隠し味を教えて
「ごっはんごはん〜〜」
その日も、立海大の大学生である丸井ブン太は、元気に軽いステップで学食に向かっていた。
時は昼休み、学生ならば誰でもこの時間には美味しい食事と友人達との談話に心を躍らせるものだ…いや、躍らせていなければ、ソイツは明らかに精神を病んでいる!
だから、病まない為にも、自分はこの時間を充実したエネルギー補給の為に行使するのだ。
よく分からない自論を心の中で展開しながら、彼が二つの校舎の棟と棟を繋ぐ渡り廊下を歩いている時だった。
「んあ?」
不意に丸井が足を止める。
目の前の廊下の脇に佇んでいた一人の女性が、彼女の前に立つ男子生徒二人と何か小さな諍いを起こしていたのだ。
諍いと言っても、彼女が圧されている様子で、とても有利には見えない。
背は然程高くないが、それの代わりと言うように、腰より下の長いおさげが自己主張をしていた。
同じ校舎にいるのだから、当然相手も大学生なのだろうが…大学生でおさげ?
(めずらし〜)
へーっと心の中で密かに感嘆し、丸井は更に数歩踏み出す。
『ちょっとだけデート付き合って――――――…っだって』
『今から――――…だからさ』
(何だ、ナンパか…)
こんな場所でそんな事をするなんて、余程暇なんだな〜…メシ食ったのかな、もう…
呑気なコトを考えていた丸井の耳に、今度は男達ではなく、明らかにうんざりといった声色の女性の言葉が聞こえてきた。
『…じゃあ、このお菓子、全部食べてくれたらお付き合いしてもいいですよ?』
「!!!」
ぴくん、と丸井の肩が跳ね上がり、彼の足が自然と彼ら三人の方へと向かっていく。
(ナニ、ナニ、何だって〜〜! 今何て言った!?)
興奮している丸井の視界では、相変わらず女性を引き止めていた男達が、彼女が手にしていたバッグの中身を見せられて、うっと顔をしかめて後ずさった。
余程の量があるらしく、見ただけで既に食傷気味の様子だ。
『今日が賞味期限なんです。お付き合いするなら、処分する時間分もちゃんと責任とって下さい…さぁ、どうぞ?』
更にずいっと娘のバッグを握った手が彼らへと突き出された時、そこに至る前に丸井が待ったをかけた。
「待った!! それ、俺も乗った!!」
「え…」
彼の立候補発言を受けて、女性がふいっと振り返った。
素直そうな…言い換えたら少し気が弱そうな風貌だが、可愛いと言う範疇には十分に入るだろう。
いきなりの意味不明な発言を受けて、大きな瞳が更に大きくなって揺れている。
「お菓子!? そこのお菓子食べていいの!? アンタとデートしたら! ならやる、俺も混ぜて…ってか、俺一人でいいからさ!! デートすっからお菓子ちょーだいっ!!」
「……」
完全に義務と権利が入れ替わっているんですけれど……
「…ちぇっ、邪魔が入ったかよ」
「いこーぜー、土台無理な話だっての、あんな大量にさ…」
あまりに空気を読まない丸井の乱入で完全に気を削がれた男達が、ぷいっとその場を後にして、そこにはナンパ被害から新たな受難に巻き込まれた女性と、災難そのものである若者が残された。
「あのう…?」
戸惑う相手を完全に無視で、丸井は彼女のバッグの中身を覗きこんで嬉しそうに歓声を上げた。
「うおお、すっげぇ!! マジでお菓子の山じゃんか! ラッキー!! 食べる食べる、アンタとデートして全部貰えるんならやっすいもんだって!」
「……」
その発言が女性にとってどれだけ屈辱的なものか…多分彼は分かっていないのだろう。
普通の状況だったらお断りされて当然な態度の筈だけど、今は自分がこの展開に驚いていて、正直冷静な対応が出来ない…
(そりゃ確かに私が言い出したコトだけど…何か腑に落ちないなぁ…)
彼ら…二人の男性を追い払えたら良かったのに、更に厄介そうな人が来てしまった…
唖然としている娘に、丸井は大きな瞳を向けて嬉しそうに大声で言った。
「おーし! 時間もったいねーから、早速どっかで食べよう。なぁ、食べながらデートってのもオッケー?」
「は、はい?」
