そんな事があり、暫く後の立海にて…
「おい、丸井」
「何だよぃ、仁王」
 ラケットを握って今日の練習内容を頭の中で反芻していた丸井が、自分を呼んだ男に振り返ると、相手がくい、と親指である方向を指し示しながら言った。
「竜崎が来とる」
「え!」
 相変わらずあの娘に夢中らしい若者は、その一言に過剰とも言える反応でそちらへ振り向いたが…
「…え?」
 何だよ、いないじゃんか……
 見えるのは、複数の非レギュラー陣を含めた男子生徒がたむろっている姿ばかりで、見慣れたおさげの少女の姿なんて何処にも…
「モテモテじゃのう」
「!!」
 騙したのでは、と疑いの目を向けた丸井を凍らせた仁王の一言。
(モテ…って…まさか!!)
 男しか見えないあの集団の中に、まさか…
 嘘だろ!と思いつつも無視することも出来ず、丸井が大慌てで集団の方へと走っていく様を仁王はひらっと手を振りながら見送った。
「ま、気張りんしゃい」
 ちょっとばかり入れ知恵したが、上手くいくかは彼女次第…か。
 仁王は手を振りながらも、心の中で悪戯を仕掛けた子供の様に舌を出した。
 言っておくが、今日の竜崎は本気じゃよ?…甘く見んことじゃな…


「おさげちゃん…!?」
 たむろする男達の傍まで来たところで、丸井の懸念は現実であった事が判明した。
 いる! 確かに彼女だ、しかし…
(何で…何でいきなりそんな…)
 彼女の姿を見た丸井が困惑も露に立ち尽くす。
(何で、髪を…)
 いつもならおさげを揺らしている桜乃が、今日はそのおさげを解いて黒髪を遊ばせ、こめかみ辺りの髪を編み込んだヘアスタイルだった。
 おさげの時とはまるで違う印象に、何だか奇妙な感じを覚える。
 アイツ…あんなに可愛かったか…?
 いや、可愛いのは知っていたけど…何となく、色っぽいというか、目を引くと言うか…
 そう思っているのは丸井だけではないようで、桜乃をさっきから取り囲んでいる男達も彼女に興味津々という感じで声を掛けていた。
「うわ、君ってあのおさげの人?」
「へー、全然違う感じ」
「今日は何でそんな髪型にしてんの? でも、絶対にこっちの方がいいと思うけどなぁ」
「そうそう、可愛いし。でもさ、今フリーなら今度…」
 そんな男達の数々の発言の中に在って、桜乃は少し戸惑いながら遠慮がちに顔を俯け、微笑みつつも無言を守っている。
 しかし、だからと言って丸井の心の動揺が収まる訳でもなく、彼は一気に不機嫌を露にしながらつかつかつかと彼らの方へと早足で近づいていった。
 寄るな! 彼女に!!
 そいつは俺のだ!!
 誰にも触れさせない、俺だけの…!!
「あ…」
 丸井が男達の輪の中に入ってきたことに気付いた桜乃が、初めて顔を上げ、それにつられて他の男性達もそれに倣う。
「丸井先輩…?」
「え…」
 いつもなら笑顔を絶やさない明るい性格の男が、今日は異常な程に攻撃的とも言える威圧感を醸しだしていることに気付いた彼等が、何事かと戸惑う。
 テニス部に関係ない桜乃目当ての野次馬達も、彼の異様な雰囲気はすぐに感じ取った様子で、彼らは素直に彼に道を空けた。
「丸井さん…?」
「……」
 桜乃の呼びかけには答えず、代わりに彼は相手の細い腕をぐいと掴むと、そのまま強引に場から連れ出そうとする。
「え?…あ、あの…っ」
「ちょっと、こっち来い」
「丸井さん…!?」
「いいから来いっての!!」
 振り返る丸井の瞳が、苛立ちと怒りを表しており、少女の反論を抑え込む。
 少なくとも、桜乃が初めて見る、丸井の怒りの表情だった。
「…」
 びく、と微かに怯えた様子で身を引いた桜乃だったが、その後は仕方ないと思ったのか、特に抗う様子もなく素直に丸井の誘導に従った。
 そんな若者が少女を連れて行った先は、別に珍しい処でも何でもない、彼女も見慣れたテニス部部室内だった。
 もう練習が始まろうという時間でもあり、中には誰もいない…無論丸井も本来ならばそこにいるべきではないのだが、彼は今はその事実を完全に無視した。
「座って」
「……?」
 部室内のパイプ椅子に桜乃を座らせると、若者は自分のロッカーを開けて、常備していた櫛を取り出した。
