呼びたくて呼べない
「おさげちゃん、おひさ!」
「あ、丸井さん、お久し振りですね」
その日、青学の女生徒である桜乃は久し振りに立海を訪れ、ダブルスの名手、丸井ブン太の歓迎を受けた。
丁度部室から出て来たところだった少年は、彼女の姿を目にすると、ぱっと表情を輝かせて、嬉しくて仕方ないといった様子で少女に走り寄る。
「遊びに来てくれたの? おさげちゃん」
「遊びじゃなくてテニスの見学ですよ。そんな事言ったら、丸井さんでも幸村さんに叱られちゃうんじゃないですか?」
くすくすと笑いながら桜乃が尤もな意見を述べると、相手はちょっとだけばつの悪そうな顔をして頭を掻いた。
「あー…そりゃそうだけどさ」
「でも、遊びじゃなくても、皆さんに会えるのはとても楽しみですし、嬉しいですよ? テニスだって、嫌々やるより気の合う人達と楽しく練習した方が、きっと上達も早いと思います」
にこっと笑ってそう言ってくれる年下の子に、どきっと丸井が胸を衝かれる。
うわ…相変わらず、良い顔で笑うのな、コイツ……
「そ、そうだよな…確かに…」
生返事を返しながら、丸井は少女の表情を見逃すまいと、さりげなく注目する。
相手に気付かれることなく注目するというのは、案外難しいものなのだが、何とか彼は少女の視線をかわしながら、その目的を達成していた。
「今日はどんな練習をなさるんですか?」
「あ、えーと…いつもと同じ様に…」
そう丸井が質問に答えかけた時だった。
くんっ
「きゃん!」
いきなり桜乃の長いおさげの片方が軽く引っ張られ、彼女の首がそれに引かれる様にくっと反らされると同時にささやかな悲鳴が上がった。
「!」
その可愛い声に丸井が驚いている間に、桜乃の背後の犯人がおさげから手を離すと同時に二人の会話の間に割って入ってきた。
「よう、久し振りじゃのう、竜崎」
「仁王さん?」
銀髪の若者は、桜乃のおさげから手を離した後も、彼女の傍に移動してその長い黒髪を面白そうに眺め下ろしている。
「あ…びっくりしたぁ」
「しっつれいだろぃ仁王! 何いきなり悪戯してんだよぃ」
むかっと苛立ちも露に同じレギュラー仲間に食ってかかった丸井だったが、相手はまともに応じる様子もなく、はいはいとかるーく受け流した。
「はは、すまんすまん…相変わらず綺麗な髪じゃからのう、ここまで見事な女の命に触れる機会もそうないし、堪能させてもらおうってな」
言いながら、詐欺師の細く長い指が再び少女の黒髪の束を取り上げる。
「しかし、これだけ綺麗なのに、おさげばかりじゃ少し勿体無い気もするのう…お前さんなら、他のヘアスタイルでも結構イケると思うんじゃが…」
「そ…そう、ですか?」
間近で髪の品定めをされ、桜乃がぽっと赤くなりながら相手にそう返事をする様を見た丸井が、更に不機嫌も露に二人の間に割って入った。
「おさげちゃんはおさげちゃんがいいんだっての! 勝手なコトばかり言うなよぃ仁王!」
「おっと、名付け親は賛同出来んか」
丸井の特攻をひらりとかわした詐欺師は、その動作の中で桜乃の表情が一瞬暗く沈んだ事実を目敏く見破った。
(ほほう…)
一方の丸井はそんな彼女の変化には気付く様子もなく、相変わらず仁王に警戒の目も露に、がるるるるっ!と思い切り威嚇している。
「ま、丸井さん…」
いいんですよ、と止める桜乃にも構わない丸井の盲目的とも言える防衛に、仁王は苦笑しながら肩を竦めてみせた。
