仁王のおつかい


「仁王君、お願いがあるのですが」
「んあ…?」
 ある日の昼休み、仁王が教室でのんびりしていると、ダブルスの相棒がそこを訪れてきた。
 いつもなら部活で顔を合わせるので、大体はそこで話せば済む話なのだが…?
「何じゃ? 何かあったんか?」
 椅子に座ったままこちらを見上げてくる相手に、柳生は視線を隠す眼鏡の向こうで、愁眉の表情を浮かべた。
「個人的な件で申し訳ないのですが、明日はお暇ですか?」
「明日? ああ、明日は部活も休みだな、これといって予定はないが…」
「そうですか、それは有り難い」
「?」
 愁眉から一転、嬉しそうに笑う相棒に、逆に仁王は首を傾げた。
「すみませんが、おつかいをお願い出来ませんか?」
「おつかい?」
「はい、実は私のラケットの一つを、調整を兼ねてガットを張り替えてもらう為に行きつけの店に預けていたのですが、先日出来上がったと電話がありまして…それを受け取りに行って頂ければと」
「ほう、どこじゃ」
「東京です」
「…・東京」
「はい」
「ここは?」
「神奈川」
「遠いのう」
「遠いですね」
「そこに行けと」
「はい」
「お前さんが行けばええじゃろ」
「生憎その日は、叔父とゴルフコースを回る約束になっていまして」
「……」
 打てば響く相手の後ろめたさゼロの返答に、仁王は窓の外を遠い目で眺める。
 しまった、柳生相手だったから、隙を見せてしまったか…
「すまんが急用をたった今、思いついた」
「ではそれは却下で」
「柳生…お前さん、そんなに親友を失くしたいんかの〜」
 声のトーンを下げ、ぬぅっと立ち上がって迫る仁王に、柳生は全く怯む様子はない。
「いえ、親友だからこそお願いしたいんです。ガットの調子とか、やはりテニスに関して素人の人には任せたくないでしょう? それに仁王君なら、僕のスタイルとかも熟知していますしね、もし不備があったら、店の人にそれを指摘して頂ければ」
 正論過ぎる程に正論だ。
「…責任重大じゃのう、気が進まんな」
 はぁ、と息をつく仁王に、彼の相棒はふむ…と再び眉をひそめた。
「…駄目ですか?」
「んー…」
「残念ですねぇ」
 くるっと柳生は背を向け、くい、と眼鏡を押し上げた。
「折角、叔父がアメリカから持ってきた、珍しい高価なダーツ矢をお礼に差し上げようと思ったのですが…では少々不安ですが、赤也君にでも」
「で、店はどこじゃ」
 結局、今回の軍配は柳生に上がったようだ。


 その日曜日…
(はぁ…まぁ来てしまったもんは仕方ないのう。早く終わらせて、折角じゃから何処かぶらついて帰るか…)
 幸い天気は良好の休日、仁王はカジュアルに身を包み、柳生に貰った地図を見ながら目的地に向かっていた。
 少し都会からは外れた店だが、結構評判の良い穴場らしく、利用客も多いと聞いた。
「俺は別にこだわりはないが…もし腕が良かったら世話になってみるか、しかし、遠いからのう」
 地理的な問題は如何ともしがたい…まぁ、全てはその店を見てからだ。
「…ここか」
 分かりづらい場所にあるのでは、と懸念していた仁王だったが、それは杞憂に終わる。
 近くに民間の共用テニスコートがあるというアドバイスが記載されているのが良い目印となり、彼は存外早くに目的地を見つけることが出来た。
 そこそこの規模の店であり、見た目も小奇麗だ。
 ガラスドアの向こうに透けて見える店内も結構広い。
 きいとドアを開けて入ると、既に中に入っていた客たちの声が聞こえてきた。
 子供から年配まで、その年齢層は幅広かったが、近くのコートの存在と、店の中にディスプレイされているラケットの品揃えの豊富さを見ると、それも納得だ。
「…予想以上じゃな」
 仁王の表情が楽しそうなそれに変わる。
 当初は気乗りしなかったおつかいだが、やはり根がテニス好きの為だろう。
 見ているだけでも楽しくなり、仁王は暫くおつかいの目的も忘れ、先ずは店内をくまなく散策することにした。
