数日後
「なぁなぁおさげちゃーん、デートしねぇ?」
「…またですか」
 講義終了と同時に、桜乃は傍の窓越しから一人の侵入者の来訪を受けていた。
 丸井ブン太である。
 彼はあれから、頻繁に桜乃の許を訪れるようになっていた。
「デートしよ、デート、な?」
「……」
 透明の尻尾をわさわさと振りながら、犬の様につぶらな瞳を向けてくる丸井に、桜乃は無言ですっと自分の鞄を差し出した。
 途端、向こうの視線がその鞄に固定される。
 そのまま彼女がすーと鞄を右へと動かせば、丸井の目もそちらへと動き、左に動かしても同じ様に移動する。
 そしてさささささっと縦横無尽に高速移動させると、見事な視線の追尾効果…
「…素直にお菓子が欲しいって言ったらどうなんですか」
「ううう〜、恵んでくれてもいーじゃんか〜、ちゃんとデートするからさ〜〜」
「泣かないで下さいよこんな所で…私が泣かせたみたいじゃないですか」
 そう言っても、泣き真似だということぐらいは桜乃も見抜いている。
「…デートしなきゃここで転がって駄々こねておさげちゃんの名前大声で叫んでやる」
「どーぞっ!!」
 しかし、この台詞が脅しではないと言えない以上、桜乃に逆らう選択肢は存在せず、彼女はむっとしながらも鞄を相手に差し出した。
「サンキュー!!」
(相変わらず調子いいんだから…)
 なんて事を考えながらも、あれから自分も相手の催促に応えてお菓子を作り、持参し続けているのは、あまり大きな声では言えない…
 断ろうと決意を新たにしては、この人のおねだり攻撃に何度撃墜させられたことだろう…
「へへ、じゃあさ、早速デートしよ!」
「だから別に義務じゃないんですよ…何だか私が無理強いしてるみたいじゃないですか…」
「そんなコトないって、俺が分かってんなら人のこと気にする必要ないじゃんか!」
「それはそうですけど…」
 それでも何となく気が引けてしまう、と悩む桜乃に丸井はにっと屈託ない笑みを浮かべた。
「いいから早く来いよ、窓から引きずり出されたくはないだろぃ?」
 この子供の様な純粋な瞳を持ちながら、時々見せる大胆な行動に、いつか慣れる日は来るのだろうか?
 思いつつ、結局答えは出せないまま、桜乃はやれやれと相手の望むとおりにテラスへと向かって行った。


「けどさぁ、これっておさげちゃんの責任でもあるんだぜぃ?」
「何ですいきなり…」
 テラスに行くと、早速桜乃が昼食を食べる傍らで、丸井は早々と自分の分を食べ終えると同時に、テーブルの上に広げたお菓子の制覇へと取り掛かっていた。
「だって、あれからおさげちゃんに教えてもらった通りに作ってみてもさ〜、全然味が違うんだぜぃ? 分量とか間違って教えてね?」
「そんな事ありませんよ…間違いなく、私のレシピをちゃんと教えているハズです」
「うーん…おっかしいなぁ…隠し味もないのか〜」
「…分量は同じでも、その人の作業の中ではどうしても癖みたいなものは出ますから…それかもしれませんね」
「ちぇー、悔しいな〜。あの美味しさにはどーやったら近づけるんだろ…」
「別にこだわる必要はないんじゃないですか?」
「そりゃ…さ」
 この世に同じ菓子でも異なる味が存在する事ぐらい理解しているけど…何故だろう、こればかりはどうしてもそんなあっさりと諦める気分にはならないんだ…
「…」
 珍しく食べる作業を途中で止めて、丸井は桜乃へとさり気なく視線を送る。
(…コイツにしか作れない味なら、コイツに作ってもらったらいいだけの話なのに…何だ? 何かが凄く心に引っ掛かる…)
「丸井さん…?」
「え…?」
「どうしました? お口に合いませんか? それ」
「あ、いや、大丈夫大丈夫…」
 丸井が慌てて口に咥えていたクッキーをあぐあぐと飲み込んでいたところに、あ、といきなり桜乃が声を上げた。
「どうしたんだ、おさげちゃん」
「忘れるところでした、丸井さん。私、今度の火曜日はいませんから」
「え…!?」
 火曜日と言えば、いつも自分と相手のスケジュールが合う、デートにはうってつけの日!