「やれやれ、別におさげじゃなくてもいいと思うがのう…『おさげちゃん』以外にも呼び方はあるじゃろうが、例えば…」
そう言いながら仁王は数歩踏み出し、再び丸井の脇を抜けて桜乃の隣に来たところで、その細い肩に手を置いた。
そして、思わせ振りにそっと耳元に顔を寄せ…
「桜乃…」
「っ!!」
艶のある声で呼ばれて桜乃は更に真っ赤になり、いよいよ丸井の本気の怒りに火が点る。
「こんのエロ詐欺師〜〜っ!!」
「失敬じゃのう」
仁王が丸井のラケットの一撃をひらりとかわし、二人だけの鬼ごっこが始まった。
すたこらさっさと逃げる仁王と、彼をラケットを振り回して追いかける丸井を、一人残った桜乃は呆然と見つめるばかり。
(相変わらず、よく分からない活気に満ちた所だなぁ…)
うーんと感心しつつ、彼女はふいっと顔を俯け、己のおさげの束を見つめる。
(…おさげちゃん…か…)
最初は凄く親しみやすい呼び名だと思って、嬉しく感じていたけれど…今はちょっと物足りないなぁ…
「…まぁ、間違ってはいないんだけどね…」
おさげにしているのは事実だし、間違ってはいない、確かに…でも……
(…自分で言うのも何だけど、丸井さんとは結構仲がいいと思うし…名前で、呼んでくれないかなぁ…桜乃って…)
仁王さんに呼ばれた時ですらあんなに緊張してしまったのなら、あの人にそう呼んで貰えたら、私は幸せでどうにかなってしまうかもしれない…それでも……
「だから放っておけって。仁王はとっくにお前の気持ちぐらい見通した上でからかってんだろ」
散々あの詐欺師を追い回した挙句、結局逃げ切られてしまった丸井は、今はダブルスの相棒の隣で愚痴を零していた。
但し、先程まで全力疾走だったので、座り込みながらもぜーはーぜーはーと派手な息遣いをして、肩まで上下させている。
「……急に走るの止めると良くないんじゃないか?」
「くそ〜〜〜〜」
突っ込むのも相棒の優しさだろうが、今の丸井は仁王への怒りばかりが先に立っている。
「おさげちゃんに変な色目使いやがって、今度やったら簀巻きにして三流河川に流してやる!」
「そりゃまた大胆な犯行声明だな」
想像すると恐いのか笑えるのかよく分からない…と言っても、多分あの詐欺師なら、涼しい顔して空中脱出ぐらいはあっさりかましてくれそうだ。
「まぁお前が彼女を気に入っているのはみんなが知っていることだしな。今更、『おさげちゃん』なんて呼び方にこだわらなくてもいいんじゃないかとは俺も思うぞ?」
「う…」
「まぁ好きなように呼べばいいだろ、おさげちゃんでも竜崎でも」
「……」
ようやく落ち着いてきた心臓の動悸を胸に感じながら、丸井は少しだけ顔を俯け無言になった。
好きなように、呼ぶ…?
俺が呼びたいように、アイツを呼んでいいのなら、俺は…
(…サクノ)
桜乃…桜乃……それが彼女の名前…苗字ではなく、より明らかに彼女という存在を表す名前。
(……いい、名前だよな…)
当たり前だよな、アイツの名前なんだから…大好きなアイツの名前なんだから。
(…呼べたらいいよなぁ)
何で俺、最初から呼ばなかったんだろう。
何も考えずに、あの髪を見て『おさげちゃん』って呼んだばかりに、今も自分はその束縛から逃れられないでいる。
(そりゃ最初から名前呼ぶのはどうかと思うけどさ…かと言って、いきなり呼び方を名前に変えるのも、結構キツイもんがあるんだぜ?)