「ほう、センスもいいのう…確かに柳生が喜びそうじゃ」
 ついつい色々な品物が目に入り、手にとってしまう…
 自分が行く店より、もしかしたら品揃えも良いかもしれない…あまり他の店では見慣れない銘柄の物も見かける。
 仁王は、どうしてこんな遠い場所にある店に柳生がわざわざ足を運んでいるのかを理解した。
 確かに、ここなら遠出をする価値はある。
(今日はあまり予算がない…品物の目星だけつけとくか)
 もし欲しいものがあったら、チェックだけして後日にしよう。
(そうじゃ、今度は柳生におつかいに来させようか)
 ささやかな仕返しを考えつつ…仁王はようやくそこで本来の目的を思い出した。
(いかんいかん、そろそろ用事だけでも済ましておくか)
 店員に言って、柳生のラケットを受け取らなければ…・もう代金は先に払っているということだったから、話は早く済むだろう。
 てってって、と足取りも軽く彼は店の奥、レジへと向かった。
「……っ」
 仁王の足が途中で止まる。
 レジが見えてきたところで、その前の通路に、見覚えのある物体があったからだ。
 腰まであるおさげをした少女…が一人、先客として店の従業員と談話している。
(あの身体の小ささ、あの線の細さ、あのおさげの長さ……間違えようがないのう)
 まず間違いなく、竜崎桜乃…彼女だ。
 青学の中学生で、そこの中学男子テニス部とも縁のある人物である。
 既に彼女には何度か会っており、それなりの縁もあり、最早知己とも呼べる相手なのだが、それでも仁王はこの巡り合せに首を傾げた。
(……最近、やけによく会う気がするの〜〜)
 別に待ち合わせている訳でもなければ、自分がそうなるように仕向けている訳でもないのに、この遭遇率の高さは何だろう…いや、嫌ではないが。
「取り敢えず…偵察開始」
 ここで挨拶という基本行動に移らないのが彼らしい。
 銀髪の詐欺師はとっとっと…と軽い足取りで、殆ど音もたてずに少女の背後に忍び寄る。
 流石にすぐ後ろになると、彼女と店員の会話も筒抜けだ。
「桜乃ちゃん、テニス頑張ってるかい? 今日は青学の皆とは一緒じゃないんだね、一人かい?」
 白髪の混じった壮年の店員がにこやかに話しており、胸につけているネームプレートの肩書きから、どうやら彼がこの店の店長であることが分かった。
 そして、やはり背中を向けている少女が、自分の予想していた相手であることも。
「はい、今日は休みだし、私個人の買い物だから。それに買うのもボールだけだし…」
「ふぅん、でも折角だ、色々見て行ってくれよ。それにたまには、良いデートの口実になるじゃないか」
「そっ、そんな、デート…なんて…私、その」
 どもりだす桜乃の煮え切らない言葉に、仁王は思い切り哀れみの表情を浮かべる。
(あの越前相手にそんな消極的じゃいかんぜよ…ま、いつも隣でバカがつく程騒いどる女もどうかと思うが…)
 桜乃が恋慕しているのはあの青学の一年生レギュラー、越前リョーマだろう。
 自分達と同じぐらいのテニスバカである少年を振り向かせるには、それなりの手管も必要だ。
 同じ中学なら一緒にいる時間が長い分、その中で惹かれ合う可能性もゼロではないが…見ていてもどかしい。
(…って、人の色恋沙汰に首突っ込むとは俺らしくもない、何考えとる)
 どうにもあの夏祭りから、この子についてはつい感情移入をしてしまいがちになっているらしい、と自己分析し、仁王はいかんいかんと無意識のうちに己を嗜める。
「そう言えば、青学とは別の中学の子もよくここに来るんだが、最近ではあの立海のテニス部の子も来てるんだよ」
 自分の通う中学の名を出され、ぴく、と彼の注意がそちらに向くと同時に、桜乃も店長の台詞に大いに反応した。
「え!? 立海の皆さんも!?」
「ああ、男子だけどね。桜乃ちゃんも知っているの?」
「は、はい…たくさん、お世話になりました」
「そうか、君たち青学側にとっては因縁のライバルだが、切磋琢磨し合うのはとてもいい事だ。彼らもとてもいいテニスプレーヤーだからね」