「実習で、火曜は私のグループ、バスで他校に向かうんですよ。だから一日いないんです」
「そーなの? ちぇーっ」
 つまんない!と唇を思い切り尖らせた若者に、既にお見通しと言わんばかりに桜乃は笑った。
「…だから、お菓子は他のグループの子に預けておきますね」
「! ほんと!?」
「デートは出来ませんから、それで我慢して下さい」
 お菓子さえ食べられたら自分はそれでいい…と思っていたのはいつまでだったか…
「……そっか、実習ならしょーがないな。でもお菓子くれるなら許してやる」
「ふふふ」
(…そんなに楽しそうに笑うなよ…これでも俺、結構寂しいって思ってるんだからさ…)
 心の呟きは飲み込んで、丸井は無言でお菓子を口に放り込んだ。


 そして火曜日…
「おっさげちゃーん!! デートしよ…」
 先日、桜乃に言われたばかりの件をすっかり忘れていた丸井は、今日も彼女がそこにいるものとばかり考え、講義の終了時間を見計らったところで身を乗り出し声を上げたのだが…
「……あれ?」
「……」
 いつもなら桜乃の指定席である場所に座っていたのは、見覚えのない男子学生だった。
「……なかったコトに」
「ええ、是非」
 お互い顔をひきつらせながら妥協し、相手の男性が去っていった後に、今度は見知らぬ女性が丸井の方へと近寄ってきた。
「丸井さんですか?」
「あ?」
「竜崎さんからことづけを頼まれてます。丸井さんが来たら、これを渡してほしいって…」
「おお…!」
 差し出されたのは大きな紙ナプキンで作られた袋…結び目にはピンクのリボン。
 疑うべくもない、自分にとっては元気の素と言っても過言ではない宝の袋、しかし…
「……そっか…いないんだ」
 受け取りながらも、丸井はしょんぼりと肩を落とした。
「今日だけですから、明日には帰ってきますよ、竜崎さん」
「あ、ああ、そう…そっか、あんがと」
 明日になったら会えるんだし…と自身に言い聞かせながらも、明らかに落胆している先輩は、一応その後輩に礼を述べると、そのまま窓から離れて一人でテラスへと向かった。
 いつもなら、この場に於いてもあの子と他愛ないながらも楽しい話をしていられたのに…
「うわ、何だよ…滅茶苦茶女々しくなってんじゃんか、俺…」
 ダメだ!と心で己を叱咤する。
 きっとあの生活に慣れていたからこうなってるんだ、ここは一つ、彼女が作ってくれたお菓子を食べて、また元気出そう…!
「ま、今日のは俺じゃなくてアイツの手作りだから、味は期待出来るだろうし…」
 席をとって、紙ナプキンの封印を解き、中から現れたブルーベリーのカントリーケーキを一つ摘まんで早速口へ放り込む。
「……―――――――?」
 もぐもぐもぐ…と咀嚼している間に、徐々に彼の表情が訝し気なものへと変わっていった。
 何だコレ…?
(……美味しくない)
 ずが―――――――んっ!!と効果音が背後で鳴り響いている様な深刻な表情で、丸井は戸惑いながらもう一欠片摘まんで同じく口へと押し込んだ。
 今度は最初より、よりゆっくりと確認して味わうように…しかし、
(…確かに甘い…けど…全然美味しくない!)
 何がどう違う、と説明するのは凄く難しい、もしかしたら本当の味は変わっていないのかもしれない。
 それなのに、美味しい、といつもの様な感動が来ない、小波ほどにも訪れてくれない!