「だってアンタも午後の講義あんだろ? 昼休みの間でデートってコトでいい? あ、ブツは俺が持ってやるからさ」
それは持ってやるというのではなく、『確保』というものなのでは……まぁいいけど。
「…別に構いませんけど…あの、無理にデートして頂かなくても」
「ダメダメ! こういうのはちゃんと義理を通しておかないとな。貰いっぱなしじゃあ泥棒みたいじゃんか! 俺、そーゆーの嫌なんだよい」
(義理と言い切られるデートも如何なものかと…)
おそらくは、女性の心の言葉が正論なのだろうが、今の相手には聞こえまい…
にっこにこと満面の笑みでお菓子が一杯のバッグを両手に抱え込み、今にもスキップ踏みそうな若者は、既に頭の中は何処でそれを食べようかという思考で一杯のようだ。
「えーと…今からだったら、ちょっと外に出て、テラス脇の芝生でいいかもなー…いい風吹いてるし、気持ちいいと思うぜい」
「はぁ…」
「んじゃ行くか…おさげちゃん」
「はい!?」
いきなりそんな愛称で呼ばれた娘は面食らったが、丸井はけろっとした顔で言い返した。
「すっげぇ長いおさげじゃん…そうは呼ばれねーの?」
「…一応、竜崎桜乃という名前がありますので」
「そっか、じゃ行こう、おさげちゃん」
(悪意はなくてももう少し人の話を聞けないのかしら…)
しかし、既に訂正する気力も失っていた桜乃は、相手に言われるままに、揃ってテラスの方へと歩き出した……
「おいしーおいしーっ!!」
目的場所に着いて、早速芝生に座ってデートの代償であるお菓子にありついた丸井は、賛美の声を惜しみなく上げながらそれらを口に放り込んでいた。
傍には、デートの相手である桜乃が同じくちょこんと座っていたが…相手の豪快な食べっぷりにただただ驚き圧倒されているばかりだった。
「…よく食べますねぇ」
「うん、腹減ってたし…けど、すっげぇ美味いからさ、これって滅茶苦茶高かったんじゃねぇの? 俺、こう見えてもお菓子の味にはうるさいんだぜぃ?」
でも、分からないなぁ、A店の味でもないし、B店の香りとも違う…と、同地区にある洋菓子店の名前を次々挙げて記憶を辿っても、丸井は結局納得いく答えを得られずに気持ち悪そうな表情を浮かべる。
「……くすくす」
そんな丸井の感想に、桜乃は口元に手を当てておかしそうに笑った。
「?…何だよぃ」
「そこまで褒められたら、何だかくすぐったいですね」
「…えっ?」
意味深な相手の台詞に、数秒考えた後…
「も、もしかして、アンタの手作りっ!?」
「ぴんぽん」
「マジ!?」
思わず手にしていたマフィンと、目の前のパティシエールを交互に見た丸井は、相手の反応からそれが冗談ではないとすぐに悟って身を大きく乗り出した。
「すっげぇ! 俺の味の好みにピッタシだぜ、なぁなぁ、レシピ教えて!?」
「え…自分でも作るんですか?」
「勿論、結構上手い方だと思うんだけどな〜…けど、アンタみたいな奴に会うと、もっと頑張らないとなーって思う」
男性でお菓子作りが趣味な人に会うのが実はこれが初めてだった桜乃は、戸惑いながらも、同じ趣味で珍しくコアな話が出来るということで、ついつい相手に乗ってしまった。
「ふむふむ、そこでコアントローと生地を…」
「入れる入れないは好みですけど…」
「なるほろ…」
もしかしたら講義の時より熱心にメモを取っているかもしれない男は、その作業の中でもお菓子を手放そうとはしない。
「…っても、何でこんなに大量に作ってきてるんだよぃ。食べられる量作るのがフツーじゃねーの?」
「友人の誕生日パーティーを開く予定だったんですけど、彼女が急に盲腸で入院しちゃって…祝う為に作ったものだから、参加する人たちにも配りづらいし、かと言って捨てるのも勿体無いかなぁって」
「あー、それは納得…成る程ね〜」
確かにそれは、下手に友人達に配ったら逆に配慮に欠けると思われてしまうだろう…
自分は部外者であり、全くその事情については無知だったから、何ら思うところもないし責められる謂われもないが。