「はい、優しい人達です」
(いや、そこまで手放しで褒められると照れるの〜)
 自分一人の評価ではないが、聞いていて悪い感じはしない。
 後ろで当人達のうち一人に筒抜けになっているとも気づかずに、桜乃はまだ店長と話しこんでいる。
「しかし桜乃ちゃん、立海の人といつ知り合ったんだい? 彼等は神奈川だから、そんなにしょっちゅう会うこともないだろう? 試合の時に、一緒になる機会があったのかい?」
「あ、いえ…最近何度か会う機会があって…私がドジだから、助けて下さったり…」
「ほほう〜、まぁそりゃねぇ、桜乃ちゃんは可愛いから男の子達も喜んで助けてくれるんじゃないか? リョーマ君も、うかうかしてられないな」
「も、もう、おじさんたら…あ、でも、ここにいらっしゃる立海の人って…?」
「うん、そりゃ当然一人だけじゃないけどね。確かレギュラーの人もいたはずだよ」
「そう、ですか…どなた、かな…」
「おや、桜乃ちゃん。もしかして、立海の誰かに気になる子でもいるのかな?」
「い、いいいいいいいいいええっ!!! そそそそんなっ!!」
 おさげが水平になる程に首をぶんぶん振って、桜乃は必死に否定し、その面白すぎる反応に遂に仁王が背後から口を挟んだ。
「そこまで否定せんでもええじゃろうが…」
「きゃあああああああああああっ!!!!」
 悲鳴を上げながらずざざざっと見事に瞬間移動で離れた少女は、仁王の姿を確認してぱくぱくと口を開閉させる。
「にっ…ににににににににっ!」
「ににんがし、か? 人の顔見て速攻九九とは、勉強熱心じゃの〜」
 に〜っと面白そうに笑う少年は、早速桜乃をからかいにかかる。
「仁王さんっ!?」
「おひさじゃの、竜崎。越前はどうした? こんな天気のいい日曜日には、健全な女子は男の一人も騙くらかしてデートに行くもんじゃよ」
「〜〜〜〜〜〜〜!!」
 声もなく真っ赤になってしまった桜乃は、まだ身体の緊張を解こうとせず、仁王に対して構えの姿勢をとっている。
 事の成り行きを見守るしかなくなっている店長からしても、とても和やかに話している知人同士、には見えない。
「…・なんじゃ、そこまでびっくりせんでもええじゃろ」
 ちょっと驚かしてしまったか、とは思ったが、それにしても反応が過敏過ぎる…
 何だか自分が悪人にでもなってしまったかのようだ。
「すっ…す、すみませんっ! あのっ…仁王さん、私服だったから、びっくりしちゃって…! あのっ、男の人みたいで、驚いてしまって…・っ!」
 桜乃の答えも何気に酷い。
(……今まで何だと思われとったんじゃ……?)
 確かにこれまで会った時は、テニスウェアを着ていたり、浴衣を着ていたり、普通の洋服ではなかったが…
 男じゃなかったら何なんだ、と心の中で汗をかきつつ突っ込んで、暫く仁王は沈黙する。
 別に怒っている訳ではなく、彼なりに彼女への対応を考えていたのだ。
(相変わらず読めん子じゃ…俺でも振り回されそうになるとは。しかも、本人自覚ないし、それ以上に悪意ないし…)
 悪意ない人間を責める程、自分の心は狭くはないはず。
 しかし、こういう性格の人をどう扱えばいいものか…・
(…まぁ、結局普段通りにするしかないのかの…騙す必要性もないし)
「あ、あの…あのう…」
「ああ、ええよ、別に怒っとらんし」
「あの…す、すみません、すみません…」
「いや、ええから、そうコメツキバッタみたいにお辞儀ばっかりしとったら、腰痛めるぜよ」
 数えただけでも十回はお辞儀をしたであろう相手の腰を本気で心配しつつ、仁王はようやく店長と会話するタイミングを得た。
「すまん、立海の柳生ってヤツがラケットを預けとったはずじゃ。代理で取りに来たんじゃが」
「あ、ああ。柳生比呂士君、だね。確かに昨日、電話を受けてるよ。代理の…ええと、仁王君、かな?」
「ああ」



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