(手抜き…なんて、アイツがする訳もねーし…味は悪くないのに、何で、俺、こんなに冷めてんの…?)
 たった二個食べただけなのに、もううんざりだ。
「……」
『どうしたんですか? 丸井さんらしくないですよ、そんな顔』
 きっとアイツなら、笑ってそう言ってくれるんだろうな…そしたら俺も笑えるのに。
(……美味しくねーよ、おさげちゃん…全然美味しくない…)
 まるで…砂漠の砂と砂糖をこね合わせて作った紛い物…
(…つまらない……何も面白くない…)
 アンタが、いる筈の場所にいないだけで、こんなに世界は枯れてしまう……
(……会いてーよぃ…)
 丸井は、心からの想いを吐き出しながら力なく顔を伏せた。


 合宿が無事に終了し、桜乃はそのままその日は自宅へと戻っていた。
 自宅と言っても、今は一人暮らしなので借りているマンションに戻るのだ。
(ふぅ、今日は色々と疲れちゃったなぁ…)
 実のある時間だった事は確かだが、やはり集中していた分、疲労も残っている。
 今日は部屋に戻ったら、十分に休んでおこう……そう言えば…
(…丸井さん、ちゃんと受け取れたかなぁ…)
 まぁあれだけ作ってあったら、足りないってことはないと思うけど…多分。
(…でも、結構私も心配しているんだよね……何となく気になるって言うか、放っておけないというか…)
 形だけの、名前だけのデートを重ねている所為で、あの人の事をより身近に感じているのかな…
(以前は呆れたり驚かされたりするばかりだったけど…最近は凄く楽しいし、会えると嬉しいし、ドキドキするし…って、やだ、それじゃまるで私…)
 会うだけでドキドキするだなんて、まるで恋しているみたい…
「…え」
 目の前数メートル先の自分の部屋の前に誰かが佇んでいた。
 見知らぬ誰かであれば、そのまま知らない振りをして立ち去り、様子を伺っていたかもしれない。
 しかし目に入った人物は、よく見知った人物であり、それを認識した途端…
 どき…ん…っ
 会うだけで…ドキドキが始まる…
「え…丸井…さん?」
 どうしてあの人が、私の部屋の前に…?
「……! あ…」
 桜乃の気配を感じ、そちらに振り返った男が、それまでの陰鬱とした表情から僅かに驚きのそれに…そして今度は一気にこれ以上はない、という喜びを顔中で表しながらこちらに向かって駆け出して来た。
「おさげちゃんっ!!」
「きゃっ!」
 まるで大型犬の様に丸井が桜乃へと抱きつく。
 本当の犬であればそのまま容赦なく押し倒されていただろうが、流石に人間は最低限の加減は可能であり、彼は桜乃を腕の中に捕まえるだけに留めた。
「ま、丸井さん!? 何でここにいるんですか!?」
「うあああん!! だって全然つまんねーんだもん! 講義は集中出来ねーし、テニスはやる気起きねーし、飯もお菓子も不味いんだもん!!」
「…それ、理由になってませんよ」
「……アンタの同部の奴に住所聞いた」
「…それは理由じゃなくて方法です」
 相変わらずマイペースな人だな…と思いながら、ふと桜乃は相手の台詞の一部を反芻した。
「え…お菓子、美味しくありませんでした!?」
「うん、何か、全然いつもと違った…」
 一瞬相手の冗談かとも思ったが、彼が紙ナプキンの袋をごそっと膨らんだ状態のままで差し出した姿を見て、桜乃はそれが真実だと悟った。
 もし美味しいと感じてくれたのなら、ここまで、この時間まで残している筈がないからだ。
「おかしいなぁ…だって、いつもと同じ様に作りましたよ?」
 不思議そうに呟きながら、桜乃は試しに中から一個を取り出して自分の口に入れ、もきゅもきゅと味わってみる。
「…うーん…別に変わらないですけど」
「え…だって確かにさぁ」
 目の前で試した相手に続き、丸井は改めてまた一個を口に含んだ。
「……あれ?」
 何で…?