「こう言っちゃあ何だけど、俺にとってはラッキーだったなぁ」
うーんと空を見上げて素直な感想を述べる相手に、桜乃もちょっとだけ申し訳なさそうにしながらも小さく笑った。
「ここだけの話、私も流石にこれだけをどう処理しようか迷ってたんです。太りたくないし、手伝ってもらえてラッキーでした…あ、今の言葉は内緒にして下さいね?」
「おげ!…でもさぁ…アンタは別に」
「はい?」
ふいっと相手を見遣った丸井は、徐に彼女の腕をがっしと掴んだ。
「きゃ…っ!」
「食う量とか気にしなくてもいーんじゃね? こんなに細っこいしさぁ…白いし…ってそりゃ関係ないか」
「〜〜〜…あ、の…」
丸井は何も考えずにまだ腕を掴んだままだったが、掴まれた乙女は相手の逞しい手の熱と感触に大いに戸惑ってしまう。
大学生になるまで一度も恋人という存在を得たことがなく、異性に触れたこともない奥手な女性にとっては、それだけでも思わず意識してしまう行為だったが、丸井は全く気付く様子はない。
「しっかしホント細いな〜…折れちまうんじゃ…ん?」
娘の腕を掴んだまま、ふと、男は眉をひそめ、くん…と鼻を鳴らすと、今度はずいっと相手の腕に顔を寄せてくんくんと同じ様に匂いを嗅いだ。
「ち、ちょっと…あのっ」
「あー…やっぱそうだ、同じ匂いするもん」
「え…?」
「ココアパウダー…シナモン…極めつけはやっぱバニラエッセンスだよな…」
「っ!!!」
くん…
伸び上がり、腕からそのまま桜乃の顔へと自分のそれを近づけた丸井は、瞳を閉じて香りを嗅いだ。
その距離は僅か数センチ。
もう少しで肌が触れ合うかというところまで近づいた男の大胆な行動に、桜乃はかぁっと一気に頬を染めた。
(わわっ…!!)
「あまーい香りする…おいしそ〜」
ひそりと…
囁きの様な小さな声に男性の持つ艶の様なものを感じ取り、桜乃の背中が微かに震えた。
「あ、あのっ…その…」
こんな…見ず知らずの人に、初対面でこんなコトされるなんて…この人一体、何処まで無自覚で…何処まで…私を驚かせて…どきどきさせるの…!?
「あのっ!」
「んあ?」
遂に緊張の糸を破り、桜乃は声を上げて相手の身体を少しだけ引かせる事に成功した。
「ん…?」
「…たっ…食べないで下さいね…」
聞きようによってはこれはこれで凄い発言なのだが、桜乃はパニック寸前の状態で自覚もなく、丸井は幸いにもその言葉のままに受け取ったらしく、慌てることもなく首を横に振った。
「いや…流石に俺も人食いまでは…って、俺、そこまで飢えてる様に見えた?」
「はぁ…そのう…ちょっと…」
「あー、わりーわりー…ホント久し振りだったからさ、こんなに上手いお菓子食ったの。勘弁な?」
「は、い…」
よいしょ、と更に身体を離したところで、丸井はふと腕時計を見てぎょっとした。
「うっわ、まずいっ! 次の講義別棟なんだよ俺っ!」
「え…あ、私もそろそろ行かないと…」
がばっと立ち上がった丸井は、走り出そうとして一度立ち止まり、ぱっと桜乃の方へと振り返った。
「美味かった! アンタとのデートも楽しかったよぃ、ありがとな!」
「あ…はい、お粗末様でした…あの」
「え?」
「…すみません、そう言えば…お名前…」
今更だけど…と躊躇いつつ問い掛けると、向こうもきょとんとした直後にああ!と強く頷いた。
「そう言えば言ってなかったな! 俺、丸井、丸井ブン太っていうんだ、おさげちゃん」
「竜崎桜乃、です」
少しだけ拗ねた顔で反論されたが、それでも丸井は笑顔を絶やさず、寧ろそれを更に深めた。
「そういう顔も可愛いじゃん…じゃあな、おさげちゃん!」
「っ!」
最後まで、乙女の心を思い切りかき回し、その若者は楽しそうに走り去って行った。
残されたのは、胸の高鳴りを抑えられない娘と、空になったバッグ…
「…本当に全部…食べちゃった…あの人」
凄い人…色んな意味で……
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