二つの太陽(前編)
『うわぁ、凄いなぁ、誰だろ……あんなに高い処で…真っ赤で…太陽みたいに綺麗』
立海大附属中学男子テニス部
そこは男子の活動の場所でありながら、いつも女子の声に囲まれている稀有な空間でもあった。
「っ! しまった、返しちまった!」
「よっしゃ! いただきーっ!!」
その内の一つのコートで、賑やかな声が続けざまに上がっていた。
最初の声を出した若者が、試合中であるにも関わらず、既に何かを予見したかの様にボールを返した時点で天を仰ぐ。
そして続いた言葉の主は、赤い髪を揺らしながら、自コートに飛んで来た黄色い球体に向けて、手にしていたラケットをそっと差し出していた。
勢い良く差し出されながらも、それはまるでゆうるりと宙に円を描くように滑らかに操られ、ガットのここぞという位置でボールを受け止める。
ボールの持つエネルギーをガットに吸収させると同時に、手の位置を巧みに操り、そのプレーヤーは難なくそれを打ち返した。
いや。
打ち返したという表現はやや不適だ。
言い換えたら、軽く打ち上げたのだ。
「…へへっ」
赤毛の若者の唇が悪戯っぽく歪められ、その彼が見守る先で、ボールはぽんとガットから跳ね上がると、そのまま相手方のコートへと向かってゆく。
しかし既にガットの上でかなりエネルギーを相殺されてしまっていたそれは、ゆるゆると非常に心許ないスピードで浮き上がり、もしやしたら距離が足りずにこちら側に落ちそうな程の危うさだ。
しかし、打った若者はほんの僅かにもうろたえない。
絶対の自信を持つ笑みは決して失われる事もなく、そのままボールの行く末を見守っていた。
とん…っ
黄色いボールは白いネットの帯上に落ちた…いや、『乗った』。
そしてそれはツツ…とまるで綱渡りをする黄色いピエロの様に帯を数十センチの距離に渡って走り…やがて、絶妙のバランスから逃れて相手方の方へと落ちていった。
正に、ここしかない!という位置に乗せることによって実現することが出来る、小さな奇跡。
「…妙技、綱渡り」
自分の十八番を華麗に披露したその男、丸井ブン太は、ぷうっとガム風船を膨らませながら余裕の態でコートに立っていた。
「どお? 天才的?」
「くそーっ!」
相手の非レギュラーの部員が悔しがるのを楽しげに眺めていた丸井だったが、その決め技がもたらした沈黙が数秒続いた後、コート外から黄色い女子達の声が怒涛の様に聞こえてきた。
『きゃ〜〜〜〜!! 丸井ク〜〜〜ン!!』
『やだ、あの技見られたなんて、今日ラッキ―――――――ッ!!』
『こっち向いて〜〜〜〜!』
最早、何処かのアイドル並の声援である。
送ってくれているのは当然、部活を応援してくれている、同じ立海の女子学生達だった。
「へへ、どーもい!」
にっと軽く笑って手を上げると、向こうの声援は更に大波になって押し寄せて来たが、それを確認するより前に、丸井はさっさかとラケット片手に彼女達とは反対側のコート脇へと移動してしまっていた。
今ので勝負が決まり、今度は別の部員にコートを譲る為だ。
「………」
それから彼はたったったーっと足取りも軽く移動して、やがて少し離れた別コートの脇で、同じく出番を終えていた相棒の傍で立ち止まった。
「………ふい〜」
まだ部活動は今日のノルマの半分も過ぎていないにも関わらず、深い溜息を零した丸井に、相棒であるジャッカルは彼の顔を見遣りながら少し呆れた調子で言った。
「…おい、猫出てるぞ」
「あ〜〜?」
別に本当に何処かに猫を隠し持っていた訳ではない。
明らかに今までは『営業用スマイル』だった丸井が、彼女達の目の届かない場所に来たところで、疲労感も露な表情に激変した事を指したのだ。
所謂、『猫をかぶってた』という事である。
「あからさまな奴だな」
「だって疲れんだもん…あーしんど」