(……美味しい…)
 これだ…いつもの味…一気に唾液が溢れ出す様な甘味と食感…
 大学にいた時にはまるで感じられなかった感覚が、何で今になって…?
「…どうです?」
「!!」
 覗き込まれ、相手を間近に見た丸井がいきなり顔を紅潮させた。
(あ、あれ…何で俺、顔が熱いんだろ…コイツの顔見ただけで…)
 おかしい…おかしいって、絶対…今日の俺は本当に変だ。
 味覚が狂ったり、大学でやけに寂しくなったり、ここに来るの止められなかったり、コイツ見て赤くなったり……何で…何で…何か、共通するものって…
「……あ」
 ある!
 共通する何かを見つけた丸井は、そのまま視線を動かし、共通しているそのものを見つめた。
 コイツ…だ…
 コイツがいない所で味覚が狂い、コイツと話せない所為で酷く寂しくて、コイツに会いたいから意地で住所聞き出して……コイツ相手だから、俺、こんなに身体が熱くなって…
 それはつまり…俺が…この子を、只の後輩としてじゃなくて…友人でもなくて…
(……女、として…)
 大きく大切な事実に気付き、言葉を失っている丸井の前で、彼の心中に気付いていない桜乃は納得出来ない様子でまだカントリーケーキをはむ…と咥える。
「うーん…?」
「…や、いい、もう分かったから」
「ほえ?」
 ケーキを咥えたままに丸井へと顔を向けた桜乃は、そのまま……
 ぱく…っ
「!?」
 その咥えたケーキを半分、丸井に食べられてしまった。
 半分のケーキと一緒に、自分の唇も奪われてしまう形で。
(嘘…!)
 動揺し、身体を捩ったものの、その時には既に玄関のドアに背中を押し付けられてしまう形になっていた為に、殆ど身動きらしいものはとれなかった。
「う…っ」
 意識が遠くなりそうなのに、唇に触れる丸井のそれの感触と、二人のキスの狭間から零れてゆくケーキの欠片…舌に乗るケーキの甘味が、やけに生々しく感じられた。
「…甘い」
 ふ、と唇を離し、己のそれに触れさせる親指をぺろんと舐め上げながら、丸井は不敵な笑みを浮かべた。
 その視線の先にいる桜乃は、まだ小刻みに震え、キスの余韻に心を揺らしている。
「…そっか、アンタがとっておきの隠し味だったんだ」
 道理で、俺が作っても作っても同じ味にならない訳だよ…おまけに、もうその影響は俺の実生活そのものにも出始めているみたいだし…それじゃあ……
「やっぱ、アンタは俺が食べちまおう…じゃなきゃ俺がおかしくなりそうだし、好きなヤツをわざわざ手放すコトもないよな…なぁ、そうだろぃ?」
「ん…っ」
 解けそうな魔法を再び掛けようとする様に、丸井が再び唇を塞ぐ。
 この痺れる様な甘味は何だろう・・キスの味か、ケーキのそれか……
「…今までで一番イイ顔してる…おさげちゃん…」
 くす…と笑う相手に、翻弄されてばかりの娘はせめてもの反抗に言い返す。
「っ…さ…くの、ですっ…!」
「!…へへ…じゃあ、俺の名前呼んでくれたら呼んでやるよぃ」
 けど今は、呼び方なんかよりコッチの方がいいな…
「ちょ…っ」
 相変わらず強引な若者に最後まで振り回されながら、桜乃は唇を貪られ続けた。
(悔しいけど、この人に逆らう事は出来ないんだろうな…だって私も…この人の事、好きみたいだから……)
 結局、本当に恋人同士になるまで自分は敵わなかった。
 そして、それは多分これからも……






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