 普段は手櫛で十分なのだが、一応身嗜みとしてロッカーに置いていたそれを握ると、丸井は再び桜乃へと歩み寄り、相手への確認も無く、無言で編み込みを止めていたゴムを外してしまった。
「え…っ」
「…戻せ」
 その一言だけを言い、少女に手にしていた櫛を差し出す。
 つまり…いつものおさげにしろというコトだ。
「……」
 差し出された櫛を見つめ、それから丸井へと視線を移した桜乃は、数秒間その姿勢を保っていたが……
「…嫌です!」
と、つーん!とそっぽを向いてしまった。
「戻せ!」
「嫌」
「も・ど・せ!!」
「や!!」
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
 どうあっても首を縦に振らない覚悟らしい少女に、丸井がわなわなと身体を震わせたが、個人の好みについて彼女を責めるのは筋違いだということぐらいは認識しているらしい。
 しかし、そこで大人しく引っ込むつもりは丸井の方にもないらしく、それならば、と彼自身が相手の髪の束を掴んだ。
「!?」
「じっとしてろよぃ」
 そう断り、男は慣れない手つきで桜乃の三つ編みを再現しようと格闘を始めた。
 あみあみあみあみ……
 いつもの手馴れた桜乃のお手製には遠く及ばないが、何とか一房作り上げ、もう片方へと取り掛かろうとした時…
 しゅるっ
「……」
「……」
 桜乃は無言の抗議と言わんばかりに、その作られたおさげのゴムを外してしまう。
 暫くの無言の沈黙の後……
 あみあみあみ…しゅるっ…
 あみあみあみ…しゅるっ…
 こうなったら殆ど我慢比べだったが、二往復した時点で遂に丸井がキレた。
「だあ―――――――っ!! なんっなんだよお前は〜〜〜〜!!」
「おさげなんてもうしませんっ!!」
 珍しく…本当に珍しく、桜乃が徹底した反抗の意思を見せる。
 普段なら寧ろ事を荒立てない為には自身から身を引くような奥ゆかしい娘だったにも関わらず、今回はまるで岩にしがみ付いてでも!という程の強情さ。
 傍観者であれば、それもまた一興、と笑っていられたかもしれないが、自分が当事者となってしまった場合は笑えない。
 こういう人間の場合、意固地になったらとんでもなく厄介な場合が殆どなのだ。
「いーじゃんかおさげでっ!! 俺が作るのが気にくわねーなら自分で作れっての!」
「いやですよだ」
 ぷんっとそっぽを向いてとことん反抗心満々の少女に、痺れを切らした丸井が一言。
「…かっわいくね〜〜〜な〜〜〜! ガキみたいなコト言ってんじゃねーよぃ!」
「っ!!」
 むっかぁ!!
 その一言が、桜乃の滅多に点火しない怒りの導火線に火を点けた。
「そうですね、おさげじゃなくなれば、もう『おさげちゃん』なんて呼べなくなりますもんね…その程度なんですよね、私」
「はぁ!?」
「どうせお子ちゃまです! 私なんか、丸井さんにとっては『おさげちゃん』がせいぜいで、子供扱いしかするつもり無いんでしょう?」
「!!」
 瞬間…
 ぶちっと頭の中で何かが切れた。
 何だと…?
 お前が子供…? 『その程度』…?
 マジでそんな事言ってんの?
 じゃあ、俺がこんなに焦ってんのは、こんなに恐がってんのは…一体誰の所為だと思ってんだよ!!
「お前、ふざけんなよ!!」
「っ!!」
 ぐいと胸倉を掴み上げて桜乃を無理やり立たせると、その拍子で椅子ががしゃんとけたたましい音をたてて倒れる。
 怒声を浴びせられた少女は、相手に向き直らされて、今度はどんな罵声を浴びるのだろうと思ったが、それからはもう大声が響くことはなかった。
(…えっ?)
 ただ、静かな世界だった。
 唇が、塞がれてしまって声が出せない…何、この柔らかな感触…って、どうして丸井さんの顔がこんな傍に…
「……っ!?」
 唇を塞いでいるのが相手のそれだと気付いた桜乃が思わず身体を捩ったが、丸井は微かに唇は離してくれたものの、身体はしっかりと拘束したまま離す素振りはなかった。
「俺だって…呼びたい…桜乃…」
「っ!!」
 今…桜乃って、呼んだ…?
