途切れた絆


「えーとさぁ、おさげちゃん…」
「はい?」
 某日、立海男子テニス部の部活動中に、レギュラーである丸井ブン太は、一人の少女に声を掛けていた。
 相手は、立海の制服とは異なるそれを纏っており、長い二本のおさげが揺れている。
 線の細い、瞳が大きな娘は、相手に呼ばれると屈託のない笑みを称えながら彼を見上げてきた。
「何ですか? 丸井さん」
 彼女の名は竜崎桜乃と言い、青学の一年生である。
 中学に入学してからテニスを始めた超初心者であるが、彼女の祖母が全国的にも名高い青学男子テニス部の顧問である事が切っ掛けで、同じテニス強豪校のレギュラー達との縁が生まれた。
 それだけの縁であれば、おそらくは互いに顔を合わせても会釈をする程度のもので終わってしまっていただろう。
 しかし桜乃がテニスに対して非常に熱心であり、彼らに指導を願ったことがより強い絆を彼らの内に結ぶことになった。
 わざわざ都内から立海へ足を伸ばしてまで見学に来てくれた少女を、レギュラー達が無碍に扱う筈もなく、最初は見学を許すのみだったが徐々に打ち解けていくに従い、テニスの簡単な指導を行うまでになったのだ。
 少々引っ込み思案ではあるが、素直で優しい桜乃の性格は、彼らからよく愛され、可愛がられるようになり、今では青学メンバーよりも気にかけられている。
 その中でも特に三年生の丸井ブン太は、桜乃の事を非常に気に入り、姿を見てはその後を追いかけていくのが癖にさえなっている。
 最初は、お菓子作りが同じく趣味の彼女と同好の士の様な関係だった。
 しかし互いに言葉を交わす内に、お菓子の話よりも桜乃その人を知りたいと思う気持ちが、若者の心の中で大きくなっていった。
 そして最近、遂に彼は気付いたのだ。
 その気持ちが、恋というものであると。
 初めての経験…お菓子とか、貰える物抜きでここまで一人の女性に執着するなんて。
 いつも明るく、小さな事にはこだわらずに生きているそんな若者であっても、恋に落ちることはあるものだ。
 珍しく、ここ数日は新しい創作菓子のレシピの考案に手を付けることもなく、丸井はずっと思案に耽っていた。
 どうしようか…こんなに好きになってしまって。
 何とかこの気持ちにケリをつけないと、自分が自分でなくなってしまいそうだ。
 でも、もし告白しても受けてくれなかったら…?
 気まずいよな、俺もアイツも……
 友達としても、一緒にいられなくなったりしないだろうか?
 けど、もう少し、もう少し、なんて引き延ばしていたら、それこそ先に誰かに取られてしまうかもしれねーし。
 だってアイツ…凄ぇ良い子なんだもん。
 やっぱ言おうかな…最初から攻めずに後悔するなんて、俺らしくないもんな。
 言おうかな……うん、言おう。
 でも、いきなり言うのもあれかな…そう言えば、俺、まだあの子と個人的に会った事もないし…デートってやつ?
 流石にいきなりはまずいかな…じゃあ、先ずはデートに誘って…で、タイミングと相手の様子を見て…で、一気に決めるか…よし!
 そして、悩みに悩んだ若者は、遂にこの日、少女に対し大勝負をかけていた。
「今度の日曜って、空いてる?」
「日曜、ですか? ええ、別に用事はありませんけど」
 よし、第一段階はクリアー!
「そ、そか…じゃあさ、その日俺と、どっか行って遊ばね?」
 うわ、大丈夫かな俺…ちゃんと自然に誘えているかな…挙動不審だったら、その時点で全部おじゃんなんだけど…!
