぃ…
(…仁王?)
 ドアが再び開かれる音を後ろで聞いて、丸井は彼が戻って来たのかと思った。
「…忘れ物かい、仁王」
 言いながら頭をぐりんとそちらへ向けた彼が、表情を強張らせた。
 真っ白な世界の中に、唯一人、彩を持つ人。
 初めて家庭科室で見た時も…こんな感じだったと思う。
「……竜崎…先生?」
「丸井君…良かった、気が付いたって聞いて…」
 ほっと…心から安堵した笑みを浮かべて、桜乃はゆっくりと丸井の横たわっているベッドに歩み寄ると、傍に置かれていたパイプ椅子に腰掛けた。
「最近、家庭科室にも来なかったからどうしたのかと思ってたの…そんなに調子が悪かったなんて…言ってくれたら良かったのに」
「……」
「…丸井君…?」
 無反応の相手に桜乃が声を掛けると、彼はぼそりと小さな声で答えた。
「…聞こえない…もっと、近くに…」
「あ…うん」
 相手の望むままに桜乃は腰を屈めて病人の枕元へと椅子を寄せ、そして顔を近づけた。
 ぐい…
「!?」
 肩を掴まれ引き寄せられると同時に、相手はベッドから上体を起こし、自分の頬に口付けていた。
「ま…っ、丸井君…!? ちょっ…冗談は…」
 振り解こうとしてもびくともしない…病人でありながらこの力…?
「冗談なんかじゃない! アンタの所為じゃんか…!」
「私…?」
 抱き締めたまま離そうとしない相手に、混乱の真っ只中にある桜乃は気の利かない返事を返すしかない。
 そうしている間に、丸井はぎゅーっと桜乃の首に縋りつき、少し弱った身体で精一杯抱き締める。
「行かないでくれよぃ、先生…何処にも行かないで、俺の傍にいて」
「丸井…くん…?」
「ちゃんと言う事聞く…もう冷蔵庫も勝手に使わないから、転勤なんか断れよぃ…」
「え…」
 顔を埋めていた桜乃の柔らかな髪の香りに誘われるように、丸井が再び頬に口付ける。
 一度ではなく何度も、繰り返し…
「あ……っ」
 頬を染め、動けなくなってしまった彼女の口から熱い声と吐息が漏れ、それが更に相手の熱情を煽る。
「…大好きなんだ、先生……先生がいなくなったら、俺、死んじまいそう…」
「〜〜〜〜!」
 年下の…しかも生徒からのあまりに熱烈な告白に、桜乃の頭は朦朧としてしまった。
 好き…なんて、男の人から初めて言われた。
 しかも、私…彼から告白されて、嬉しいって思ってる……?
 だって、全然嫌じゃないもの…こんな恥ずかしいコトされてるのに……
「丸井君…」
 私も…寂しかった…あなたが家庭科室に来てくれなくなってから……
 普段と違う日常に慣れてないからと思っていたけど…もしかしたら私も…
 ああ、でも…私は教師で……彼は生徒なのに……
「先生…」
 かぷ…っ
「ふぁ…っ!」
 桜乃の耳元で囁いた男の唇が、そのまま彼女の耳朶に触れ、そして優しく噛み付いた。
 瞬間、初めての感覚にぞくぞくっと桜乃の全身が戦慄き、小さな悲鳴が上がる。
「だめ…っ…丸井君…っ!」
 自分の気持ちに気付いてしまった今、こんな事をされてしまったら…私、どうにかなってしまいそう…!
「…先生を…俺の恋人にしたい」
「え…」
「俺のこと、好き?」
 好き、だから…こんなになってしまうのに……
 もう、教師とか、生徒とか、そういう事は意識から抜けてしまっていた。
 抱き締められ、桜乃はくらくらする頭で相手の言葉を反芻すると更に真っ赤になってどもってしまったが、かろうじてこくんと頷いた。
「じゃあ…ずっと一緒にいよう」
 嬉しそうに囁くと、丸井はすぅと顔を離して…
「ん…っ」
 ほっと安堵した桜乃の唇に口付けていた……


 幸い丸井の病状は軽く、それから彼はすぐに退院して普通の生活に戻った。
 数日は食事制限をかけられたが、それ以外は特に問題もなく、彼は学校に通っている。
 そして、これまで御無沙汰だった習慣もまた再開されていた。
「お邪魔〜〜〜」
「丸井君!! ふるいでトコロテン作るのやめなさいっ!!」
 あの日、もうしないと誓っていたにも関わらず、丸井の芸術創作菓子は相変わらず桜乃の冷蔵庫の中を占拠していた。
 そして、二人が一緒に昼食を食べる習慣も、何事も無かったように続いている。
「へへへ…」
「なぁに?」
「先生が、ここにいることになって良かったなーって思って」
「…苦労したんだからね、言い訳するの」
 この世界で生きようと思った時、絶対に頼るまいと誓った祖母の力を借りたのは内緒の話。
「けど、さ…先生も俺と一緒にいられて嬉しくない? 俺、すっげー嬉しい」
「う……」
 図星を突かれ、直球で攻められ、真っ赤になって答えを晒してしまった桜乃に、丸井はにっと笑って身体を寄せた。
「先生、デザートちょーだい」
「え? 冷蔵庫にトコロテン…」
「今はもっと甘いのが欲しい感じ」
 そう言うと、丸井の手がくい、と桜乃の頬を優しく掴み…
「あ…」
 桜乃の柔らかな唇を己のそれで塞いだ。
 僅か数秒の甘い甘い時間…
「へへ…やっぱ凄い甘い」
「も…うっ」
 唇を手で押さえ、真っ赤になった可愛い恋人は、照れ隠しにぽかぽかと若者の胸を拳で軽く叩いた。
「こーゆーところでそーゆーことはしないでって言ったでしょ〜〜〜!?」
「あいててて…」
 痛がりながらも丸井はしっかりと嬉しそうに笑っていた。
 どうやら新米女性教師は、なかなかに手強い年下の恋人をもってしまった様である……・






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