「他のヤツになんか、呼ばせたくないし、渡したくもない…可愛いアンタを見られるのも嫌だ…何でそんな格好で、他の男を寄せるような真似をするんだよぃ! 子供相手に、こんなに必死になるかっての!」
「あ…っ」
 怒りのベクトルがそのまま真っ直ぐに向かってくるように、桜乃は丸井から再び熱烈な口付けを受けた。
「ん…っ…」
「桜乃…桜乃…ああくそ、アンタの所為だ…」
 唇を離し、苦しそうに呻いた丸井は、そのまま相手の肩口に己の顔を埋めた。
「丸井…さん…」
「…俺だって、ちゃんと順番ぐらい考えてたんだぜ……最初に、名前呼んでさ…ちゃんと、好きだって言って…それから…キスするつもりだったのに…何だよ、全部ぶっ飛ばしちゃったじゃんか…計画滅茶苦茶…」
「え…」
 のろりと肩から顔を外した丸井は、見ると、明らかに赤面していた。
 それは彼本人も自覚はある様で、自分の腕で顔を隠そうとしている。
「あーそうさ…びびってたんだ、アンタの名前呼ぶの…もし桜乃って呼んで、引かれたら、もうアンタに近づくことも出来なくなる気がして…それに『おさげちゃん』でなくなったら、ああやって知らない処で他の男が寄って来て、アンタのコト、さらっちまうんじゃないかって…」
「……!!」
 ばつが悪そうに、腕を下ろした丸井はまだ赤くなったままに告白した。
「好き…だから…俺の我侭、聞いてほしかった…誰にも渡したくない、誰にも見てほしくない、俺以外、誰も…アンタがあんなに綺麗なの、知ってほしくなかった…」
「……」
 それから、二人の間に短くも長い静寂の時が流れたが、それを破ったのは桜乃だった。
「…どうして」
「!?」
 その問い掛けを聞いた次の瞬間、丸井は、桜乃からぎゅっときつく抱きつかれていた。
(え……さく、の…?)
 驚く彼の耳元で、少女の拗ねる様な声が聞こえる。
「どうして…もっと早く、呼んでくれなかったんですか…?」
「え…」
「…私だって…好きだったのに…もし分かっていたら、私だって呼べたのに…」
 そして、少女は彼の耳元で呼んだ。
「…ブン太さん…」
「!!」
 ぐらぁっと世界が回るような衝撃を覚えながら、名を呼ばれた男は胸の奥から湧き上がった欲望に逆らえなかった。
「桜乃…っ!!」
「きゃっ…」
 相手の細い身体を抱き返し、丸井は夢中で相手の唇を貪った。
 名前を呼んで、告白して…キスをする…
 結局、考えていた順番は無意味なものとなってしまったが、全てを叶えた男は、嬉しそうに桜乃に囁いた。
「なぁ…俺って、もう、アンタの恋人…?」
「〜〜〜〜〜ブ…ブン太さんが…私なんかで、いいのなら…」
 もういつもの、素直で内気な彼女だ…
 嬉しくて、男は相手を思い切り抱き締めて宣言した。
「うん! じゃあ、アンタは俺のモン! 他の奴らになんか絶対に渡さねぇから!」


 それからの二人は…
「なぁ、おさげちゃん、帰りにちょっと付き合ってくんね? 新しいラケット見に行くんだけど」
「はい、いいですよ?」
 相変わらず、立海では仲の良い雰囲気だったが、呼び方は何ら変わっていなかった。
 桜乃の髪も、おさげのままだ。
「ありゃりゃ…まだ進歩するには早かったのかね」
 そんな二人の様子を見たジャッカルが肩を竦める脇では、仁王が意味深な笑みを浮かべていた。
「さぁ…それはどうかの」
「ん?」
「いや、竜崎がそれでもええなら俺らが口出しすることじゃなかろ? それに、結構イイ感じじゃよ? あの二人」
「ふぅん…?」
 そんな外野の会話を他所に、二人は立海テニス部の部活動が終わった後で、丸井を先に一緒に目的の店へと向かっていく。
 通学路から外れ、店が近づいてきたところで、不意に丸井が桜乃を振り返り、その腕を伸ばす。
「そろそろいいだろぃ? ほら…」
「あ…はい…」
 手を伸ばされた桜乃は、頬を染めつつ俯き、彼の手がおさげのゴムを外すのを許した。
 あれから、桜乃は丸井と二人っきりの時だけは、おさげを解くようになっていた。
 無論、変わるのは髪型だけではない。
「へへ…やっぱ可愛いぜぃ、桜乃。前は秘密にしたかったけどさ、何か最近は、アンタがこんなに綺麗だってコト、みんなに自慢して回りたくなってきた」
 自分だけの特権と言う様に、さらりと自分の黒髪を梳いた男に少女がぽっと頬を染める。
「も、う…ブン太さんったら…」
「…あー、なーんか我慢できねぃ…ん!」
 ちゅっ…!
「!!」
 道端で、夕暮れの薄闇に紛れて若い恋人達が口付けを交わす。
「ご…強引なんですから…!」
「だってアンタ、俺の大好きな恋人だもん」
 名前の束縛を解き、相手の心を手に入れた若者は、翼を得た鳥の様に軽やかに足を運ばせて笑っていた。
 その翼は勿論これからも、可愛い恋人を傍に留め、護る為に広げられるのだろう…






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