 内心気が気ではなかった丸井だが、彼の決死の思いは天に無事に届いたらしく、桜乃は特に怪しむ素振りも見せずににこりと笑って頷いてくれた。
「はい、いいですよ」
「マジ!? やった! じゃあ、待ち合わせ決めよう待ち合わせ!」
「うふふ、はい」
 それから丸井は、大はしゃぎで桜乃と日曜日の待ち合わせの時間と場所を決めた。
 運命の日の午前中…場所は二人でもよく足を運んでいたここから近くの大きな通り…のコンビニ前。
 色気のない場所ではあるが、下手に行きなれていない場所を指定して桜乃が迷ったりしないようにと、これでも最善の対策を講じたのだ。
 後は、当日に二人で色々な処を回って楽しんで…そして、告白をする。
 恋人になってくれと。
 運命の日を思い、今から微かな期待に胸を躍らせつつも不安を持て余していた丸井だったが、その時彼は思いもしなかった。
 その運命の日が、まるで意味合いの違うものになってしまうということに。


 当日、先ず最初に待ち合わせ場所に到着したのは、桜乃だった。
「…あと十分か…良かった、遅れなくて」
 コンビニの前に無事に到着した桜乃は、腕時計を見て時間を確認し、ほっとした様子。
 そして、後は相手の到着を待つばかりだと思いながら、辺りを見回したが…今のところそれらしい人の姿は無い。
 まぁ、時間前なので、そんなに焦る必要もないだろうと、少女は気長にのんびりと待つ姿勢だった。
 今日は流石に制服ではなく私服の出で立ちだったが、実は彼女にとってはお気に入りの一張羅。
(ち、ちょっと張り切りすぎたかな…でもいいよね、折角丸井さんが誘って下さったんだから…)
 もうすぐで会える若者の笑顔を想像して、桜乃はこっそりと笑った。
 嬉しかった。
 初めて相手が、自分を個人的に誘ってくれた。
 もし彼でなければ…ここまで嬉しいと思わなかっただろうし、そもそも引き受けていたのかも分からない。
(これって…デートって思って、いいんだよね?)
 あの時は恥ずかしくて確認出来なかったけど…男女が二人っきりで会うのなら、そういう事だよね…?
 じゃあ、少なくともあの人は、私の事を嫌ってはいなくて…好意を持ってくれていると、自信を持っていいのかな?
(あー、ダメ…考えるだけで顔が緩んじゃう…落ち着かないと…)
 どうしよう、と思っている桜乃の目に、傍のコンビニが飛び込んでくる。
(あ、そうだ…水でも飲んだら落ち着くかな…)
 ちょっと中で買い物でもして落ち着かせよう…と桜乃は中に入り、色々と見て回った結果、一本のミネラルウォーターのペットボトルを手にしてレジに並ぶ。
「…あら?」
 レジの前に並べられていたガムを見て、桜乃はそれを注視する。
 どうやら新作のガムの様だ…しかもグリーンアップル味。
「……」
 今から会う彼も、この味が好きだった事を覚えていた少女は、一本取って、それも一緒に買い取った。
「袋は要りません」
 そう断り、代金を支払い、桜乃はそれらを手にしたままコンビニを出た。
 さて…もうすぐ待ち合わせの時間かな…と再度、腕時計の針を確認しようと腕を持ち上げ視線を下げた時。
 キイイィィィィ――――――――――――ッ!!
 突然、けたたましい高い音がその場に響いた。
 例えるなら大きな獣がいななくような、それとも苦しげに呻く、いや、吠える様な音が長く続き、桜乃は自然にそちらへと目を向ける。
 自分の立つ通りの曲がり角の右側に、それはいた…いや、在ったのだ。
 獣でも何でもない、ただの…車だ。
 赤い色が目に鮮やかで酷く目立ったそれは、真っ直ぐに、何故か自分へと向かってきている。
(え…?)
 何で…?と思う桜乃のその目前で、車は僅かに軌道を逸らしながらも、尚も物凄い速さで突進してきた。
 それは一秒にも満たない、僅かな時間だった筈。
 しかし桜乃には、まるでスローモーションを見ている様に、数秒…数十秒の間にゆっくりとその光景が映っているように感じた。
 しかし、その間に自分が動けることはなく…当事者なのに、傍観者の様に佇むしかなかった。
 そして、突然身体を襲う衝撃。
「!?」
 痛みではない、ただ、何か凄く強い力で、全身が打たれた。
 直後、意識はあるにも関わらず、桜乃の目の前は真っ暗になり、彼女は前後不覚の状態に陥ってしまった。
(…あれ?)
 真っ暗になった世界の中…意識も少し朦朧としてきた中…桜乃はまだ自分がどうなったのか知る由もなく、不思議な世界を漂っている感覚だった。
 痛みも何もない…でも、少しだけ冷たい感じがする…目も、開かない…
 あれ? 私…どうなったんだろう…?