言いながら、丸井が手にしていたラケットでとんとんと自身の右肩を叩く。
「べっつにいいじゃんかよい、向こうにバレなきゃ悪いことした訳でもないしさ」
「まぁそれもそうか」
つーんと不機嫌そうな表情を隠しもしない相手に、しかしジャッカルもそれ以上何も言わなかった。
長年の付き合いである彼は、そしてレギュラー達は知っている。
この丸井ブン太という若者は、一見するとお調子者で女子にも大層受けがいいのだが、実は彼自身、女子に騒がれる事を好んではいないのだ。
と言うよりも、正直、苦手、嫌いな部類に入ると言ってもいい。
きゃーきゃーと間近でやたらと騒がれたら、如何に自分を応援してくれているのだとしても集中を乱されることになるし、もしそれで試合の勝敗に影響が出てきたら、自分にとっては由々しき事態だ。
部長である幸村精市は、『その程度の雑音で乱される程度の精神力なら最初から負けてるんだろう』とにべもなく言い切っているし、それも尤もな話なのだが、邪魔されて面白い筈もない。
それでも、せめて彼女達の気持ちを無碍にしないように笑顔で応えているのは、彼なりの心遣いの顕れなのだ。
別に好きだとか愛してるとかいった告白などしていない以上、裏切ったという事にもならないのだから、その優しさを責められる謂れはないだろう。
「どーも苦手なんだよい、あの媚び売ってる感じがさ…同じ騒音なら車や工事の方がよっぽど楽じゃん」
媚を売っていると本当に思っている訳でもないだろうにそこまで言うとは、随分とストレスが溜まっている様だ。
丸井のそんな様子に、ジャッカルはおいおいと窘めつつ、解決策について提案をしてみた。
「そこまで言うなら、いっそ一度きつく言うなり睨むなりしたらどうだ? 少しは大人しくなるだろ」
「やだ」
しかし、丸井は即座に相手のアイデアを切り捨てる。
「…んな事したら、差し入れが減るじゃんか」
「いつかどつかれるぞお前…」
きゃーきゃー騒がれるのは嫌だが、下手に注意して自分の最愛の甘い差し入れが減ってしまうのも避けたいという事か。
(やれやれ…)
『ふぅん、転校してきたんだ…ここは広いからね…』
丸井の言い分に呆れていたところで、ジャッカルの耳に部長の声が飛び込んできた。
いつもの様に練習メニューの指示だったらそのまま聞き流していたかもしれないが、その時は珍しい単語が入っていたこともあり、ついそちらに視線を向けてしまった。
「…ん? 女の子だ」
「あ?」
ジャッカルの一言に、丸井も反射的に彼が見つめていた方へと視線を向ける。
その少し先では、部長の幸村がジャージを羽織ったいつもの姿で、一人の女子と向き合い、会話を交わしていた。
明らかに立海の制服を着ている以上、ここの生徒なのだろう。
しかしここは男子テニス部であり、彼女は当然部外者に当たる。
本来そういう人物を練習中にこのコートに入れる事は許さない厳しい部である筈なのに、幸村だけでなく、傍にいた副部長の真田や参謀の柳も、今は相手に対して注意や苦言を呈する様子は見受けられない。
何となく興味が湧いた二人は、丁度練習の合間であったという事もあり、彼らの方へと様子を伺いに歩いて行った。
「どしたんだい、幸村?」
「何かあったのか? 女子が中にいるなんて」
彼らの呼びかけに、幸村は穏やかな笑顔で振り返ると、数回首を横に振った
「ああ、二人とも、何でもないよ…迷子なんだ」
「迷子?」
「そう…転校生なんだって」
「女子テニス部のコートに見学に行く筈が、ここに来てしまったそうだ」
柳の補足により、一気に疑問が氷解する。
「あーなるほど」
「ウチ、結構広いからなぁ」
納得しながら、丸井達は何気なくその迷子の少女を眺めてみた。
いかにもまだ着慣れていないといった制服姿。
髪は腰に届く程の長いおさげでまとめられており、顔立ちは自分達より遥かに幼い。