タイミングとか…相手の反応とかさ…もし、言って…
「丸井、丸井!」
「んあ?」
何故か、やけに焦りを帯びたジャッカルの呼びかけを聞いて、丸井は反射的に顔を上げた。
「…」
目の前に…桜乃の顔があった。
いつの間にか、覗き込まれていたらしい。
「う…」
数瞬前まで考えていた想い人の顔を間近に見た若者は、その視覚的衝撃から頭の中が真っ白になる。
その時出来た事は、ただ、本能のままに…
「わああぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」
「ひっ!」
ひたすらに大声を上げつつずざざざっ!と後ずさり、近場の木の陰に隠れるしかなかった。
但し、見た者の心象としては…とても良いものとは言えず、間近でそんな反応を返されてしまった桜乃も思わず軽く後ずさりながら悲鳴を上げてしまう。
(バカ野郎…)
もうちっとまともな反応は出来なかったのか、とジャッカルが苦い顔をしたが、最早口に出して注意も出来ない。
「ま、丸井さん…?」
「ご、ご、ご、ごめんっ!! ち、ちょっと考え事しててさ、ついっ…!」
木陰から顔を覗かせつつ断る丸井は明らかにまだ動揺の最中にあったが、桜乃は驚かされたものの特に怒ったりする様子もなく、ひょこ、と不安げに首を傾げる仕草をした。
「はぁ…そうでしたか、お邪魔じゃありませんでした?」
「い、いやいやいや…大丈夫、だけど…」
どうせ考えてたのはアンタのコトだったし…とは心の中だけで答え、丸井はようやく木陰から出てきて桜乃の前に改めて立った。
「な、何?」
「いえ…仁王さんを追いかけて行ったっきりでしたから、何となく心配になって…何を考えていたんですか?」
「い、いやぁ…その…」
アンタのコト…だったんだけどな…って言えたら楽なんだろうけど。
いや、いっそ、言ってみようか?
悩んでいることをいっそここで話してみようか?
アンタの名前を…呼んで…みようか…?
「…えと…さ…」
「?」
どもりつつ声を出した丸井に、桜乃はえ?と首を傾げ、後ろのジャッカルはおっと早速何かに気付いた様な表情を見せる。
さっきまで聞かされていた愚痴と、相手の今の言葉から、何を言おうとしているのか既に察した様だ。
「…さ…さく…さ…く…」
野望達成までもう一息!…だったのだが…
「??? 何ですか?」
きょとーんと首を傾げたままに、丸井に問い掛ける桜乃の瞳は純粋な好奇心に満ちており、それをまともに見てしまった少年は…
「さっ…」
「え?」
「酢酸カーミンって、何する薬だったっけ!?」
折角固めた決意を、思い切り滑った質問にすり替えてしまった。
(大バカ野郎…っ!!)
背後でずるっと派手に滑ってしまったジャッカルが内心大声で罵った。
そこまで言っといて、あと最後の一文字が、どうして言えんのだ!!
相棒が視線で叱咤している脇で、唐突な質問をぶつけられた桜乃は、きょと、と戸惑いながらも素直に丸井に答えた。
「え、と…細胞の核を染めるんじゃ…?」
「そ、そうそうそう!! わり! ちょっとド忘れしちまってさ…!!」
「はぁ…部活の間でも復習されてるんですか、偉いですねぇ」
「ま…まぁな…」
褒められているのに、全然嬉しくないし…
心の中で血涙を流していた丸井だったが、最早それ以上再挑戦する気も起こらず、がっくりと肩を落とすばかりだった。
「…あ、向こうで幸村さんが呼んでるみたいですよ?」
「あ? ああ…そうだな」
俺の根性なし…と自責の念にかられながら、桜乃と一緒にその場を離れていく相棒を、ジャッカルが哀れみの目で見つめていると、いつからそこに隠れていたのか、背後から仁王がにょっと顔を覗かせた。
どうやら、今までのコトも、この詐欺師には全て筒抜けだった様だ。
「…まだ春は遠そうじゃのう」
「取り敢えず、人を隠れ蓑にするのは止めてくれ」
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