 何だか周りが騒がしい…沢山の人の声と…車の音と…後は…
『おさげちゃんっ!?』
(あ……丸井さんの声…)
 間違いない、彼の声だわ…そういう風に私を呼ぶの、あの人しかいないし…
 来たんだ…そうだよね、約束したもの、今日は一緒に遊ぼうって…
『何で!? どうしてこんな…!! 嘘だろい、なぁ!?』
 どうしたんだろう…あんなに騒いでいる丸井さんの声、初めて聞く…
 それより私、早く返事をしないといけないのに…おかしいな、身体、動かない…目、開かない…声、出ない……
『おさげちゃん! おさげちゃんっ!! なぁ、目ぇ開けてよ! 俺見てよ!! 何で、何で何も言わねぇ内にこんなコトになってんだよい! そんなのねぇじゃんか!!』
 あれ…? 丸井さん……泣いてる?
 どうして泣いてるの…? 大丈夫ですよ、きっと大丈夫…
 あ、そうだ…さっき、ガム買ってたんだ…丸井さんに…
 ほら、これあげますから…そんなに泣かないで、何を悲しんでいるのかは、分からないけれど……
『救急車…! 救急車、早く呼んで!! おさげちゃんが…桜乃が死ぬなんて、俺、絶対やだ!!』
 え? 死ぬ…?
 私……死ぬ…の……・?
 そんなの嫌……折角、折角、名前を呼んでもらえたのに…
 あれ、おかしいな……何だか……いしき…が……・




「……」
 呆然と、丸井がその場に座り込んで、既に一時間以上は経過している。
 場所は病院の廊下に置かれたベンチ。
 目の前にあるのは、病室の扉。
 そこにあの子は眠っている…家族に見守られながら。
 多分、自分に起こったことを理解していないまま…昏々と眠り続けているのだ。
 共に救急車に同乗し、この病院に運び込み、そのまま桜乃は丸井の手から引き離されて至急で検査と治療を施され…先程ようやくこの病室に落ち着いた。
 幸いにも、突っ込んできた車との衝突は避けられたものの、傍にあった縁石でしたたかに頭部を強打した為に意識を失ってしまったらしい。
 画像により、脳への損傷は認められず、その他全身にも大きな損傷は確認されなかったが、念の為に今日はそのまま入院措置の運びとなったのだ。
「ブン太!?」
「丸井…っ!?」
 急にその場が騒がしくなり、ふ、と虚ろな瞳を丸井が横へと向けると、自分と同じ立海レギュラー達が大慌てでその場に駆けつけていた。
「幸村…」
 ぽつんと力なく呼ぶ仲間に、幸村は相手を気遣いながら傍まで小走りに駆け寄り、他の男達もそんな彼らを取り囲んだ。
「大丈夫!? 竜崎さんは…?」
「まだ眠ってる……命は大丈夫だろうって…大きな怪我も、ないって…」
「そう…良かった」
「…幸村から話を聞いた時は驚いたぜよ…まさかってな…」
 流石の詐欺師も、今日この時ばかりは皮肉も影を潜め、真摯な表情で言った。
 病院に到着した丸井から、最初に連絡を受けたのは幸村だった。
 電話の向こうで、やけに興奮し、要領を得ない発言を繰り返す仲間を必死に宥め、幸村は桜乃に大事があったらしいと知ると、すぐに他のレギュラー達にもそれを伝え、伝えられた病院へと駆けつけたのだった。
 あくまでも移動可能な人間だけ来たらいいという達しを出していたが、結局八人ともが揃っていた。
「女性ですからね…大きな傷もなく、命に別状ないというのなら、不幸中の幸いです」
 ほ、と胸を撫で下ろした紳士に、参謀である柳も頷いた。
「入院はしたが、大事無ければすぐに退院も出来る筈だ…」
「うむ…一報を聞いた時には肝が冷えたが…」
 精神修行は積んでいるが、こういう時には何の役にも立たないな、と真田が思っている脇で、不意に丸井が手を伸ばし、幸村の腕を掴んだ。
「…ブン太?」
 掴まれて、幸村はぎょっとした。
 冷たい…まるで氷の様に冷たい手……極限の緊張状態にある証
「…どうしたの?」
 なるべく刺激しないようにゆっくり優しく問い掛けた部長に、丸井は俯いたままひそりと尋ねた。
 よく見ると、彼の全身ががたがたと小刻みに震えている。
「……目が覚めなかったら、どうしよう」
「…」
「…覚めても、俺を許してくれなかったら…どうしよう…」
 今日、あの時間、あの場所で待ち合わせなんかしなければ良かった。
 せめて、『店の中に入っとけ』って言っておけば、こんな事にはならなかった。
 俺が、彼女を、誘ったりしなければ良かった。
 誘うにしても、今日じゃなければ良かったのに…!!