おそらく大きな瞳が彼女をより幼く見せているのだろうが、その目はきらきらと輝いており、とても印象的だった。
「……あ」
不意に、その子の口から小さな呟きが漏れる。
「?」
その視線の先には丸井。
彼女は、丸井の姿を認めると、何故か他の部員には向けなかった興味も露な視線を向けてきたのだ。
しかし、勿論丸井にはそうされる理由に思い当たる節などない。
大体、この転校生には今日この日のここで、初めて顔を合わせたばかりなのだから。
しかし…
「……」
じーっ…
(…何だよい、この客寄せパンダみたいな気分…)
何で俺がそこまで注目されなきゃ…と思っていると、彼女の視線が彼に向いているのに気付いた幸村が、丁度いいとばかりに丸井に声を掛けた。
「そうだ、彼女一人でまた彷徨わせるのも気の毒だから、ブン太、女子のコートまで連れていってあげなよ」
「え? 俺か?」
「うん、丁度試合も終わって空いているんだろう? トレーニングは一時中断で、案内している間は臨時の休憩ってコトでいいから」
「…そういう事なら」
自分は勿論女子のコートを知っているし、何より部長のお墨付きで休憩を貰えるというのは有り難い。
転校生ってコトなら、普段から煩い女生徒よりは静かにしてくれるだろうし…
「分かった、いいぜ」
うん、と頷いた丸井は、軽く顎をしゃくって転校生を促した。
「んじゃ行くか? ええと…」
「……あ、桜乃です、竜崎桜乃といいます」
「そっか、じゃあ行こうぜ、竜崎」
「はい」
少女はにこっと笑って、丸井と一緒に歩き出す。
案内してもらえる事が余程嬉しいのか、その笑顔がやけに明るい。
(…何か、単純な奴)
そこまで嬉しそうに笑うかな…フツー…それに、さっきやたらと俺の方を見てきたのも気になるし…
何だったんだろうと思いつつ歩いていると、不意に桜乃が声をかけてきた。
「あのう…」
「ん?」
「すみません、お名前を伺っていませんでしたけど…あなたは?」
「あ、俺? そういやそうだったな…丸井ブン太ってんだ」
「丸井先輩…ですか」
「そ、丸井。今年三年」
「ふぅん…もしかして、レギュラーさんですか?」
「おう、勿論」
自信満々に頷いた先輩に、その娘は更ににこーっと笑顔を深めて何度も頷いた。
「そうですかぁ」
(だから何だってのい、そのやたら明るい笑顔は…)
気になる…いや、悪い気はしないけどさ…と考えていると、向こうは笑顔のままに実は、と話しだした。
「私、運動音痴なんですけど、入学したのを切っ掛けにスポーツ始めようと思うんです…テニスがいいかなって思ってるんです」
「へぇ」
別に自分にはあまり関係ないな、と思っている丸井とは裏腹に、桜乃は親しみを込めて彼に呼びかけた。
「もし部に入れたら、テニスでも『先輩』になるんですね、丸井先輩」
「ん?」
「宜しくお願いします!」
にぎにぎっ!
積極的に右手を取られて握手をされた丸井は、多少たじろぎながら相手に答えた。
「い、い、いいって! 握手はっ!!」
思わず、自分を取り巻く煩い応援団の事を思い出し、彼は軽く相手の手を振り払いながら前に向き直った。
「い、行くぞ、コートまではもうすぐだからさ」
「はい」
別に振り払われたことに気を悪くした様子もなく、少女はとことこと素直に付いて来たが、丸井は沈黙を守る一方で自分の右手に意識を向けていた。
(び、びびった、いきなり握られるんだもんな……女の手って、随分柔らかいんだ)
さっきの感触を思い出した若者は、はっと我に返ってすぐにそれを打ち消すと、それからは別に何を話すでもなく彼女を無事にコートに送り届け、来た道を戻っていった。
それで全て終わりだった筈なのだ、彼女との付き合いは…
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