「ブン太、大丈夫だよ。君の所為じゃない…」
 ぽん、と肩を優しく叩いて、幸村は相手を気遣った。
「俺の病気の時と同じなんだよ…少しだけ運が悪かったのさ…けど、俺は今もテニスが出来ている。彼女も…ちゃんと生きて眠っているじゃないか」
「……」
「あの子も分かってるよ。君の所為じゃないって…きっと起きたら、そんなの関係ないって、笑ってくれるさ」
「……そう、かな…」
 そうかな…笑ってくれるのかな…許してくれるかな……?
 皆が丸井の心情を思って、見守っている中、病室の扉が横にスライドして開かれ、中から桜乃の祖母である竜崎スミレが出てきた。
 彼女も、可愛い孫に起きてしまった惨事に少なからずショックを受けて、多少憔悴している様だったが、幸村や丸井達を見たら、すぐに元の気丈な態度に変わった。
「おや、幸村達も来たのかい」
「ブン太から連絡を受けました…竜崎さんは…」
「ああ、今目が覚めたよ…けど…」
「!!」
 相手の言葉を全て聞く事無く、丸井は桜乃が覚醒したという事実を聞いた瞬間、開かれた扉の向こうへと走って飛び込んでいた。
「丸井!? おやめ、お前はまだ…!」
 スミレの、何故か制止する声が聞こえていたが、丸井は構わなかった。
 中は、いつか幸村の見舞いで見ていた様な白が基調の味気ないもので、目当ての人物はすぐに見つけることができた。
 ベッドの上で少女は…桜乃は、上体を起こし、静かにこちらを見つめていた。
 慌てて飛び込んできた丸井の小さな騒動に、少し驚いている様子だ。
「おさげちゃん…っ!」
 良かった! 目が開いて…俺を見てくれている!
 絶望の縁から這い上がり、希望の光を見たように、丸井は嬉しそうに笑って声を掛けながら、桜乃の肩へと手を伸ばして触れる。
 それはいつものこと。
 自分が彼女にいつもしていた、何気ないスキンシップの様なものだった…のに、
「きゃ…っ」
 桜乃は、びくんと大きく肩を揺らせながら、明らかな意志をもって、丸井の手をぱしっと跳ね除けていた。
 かつてない相手の行動に、丸井のみならず、丁度入室してきた他のメンバー達も驚き目を剥いている。
「…おさげちゃん…?」
 何これ…どうして…?
 唖然として自分を見つめてくる赤毛の若者に、桜乃は狼狽し、明らかに怯えた様子でゆっくりと視線を合わせてきた。
「あの…」
 そして、ゆっくりと唇を開く。
「……貴方は…どなた、ですか?」
「!?」
 硬直する若者達の後ろで、明らかに落胆した様子のスミレが告白した。
「…そういうコトだよ……桜乃はどうやら、記憶を失ってしまったようだ」
「記憶を…!?」
 愕然と呟く切原の声が聞こえる中、丸井は真っ直ぐに桜乃を見つめていた。
 いつもと変わらない姿形の彼女なのに…記憶が、ない?
 それって、それってさ……結局、生きてはいたけど…『死んだ』のと同じなんじゃないの…・?
 俺のこと忘れたって言うなら…それなら、謝ったって…意味ないじゃんか…
 謝って…謝ったって……

 ユルシテナンカアゲナイ…

(ああ……やっぱり…そうか…)
 がくんと力が抜けて、丸井はベッド脇で膝をついた。
 許してくれないんだ……でもそうか、そうだよな…
 俺の所為で、アンタ…全部忘れちまったんだもん…大事なコトも何もかも、全部…



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